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◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その3

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◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その1|オロカメン (note.com)
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その2|オロカメン (note.com)

<2023年6月18日>

 ぼくはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は「命題集」といったような記述法で書かれていると何度も書いているが、それはウィトゲンシュタインがわれわれ人間の使っている「論理」のルールを細かく規定する必要があったからだろう。

『論考』で扱われているものには「言語」「論理」「思考」「現実」という複数の位相について、それぞれどのように紐づけられているのかという、その対応関係を示さなければならなかった。

 そのために「1.13 論理空間内の事実が世界である。」(中平浩司/訳)や「2.11 像は、論理空間の状況をあらわしている。事態が現実になっていることを、そして事態が現実になっていないことを、あらわしている。」(丘沢静也/訳)などといった形で、「論理空間」や「(現実の)世界」について、どちらがどうなっている……といった事について何度も何度も言及し明晰化しているわけである。

 人間が普段使っている言葉には、本人らは気づいていない部分も含めて「論理」という構造を持っている。
 だから、人間は「思考」ができ、推論ができている。それが人間的な思考に繋がっているのだ、という考え方なのである。

 同時にリーダー(※例題として挙げた「サバンナに住むヒトの集団のリーダー」)は「豹が来れば大蛇は来ない。豹が来た。だから大蛇は来ない」と語ることにおいて、自分で意識しないまま肯定式という推論形式を示しているのである。リーダーの「語り」に示されているのは推論形式ばかりではない。「大蛇は来ない」という命題において、彼は大蛇なるものが存在すること、それは来るかもしれないものであること等を、語ることなく示し、この示されたことのおかげでメンバーは彼が語ったことを正しく理解したのである。このように我々が何かを語るとき、語られず示されているものが常に存在する。それは我々の語りを支え、「語ること」と「語られたことを理解すること」を可能にしている言語の暗黙的機構・暗黙的前提としての論理である。

鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』P.77より引用

 このように、われわれが考える時に無意識に利用しているルールが「論理」というルールなのである……として、この「論理」のルールを解明すれば、それが即ち人間の思考のルールとなっているとウィトゲンシュタインは考えたのである。

 例えば、最近ではシジュウカラが人間とは違う独自の言語を持っているという研究が話題になったが、シジュウカラ等の動物と人間の言語との違いは「論理」という構造を持っているか否かの違いなのだ、というわけである。

 動物は鳴き声などで周囲の仲間に「警戒しろ」や「集まれ」といった信号を送ってコミュニケーションを行っているが、人間のように未知のものに名づけをし、それを組み合わせて「推論する」といった事まではできない。

 人間が特殊な動物なのは、人間の持っている「発声」や「文字」といった記号によって「論理」という構造を持った思考を行う事ができるという点にある。

 では、なぜ人間は現実世界にあるものを「論理」によって思考する事が出来るのか?……この問いを解決するために、命題「1~3」番台で現実世界と論理との関係を細かく規定していっているのだ。

 しかし、日常語は非常に曖昧で、上の引用文に示したように人は「論理」を暗黙的に理解して使っているだけである。
 だから『論考』では、人々が交わしている会話の裏に出来ている「論理」と言う構造を明晰化して示す必要があったのである。

 その「論理」の明確なルールを示すためにウィトゲンシュタインが利用したのが、フレーゲ-ラッセルの流れで勃興してきていた「記述論理学」であった。だからこそ「人間の言語能力の限界を示すもの」として「記述論理学」の説明をする必要があったわけである。

◆◆◆

 現在『論理哲学論考』と併読しながら読み進めている野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』だが、ちょっと想定外だったのは、この本が『論考』の命題を順に精読していく内容ではなく、『論考』の「テーマ」ごとに「精読の成果」としての著者の結論を説明していくという内容だった事であった。

野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫

 つまり、この本は『論理哲学論考』と同じ順番に解説が進んでいくわけではなく、解説は前後行ったり来たりする場合があるという事である。

 当初の目論見だと、まず『論考』を一定の部分まで読み進め、自分で色々とその中身について考えてから、その考えと野矢茂樹の考えとを比べて見る……という進め方だったのだが、これができなくなってしまった。

 と言う事で、野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』は今後、『論考』の読み進み方とはまた別の内容を持った進展具合で読み進めて行く事となりそうである。

 しかし、この野矢茂樹の本は、ぼくにとっては非常に参考になる。

 注意しておきたいのは、ぼくが今まで参照して記事にしてきた飯田隆『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』や鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』といった解説書は、ウィトゲンシュタインの「言語哲学」の側面がメインとなった解説書であった。

 それに対して野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』は、ウィトゲンシュタインの「論理学」や「分析哲学」といった側面の解説がメインとなっている。

 この違いは、なかなか面白い。

 飯田、鬼界の解説書は、ウィトゲンシュタインの遺稿研究を踏まえて、彼の生涯に渡っての思想の流れを解説していく内容であった。
 そうなると自然、ウィトゲンシュタインは『論考』について、何度も引用しているように「論理的命題に関する作業は私の主要な論点からすればたんに付随的なこと」と考えていたほどであるから、彼の生涯の思想全体から考えれば、その重要性と言うのは大きくはない。

 ウィトゲンシュタインの後期思想の代表作と言われる『哲学探究』が日常語の分析に充てられているという事を考えても、彼の「全生涯の思想」というものを考えれば、生涯にわたって考え続けたのは「言語哲学」なのである。

 しかし、その後の影響関係として『論理哲学論考』が「論理学」的な部分で分析哲学や論理学に大きな影響を与えたと考えれば、矢野が『論考』の論理学の面に注目するのはしごく当然の事だろう。

 と言う事で、四冊のウィトゲンシュタイン関連本を読んできたぼくとしても、今回の野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』は、今までとは全く違ったウィトゲンシュタイン思想の側面を見せられているという面白さを感じている。

……しかし、上にも書いたように、矢野の本はあくまで『論考』の内容と順番を同じくしていないため、『論考』を読み進めて分からない部分があった場合、ぼくは矢野の本ではなく、鬼界や飯田の本に戻らなければならくなってしまったのである。

 って事で今回のウィトゲンシュタイン研究は、もうちょっと時間が長くかかりそうな予感がする。ちゃんちゃん。

◆◆◆

 フレーゲ-ラッセルの論理学というのは、『論理哲学論考』がどういう時代に書かれたのか、その時代に問題となっていた事は何なのか、そしてウィトゲンシュタインが「論理」というテーマを扱った理由は?という問題全てに関わっていると言っていいだろう。

 特に『論理哲学論考』に出てくる「論理形式」や「対象」「名」といった単語は全てドイツの論理学者ゴットロープ・フレーゲに端を発する論理学に由来しており、ウィトゲンシュタインが『論考』で扱っている「論理」の問題も、全てはフレーゲの論理学に由来する問題であった。

 だから、だいたいの『論理哲学論考』の解説書には、この本を理解するにはフレーゲやラッセルの説明が欠かせないと書かれている。

 フレーゲは当初注目を受けなかったが、古代ギリシアのアリストテレスが整備してから長い間刷新されていなかった伝統的な論理の問題を『概念記法』によって刷新しようと試みたのである(アリストテレス以来の2000年来の革命と言われる)。

 これは人間の論理的な推論を記号に変えて整理し、論理的な操作をある種の計算に転換する方法であった。
 勿論、人間のあらゆる推論が「論理」であるというわけでもなく、フレーゲの概念記法によって成される事とはまず「論理とは何か」をはっきりさせる体系化であり、ウィトゲンシュタインはこの考え方に影響を受け「論理とは何か」という問題に取り組む事になったのである。

 そもそも19世紀末~20世紀初頭というのは、あらゆる西洋的な学問が、その根拠や正統性を根底から問い直された時期だったと言っていい。そのために、様々な学問で革命的な発見や新説が立てられたのである。

 論理学の分野も、その例外ではなかった。

 例えば、推論と言うものは色々あれど、何を以てして「論理的」と言えるのか。「論理的」なものが推論として信頼できるというのならば、どうして「論理的」な推論とは信頼できるのか。そして、「論理的」な推論とそうではない推論とは、何を以てしてその違いを説明できるのか。

 こういった論理学の根底を問われている時期、フレーゲの学説はある種の大転換をもたらす事になったのだ。

 フレーゲの論理学がその後、有名になったのはラッセルが宣伝したところも大きい。

 が、後にラッセルはフレーゲ論理学の決定的な弱点を突き、フレーゲに「自らの仕事を完遂した後に、それが土台から揺るがされる事態に逢着することほど望ましからぬことはない/この巻の印刷が終わろうとしていたそのときに、バートランド・ラッセル氏から送られてきた手紙によって私が立たされることになったのが、まさにそうした状況であった。」とまで言わしめる事となった。

 いわゆる「ラッセルのパラドクス」である。

 wを「自分自身に述語づけられない述語である」という述語とします。そのとき、wは自分自身に述語づけられるでしょうか。いずれの答からもその反対が帰結します。それゆえ、wは述語ではないと結論せざるをえません。

野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』P.81-82より
ラッセルからフレーゲへの手紙の抜粋部分より引用

 要は今ではよく知られる自己言及パラドクスがここでフレーゲの論理学の体系を揺るがしたわけである。

 そして、この「ラッセルのパラドクス」を自ら解決する理論として、ラッセルは「タイプ理論(階型理論)」を生み出し、それを組み込んだ体系としてまとめ、ホワイトヘッドとの共著として『プリンキピア・マテマティカ』を世に問うた。

 この『プリンキピア・マテマティカ』が出された翌年に、ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルのところへ行ったのである。

 ラッセルはケンブリッジでウィトゲンシュタインの師として指導を行い、『論理哲学論考』の出版にも寄与し、その序文まで書いている。
 このような流れがあるからこそ、ラッセルがウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を完全に「論理学をテーマにした本」だと受け取ったのは無理もない事だろう。

 しかも、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には、フレーゲやラッセルの理論の誤謬を指摘し、自ら「ラッセルのパラドクス」を解決する別種の方法の提案までしているのである。

 特に『論考』の命題「3.3」番台には、具体的にラッセルの誤謬について論じ、その解決法を提示する命題群が登場する。例えば次のような命題に。

3.331 この初見からラッセルの「階型(タイプ)理論」をつぎのように見てよい――記号規則の設定にあたり記号の意義を論じなければならなかったところに、ラッセルの誤謬は明白である。

(中平浩司/訳)

3.333 (略)こうしてラッセルの背理(パラドクス)は片がつく。

(中平浩司/訳)

 自己言及的なパラドクスを解消するためにウィトゲンシュタインが考案したのは、物凄く簡単に言えば、命題に対して「有意味/無意味(ナンセンス)」の区別によって「意味のない命題」を体系から弾く仕組みを作ったという事にあるだろう。
 自己言及文にも、悪さをするものと悪さをしないものがあるのだから、これによって自己言及文も論理学の体系の中に組み込む事が出来るようになる。

 自分自身が定義域に含まれているときには、その結果生じる自己言及文が有意味であることは保証されている。もしその自己言及文がナンセンスならば、定義域から自分自身を排除すればよい。解明とはそういうことである。しかし、定義域に自分自身が含まれていないならば、自己言及文を作ることはできない。かくして、ラッセルのパラドクスは生じない。

野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』P.96より引用

 なお、ウィトゲンシュタインが「ラッセルのパラドクス」を解決した方法に関する説明について詳しくは、野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の第4章「これでラッセルのパラドクスは解決する」を参照すると非常に分かり易い。「3.3」番台の命題群で悩んでいた方はそちらをご参照の事。

 ウィーン学団が、ウィトゲンシュタインを「論理学の新たな理論家」と理解して歓迎したのも当然の事であった。

◆◆◆

※以下、「◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その4」に続く。


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