恋愛を「異性と合体したい」と書いた辞書のねらいとは?
これは『新明解国語辞典』第四版における【恋愛】の説明です。
『新明解国語辞典』(以下、『新明解』)には、独特な語釈(言葉の意味説明)が多いです。
詳しくは、こちらの記事をご参照ください。
ここで疑問が起こります。
なぜ、『新明解』の語釈は独特なのか?
また、『新明解』の【時点】の用例(例文)には、
とあります。
言葉の説明の例として、「一月九日」という具体的な日付を書くのは不自然でしょう。
実は、この「一月九日」に起こったことが、
の謎を解くカギなのです。
この記事は、
という謎を解き明かしながら、みなさんに、
と思っていただきたいと願って書いたものです。
序章.新明解国語辞典を作ったのは、誰か?
私が所蔵している『新明解国語辞典』(第四版)には、大きく「金田一京助」と書いてあります。
しかし、この辞書作りに金田一京助は関わっていません。
なぜ関わっていないのに、名前が載っているのでしょうか?
それは”名義貸し”が、行なわれていたからです。
当時の辞書界で「金田一京助ブランド」が信頼を集めていました。
表紙に「金田一京助」と書いてあれば、一般の人は、
と思うので、よく売れたのです。
したがって、
金田一京助が辞書の編集に関わっていなくても、出版社が「金田一京助」の名前を借りて、辞書に明記する
という”名義貸し”が行なわれていました。
『新明解』以外の辞書でも、”名義貸し”は多く行なわれていました。
人のいい京助先生は、出版社に頼まれ”名義貸し”を行なったと言われています。
では、語釈が独特である『新明解』を作ったのは誰か?
山田忠雄先生です。
0.山田先生と見坊先生
この謎を解くには、山田先生と見坊先生について触れなければなりません。
お二人について、簡単な表にまとめました。
二人は、辞書界の二大巨星とも言われました。
その理由のひとつに、二人ともほぼ一人で辞書を作ったという事実があります。
辞書作りは、複数の人間で行なうのが普通です。
作業が大変だからです。
など、やるべきことは膨大にあります。
辞書作りを扱った映画『舟を編む』では、国語学者の先生を中心とした編集部だけでなく、
出版社の社員や学生アルバイトが泊まり込みで作業をする様子が描かれています。
このように、辞書は普通、複数の人間で作ります。
辞書を一人で作るという行為は、尋常ならざることなのです。
ところで、二人は東京大学の同級生で、辞書作りをする仲間でした。
しかし、喧嘩別れの形で、別々の道に進みます。
いったい、何が起きたのか・・・・・・。
それを解明するには、昭和の時代にさかのぼる必要があります。
1.明解国語辞典
昭和18年(1943年)。
三省堂から『明解国語辞典』(以下、『明国』)が出版されました。
『明国』は、次の点で革新的辞書でした。
言葉を引きやすい
それまでの辞書は見出し語が歴史的仮名遣いで書かれていました。
たとえば、「コウ」という読み方をする言葉は、歴史的仮名遣いであれば、
などと4とおりあったのです。
「コウ」という読み方をする言葉の意味を辞書で引くとき、4とおりも探さなければならないので苦労するのです。
そこで、『明国』は画期的な方法を使いました。
<表音式>で見出し語を載せる。
<表音式>とは、《発音するとおりに書く》ものです。
「栄養」の場合、従来の辞書の場合、
もしくは、
と書かれていました。
これが<表音式>なら、
と、発音どおりに書いてあるのです。
だから引きやすかったのですよ。(当時の人にとっては)
『明国』は熱烈に受け入れられ、累計61万部を売り上げました。
この革新的辞書・『明国』を作ったのが、のちに「戦後最大の辞書編纂者」と言われる見坊豪紀という天才です。※
このとき、助手という立場で辞書作りに参加したのが山田忠雄先生です。
一人黙々と『明国』の辞書作りをしていた見坊先生は、同期の山田先生に向けて手紙を送りました。
内容は、
というもの。
山田先生は、仕事を引き受け、原稿の校閲(原稿の誤りや不備をしらべること)をしました。
革新的辞書『明国』を作り上げた当時、見坊先生は28歳、山田先生は26歳。
斬新な国語辞書を作るという大事業を20代の若者がやってのけたのです。
2.『明国』の改訂版と、その副作用と欠点
1952年、見坊先生と山田先生は再び辞書を出版します。
辞書界を席巻することになる『明解国語辞典』改訂版です。
『明国』改訂版の特長は、
先行する他の辞書に載っていない言葉が大量に加えられていた
ことです。
見坊先生に「その時代に広く使われている言葉を載せよう」という主義があったため生まれた特長です。
『明国』は、この改訂版と初版を合わせ600万部を超える売り上げを記録しました。
当時の人口が約8500万人ということを考えれば、『明国』は売れに売れたと言えます。
さらに、『明国』は全国各地の中学校で指定辞書として採用され、絶対的な評価を得ました。
『明国』は当時の辞書界の模範となったのです。
『明国』の初版においては助手という立場だった山田先生は、改訂版では共同編集者と言える立場になっていました。
【女】という言葉の説明の改良を提案するなど、積極的に編集に関わっていったのです。
しかし【模範がもたらす副作用】が、のちに山田先生と見坊先生の仲を引き裂くきっかけになるとは、誰も予想できませんでした。
3.三省堂国語辞典の誕生と新たなる革命
辞書界の模範となった『明国』にも欠点がありました。
それは、
<表音式>と中学生の相性の悪さ
です。
例えば、
という言葉は、『明国』では
という見出し語として扱われています。
『明国』を使っていた中学生は、「右往左往」の読み方を、
と勘違いし、テストで「誤り」とされてしまったのです。
テストでは、現代かなづかいである、
と書かなければならなかったのです。
このような<表音式>がもたらす問題が、三省堂編集部に多数寄せられました。
そこで三省堂内部では中学生が学習するために使う<現代かなづかい式>辞書の出版を求める声が高まったのです。
見坊先生を中心として、新たな辞書作りが始まりました。
そして、1960年に見出し語が<現代かなづかい>で書かれた『三省堂国語辞典』が刊行されます。
『明解国語辞典』の三版という形ではなく、『三省堂国語辞典』と名前が大きく変わった形で出版されました。
三省堂の営業部から「他社のように、社名を冠した辞書がぜひ欲しい」という要望があったためです。
『三省堂国語辞典』(以下、『三国』)は、辞書界に革命をもたらしました。
それは、
語釈(言葉の説明)が日常的になった
ことです。
言葉の説明が、それまでの辞書と根本的に違っていたのです。
たとえば、【水】。
見坊先生と山田先生が『三国』の前に作った『明国』改訂版では、
と説明されました。
説明としては、正しいでしょう。
しかし、なんとも”無機質”な説明です。
決して”日常的”でないのです。
小学生が読めば、「わけがわからない」と思うのではないでしょうか。
一方、『三国』では、次のように説明されています。
実感できる説明ではないでしょうか。
これなら小学生にも理解できます。
他にも、【愛】はそれまで、
などと書かれていましたが、
と説明されています。
今の辞書では当たり前のようになっている【言葉の説明の仕方】は、『三国』によってもたらされたといっていいのです。
中学生にわかるように書かれた『三国』の累計発行部数は、発売から13年間で561万部に達しました。
『三国』において、新たに掲載された言葉は約5000語ありました。そのことについて、見坊先生は、
と山田先生の功績を述べています。
しかし、見坊先生は、このあと辞書作りにおいて”あること”に力を入れます。
その”あること”の功績により、見坊先生は令和の時代でも「戦後最大の辞書編纂者」と言われます。
が、同時に山田先生との仲を切り裂く一つの要因ともなってしまいました。
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