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Saori Ogata
2021年9月14日 15:58
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館※夜話・・・やわ。夜の余暇にする話。秋田街道といえば、水沢を南北に通ずる往還(現在の国道四号線)を、駒形神社あたりから右折して、板谷林(いたやりん?)、浅野、広岡を経由、尼坂にある追分(指導標)を左に見ながら、林福野(りんぶくの)を通って、供養塚の東端に入り、あとは一直線に出店(でだな)、土橋(どばし)、愛宕、市野々(いち
2021年9月11日 18:15
作 緒方紗織
2021年7月30日 16:48
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館今を去る三百七、八十年前、当時の領主によって御種松(おたねまつ)が植えられ、その善政でわが村も、いたる所に人家が見られるようになりました。しかし、そこここの林という林は、用材や薪炭材(しんたんざい)として、頻りに(しきりに)伐採されましたが、植林はしなかったので、果ては切株さえ掘り起こされるようになり、再び蝦夷時代の草原を思わせる有様にな
2021年7月21日 14:53
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館※前九年の役・・・平安時代後期の、陸奥国(東北地方)で起こった戦い。永承六年から康平五年まで。源頼義らの軍が、陸奥国の豪族安倍氏を滅ぼした。名称や期間は諸説あり、奥州十二年合戦とも呼ばれる。様々な伝承が残る有名な戦い。安倍の貞任をして落城などありえないと、豪語せしめた衣川の館は、なるほど堅固なものでありました。※安倍の貞任・・・あべのさだ
2021年7月19日 15:51
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館言い傳えによると昔、蜂谷の人達は、水沢の町に出ることを非常に恐れていたといわれております。その訳は、今のところ、どういう理由によってか明らかにされてはおりません。ですから生活必需品を買うためとか、生産品の販売のためには、水沢に出る道より二倍も時間のかかる難所の永岡の道路を通って、金ヶ崎の町に出たということです。その道は、尿前川を太郎左
2021年1月25日 16:37
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館昔、二ノ台に一人の猟人(かりうど)がいました。その猟人は、鉄砲を射てば百発百中という名人でありました。昨日は鳥、今日は獣と、猟に出た日は、一日として肩に獲物のない日はありませんでした。毎日のようによく獲れるので、猟人の生活は次第に豊かになり、その心は高慢になってきました。そこで近所の人には、誰一人として、彼と喜んで交際する者がない