◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その6
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<2024年7月30日>
5番台の命題群は基本的にずっと記号論理学の説明をするシークエンスとなる。
「5.45~」論理学と論理記号の性質について。原始記号があるとしたら、新しい便法を導入するには、など。
「5.47~」命題の一般的な形式。
「5.5~」〔ξ ―〕(クシーの上に横線)の導入とその説明。
おそらくここのシークエンスでは、ウィトゲンシュタインの利用している記号論理学のベースがフレーゲ、ラッセルの記号論理学のルールであり、そのベースとしてあるルールに新しいウィトゲンシュタインなりの便法を導入してはどうか?と考えている段階であると考えられる。
例えば記号ルールを一つ加えるとしても、その体系の全てに影響を与えるので慎重にすべきだ、という事なのだろう。
特に新しく導入される〔ξ ―(ギリシア文字のアルファベット「クシー」の上に横線)〕の説明は6番台の命題にも関わってくるので記号としての使い方は覚えておくべきであろう。
クシーは変項で、ある命題群の値を代表する記号である。例えばクシーが3つの値P、Q、Rを持つものである場合、記号で表現すれば
〔ξ ―〕=(P,Q,R)
と表記する。これにNをつけるとカッコ内全ての命題を否定する。
つまりN〔ξ ―〕と表記すれば「Pではなく、Qでなく、Rでもない」という意味となる。
これが「5.5」で書かれた「真理関数はいずれも、要素命題に操作(----W)(ξ……)を継続的に用いた結果である」の内容である。
このように『論考』では、4番台以降から様々な記号が出てくる事となるが、これらの記号の定義はちゃんと覚えていないと、あとあと混乱の元となってしまう。
そして、ここで注意が必要なのは、これらの記号はその使い方の全てを『論理哲学論考』の中では説明していないという事である。
何故か? それらのベースはほぼフレーゲやラッセルの築き上げた記号論理学をベースとしているためである。
だから、説明もなく例題などにポッと出てきた記号が、後から調べてみるとフレーゲの利用していたものであったという事が解ったりする。
そういった事情が絡んでくるため、ぼくも5番台の命題群を読んでいてかなり苦労させられている。
念のため、メモも兼ねて『論考』で使われているものの、『論考』内では定義を説明していない記号について解説をしておこう。
<アルファベット「∃」について>
論理記号の中には「量」を表現するものがあり、これを「量化子」と呼ぶ。「∃」も量化子の内の一つである。
これについては野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』に簡潔に説明がなされているので引用しよう。
上の説明の内「○○がある」「○○が存在する」を意味する存在量化子の記号が「∃」であり、『論考』には出てこないが「全ての○○」を意味する全称量化子の記号が「∀」となる。
<アルファベット「f」「x、y、z」「p、q、r」について>
この命題「4.24」については完全に油断していたのだが「fx」という表記の仕方は、後から調べてみると論理学の表記ルールである事が分かった。
この「fx」も、後半になってからしばしば見かけるようになるので意味を把握しておいたほうが良いだろう。
「fx」は命題を表現する方法で、上に書いているように「x」は個々の対象を表す「名」の事となる。それに対して「f」は述語という関係になる。
そのため「fx」は言葉に直すと「xはfである」といった感じになる。つまり、命題は「名」を組み合わせて作られるものだというわけである。
例えば「カラスは黒い」という命題の場合は「カラス」が「x」で「黒い」が「f」という事となる。
こういった命題は「fx」と分けて書かずに、「p」や「q」と書かれる場合があり、この場合は命題pと命題qとの関係性を示す複合命題を作る際などに使われる。
この「fx」という表現方法を論理学では「命題関数」と呼ぶのだが、それはこの「fx」によって「真/偽」のいずれからの値が出力されるからである。
さて、ではどうしてこのように論理を考えるうえで命題を記号化しなければならないと考えたのか。
それはフレーゲの考え方に従っているからで、フレーゲは命題の中にある個々の「名(対象)」の内容が「論理的か否か」に関わっているのではなく、具体的な対象ではない、それらの間の関係性こそ論理の本質があると考えていたからであった。
だから、個々の対象については「x」や「y」といったアルファベットで表記し、それらの関係性を表す「~(○○ではない)」「・(○○かつ○○)」といった記号を使って、対象間の関係性のみを抽出して検証できるようにした。
これによってフレーゲは「何が"論理的"な推論と呼べるものなのか?」という事を検証しようと考えたわけである。
重要な事なので、ここで再度、鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』にまで戻ってフレーゲの論理学の説明をおさらいしよう。
つまり、論理学においては、それぞれの経験的な事実と言うものを問題にしないのである。
<推論2>は「経験的には事実」であるにも関わらず、「推論形式としては、論理的ではない」といったたぐいの推論となる。
何故なら(前提)と(結論)の間には「死なない人間は存在しない」という経験的な事実を暗黙の裡に導入しているために推論のタイプとしては「論理」的な考え方ではない、とされてしまうのだ。
要はフレーゲ的な記号論理学で問われているものとは、経験的な事実がどうこうという事なのではなく、「推論の"仕方"が論理的かどうか?」という事なのである。
そのため「推論の"仕方"」を純粋に検証する方法として、個々の具体的な対象の名前を問題にしないように「x」と記号化し、その推論形式を数学のように処理する方法を採用したというわけなのだ。
例えば、上に引用した文の内<推論1>を記号化すると、以下のようになる。
――――――――――――――――――――――――――――
(前提1)ナマズが暴れれば、近いうちに地震が起こる。
(前提2)ナマズが暴れている。
(結論)故に近いうちに地震が起こる。
「ナマズが暴れている」という命題を「p」とし、「近いうちに地震が起こる」という命題を「q」とすれば……
(前提1)p⊃q (「⊃」は「○○ならば○○」という意味)
(前提2)p
(結論)q
――――――――――――――――――――――――――――
このように表現でき、この推論を西洋では伝統的に「肯定式」と呼んでいた。
『論理哲学論考』では、このように命題を具体的な文章として例示してくれる事は一切なく(具体例を挙げていない理由は前回の記事を参照の事)、全ては「命題p」や「fx」等といった記号やフレーゲの論理学の用語で説明されるので、特に論理学に詳しくない読者はこの辺りで理解が追い付かなくなる人も多いかもしれない。
ちなみに、ウィトゲンシュタインは、フレーゲやラッセルの記号論理学を『論理哲学論考』の体系の中に導入しなければならない理由付けを「3.324~3.325」番辺りの命題群で解説している。
平たく言えば日常語というのには様々な修辞が使われ、比喩やシンボルなど「表現」としての様々なやり方がある。だから、表面的には一見、同じ事を言っている様に見える文章であっても、微妙に内容が違っている場合もありうる。「表現」が同じでも「内容」は違っている……というのが取り違い、勘違いに繋がってしまう事もある。
そういった取り違いを起こさないためには――特に厳密な論理を扱わねばならない哲学の分野では――言語の"論理的"構造をむき出しにした「記号論理学」による基礎づけが必要なのだ、というのがその理由の一つとしてあるようだ。
しかし、これは彼の後期思想にて「厳密主義」的であるとして修正を迫られる自身の思想の痂疲となった……という事から『哲学探究』の内容に移るのである。
◆◆◆
ところで、ウィトゲンシュタインは何故「言語」の構造は論理的に出来ていると主張しているのだろうか?
実は、これについては『論理哲学論考』の中に明確な理由付けを行っている箇所があるかと思っていたのだが、どうも今まで読んできた感じでは、明確な理由付けは行っていないらしいと、今更ながらに気が付いた。
この疑問については「おそらくああいう理由があるんだろう」という目星はつけていたのだが、『論考』も後半に入ってきて、いよいよその明確な理由付けも出てこないだろうと踏んだので、それについて書こうと思う。
それは、西洋では古代ギリシアの昔から、伝統的に「文法と論理が一致するのは当たり前の事だ」という考え方があり、正しい文法と正しくない文法を「論理」によって判定していたという事情があったからである。
古代ギリシア人は、ギリシア語の中に「論理」を見出し、言語と論理とを同一視し始めた。そして、それをフランス人が継承してそれが近代までの「言語における固定概念」となった……そう主張したのは、近代言語学の祖と呼ばれるソシュールであった。
ソシュールは『一般言語学講義』の中で、ギリシア人が編みだしてからヨーロッパに継承されている「文法」に関する強固な固定概念について批判している。
この考え方は後年チョムスキーによって覆される事になるが、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を書いた時代の西洋の言語観というのは、おそらくソシュールの主張する「強固な固定概念」が支配していた時代であったろうと思われる。
ウィトゲンシュタインが、言語には論理と言う構造がベースとしてあるという前提に立って『論考』を考え始めたのにはそういった背景があったのであろう。
◆◆◆
さて、以下は完全に余談となってしまうので、『論理哲学論考』の内容のみしか興味がないという方は読み飛ばしてしまっても構わない内容になるのでご了承のほどを。
最近ふと思い立って、過去ほかのSNSにUPしながらも「大した内容がないな」と思ってボツにしてしまった原稿を再読しているのだが、その中にも改めて見てみると悪くはないなと思えるものもあるので、機会があったら加筆訂正して再UPしようかとも思っている。
特にフッサール系の原稿はほとんどボツにしてしまっているので、いくつかは見直してもいいんじゃないかと思い直している。
で、5年ほど前に読んで未だにぼくの中で評価の高い美術評論書にハーバート・リード『イコンとイデア~人類史における芸術の発展』というのがある。
これについて当時書いたレビューを久しぶりに再読してみたのだが、いま読んでいるウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』とは真逆のテーゼを主張している事に気付いて、時間があれば参考まで、今一度再読してみたいなァと思ったのである。
この『イコンとイデア』のテーゼは非常にシンプルで「イメージが観念に先行する」というものであった。そもそもこの『イコンとイデア』というタイトルも、意訳すると「イメージと観念」となる。
この本で主張している事は「科学的な観念やロジックと言った歴史を常に動かしてきたと思われる人間の能力の前に、常に人のイメージ的な想像力が優先して確立してきた」といった感じの内容であった。
それに対して、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のテーゼの一つは、人間の言語と思考のベースは「論理」をその基本構造としているというものである。真逆の主張だ。
上にも書いたように、西洋における歴史的な認識としてはウィトゲンシュタインの主張するテーゼのほうが主流を占めてきたと言えるだろう。
特に、イメージ的な想像力を駆使して来た「美術」というものは、古代ギリシアから様々に論究されてきてはいたものの「生きていく上で必ずしも必要でないもの」「無くても問題ないもの」「歴史の上で重要でないもの」という認識がなされてきた。
何より古代ギリシアのソクラテス-プラトン-アリストテレスから始まる西洋思想の流れは、理性とロジックを重視する考えであって、それが近代まで脈々と流れてきたのである。
それに対し美術批評家であるハーバート・リードは、人間のベースとなる能力は図像的想像力、イメージする能力である……と言う風に主張するわけである。
リードは『イコンとイデア』にて、古代まで遡って歴史的に「人間の能力は、ロジックではなく、常にイメージが先行してきた」という歴史に読み替える試みを行う。
そして、人間の思考は「図像的想像力」の土台の上に築き上げられてきたものだと主張するわけである。
これがなかなかエキサイティングな議論になっているのである。
リードのアイデアの中には、やはり東洋で「漢字」が発展して来たように「象形文字」という図像イメージがベースとなって言語が成り立ったという考えがあったのだろう。
ヨーロッパ人が伝統的に言語のベースを「論理」と捉えてきたのは、古代ギリシア人が言語の分析を「書かれた文字」によって分析し始めたからでもあった。
だが、言語はもともと古代から「音」が先行してあったし、そして人間の歴史には「文字」や「文章」よりも先に「絵」があった。そういった事情が『イコンとイデア』の発想としてあったのだろう。
例えば、リードは古代からの「神々」の描かれ方を例にとって、自説を証明しようと試みる。
古代宗教の「神」の表現として、獣と人の合体した「獣人」の図像がしばしば見られるのは何故なのか。
代表的なものはエジプト神話のアヌビスやヒンドゥーのガネーシャ、インドのガルーダ、ギリシャのミノタウロス等々。2万年前のクロマニョン人の残したラスコー壁画にさえ、鳥の頭をした呪術師の絵が描かれている。
人間は超常的な力を持った「神」という存在をイメージする際、どう図像化すればいいか問題になったはずだとリードは考えた。
現代のように「人間そっくり」の図像を「これが神のお姿です」と見せても、それでは人間と区別がつかない。
そうではなく、人間のイマジネーションはまず初めに「神」的な存在を想像して「人間でもない、自然の存在とも違う、何か特別な存在である」という表現として、一目で分かるイメージとしての「人間と獣の合わさったハイブリッド=獣人」という図像を開発した。
古代、人間は「超常的な力」を考えるための一つの表現として、このような「獣人」をイメージしたのである、と。
人間は「神」というものを論理的に想像して作り上げたのではない。何となくの「超越的な諸力」の図像的イメージとして「獣人」という絵に結実させた。
そういうイメージを「思考」によって発展させていきながら「神」という観念を後から作り出していった……それがリードの言う「イメージが観念に先行する」という意味なのである。
物事の重要な観念は、図像的なイメージが先行してそれがベースとなり、それを人間の思考によって発展させていった。
だから、西洋世界では「主知主義」の伝統によって見えにくくなっているものの、人間のベースはロジックではなくイメージなのだ。……それがリードにおける『イコンとイデア』のテーゼであった。
この主張をリードは、古代から徐々に時代を登って様々な図像に言及しながら証明しようとするのである。
が、それでもこれはあくまで「人類学」や「考古学」などといったジャンルの知見を用いた仮説にすぎず、「仮説」としては抜群に面白いものの、やはり「証明した」と呼べるほどの強固な証拠になっているわけでもないのが惜しい所でもあった。
リードは恐らく、20世紀思想のトレンドの一つでもあった「西洋的な主知主義の転覆」というテーマを、美術批評と言うスタンスから試みたかったのかもしれない。
◆◆◆
※以下、「◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その7」に続く。
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