「舟を編む」を超える、壮絶な辞書作り
を解明する記事です。
5.歯車の狂い 用例採集への傾倒
中学生にわかるように書かれた革命的辞書『三省堂国語辞典』(以下、『三国』)の出版後、見坊先生は”あること”に傾倒します。
その”あること”とは、用例採集です。
用例採集とは、
新聞・雑誌・広告などで実際に使われている言葉を集める作業
のことです。
見坊先生が「戦後最大の辞書編纂者」と言われる理由のひとつに、膨大に用例を採集した実績があります。
30年かけて集めた用例は、145万例です。
その用例を記録したカードは、東京にある「三省堂資料室」に現在も保管されています。
現在の『三国』編者である飯沼浩明さんは、「1年間で4000~5000語のことばを採集している」と言っています。
単純計算すると、
★10年間で5万語
★30年間で15万語
です。
見坊先生の、《30年間で145万語》という実績がとんでもない偉業だということがわかります。
見坊先生のお子さんたちによると、
とのことです。
とあるパーティーでも、飲食をするのではなくボトルを凝視する見坊先生の写真がありました。
パーティー中もラベルに書いてあることを読んで用例採集をしていたと思われます。
なぜここまで用例採集に徹するのか?
それは、見坊先生には次の信念があったからです。
見坊先生は、言葉の”今”を反映した辞書を作るために、”生きた言葉”=”実際に使われている言葉”を徹底的に調査したのでした。
145万例採集の実績は、辞書界では”伝説”として語り継がれています。
しかし、用例採集は、あるものを”犠牲”にしてしまいました。
6.用例採集の”犠牲”と「暮しの手帖事件」
用例採集によって”犠牲”となったものは、”改訂作業”です。
辞書は、時代の変化に合わせて改訂されるべきものです。
しかし見坊先生と山田先生が力を合わせて作った『明国』改訂版(第二版)は、15年以上たっても第三版が出版されませんでした。
山田先生は、見坊先生が用例採集に力を入れている頃の心境を、インタビューで語っています。
山田先生は、改訂版が出せない状況に苛立ちを募らせていきます。
そんなとき、辞書界を揺るがす大事件が起こりました。
それが、
「暮しの手帖事件」
です。
雑誌『暮らしの手帖』において、「国語の辞書をテストする」という特集記事が公開されました。
そして、具体例として、洋裁用語の【まつる】が挙げられていました。
それぞれ、言葉を入れ替えたり、漢字を平仮名にしたりしただけの、そっくりな説明だったのです。
実は、当時の辞書界には”盗用”体質が蔓延していました。
その事実が暴露されたわけです。
そしてこれらの【まつる】の説明の元になったのが、『明解国語辞典』だと告発しました。
『明国』は模範であったがゆえに、まね(≒盗用)される存在になってしまったのです。
盗用が横行する辞書界は混沌としていました。
このときに憤りを感じていたのは、見坊先生ではなく山田先生でした。
しかし『明国』や『三国』の編集の中心的存在は、あくまで見坊先生でした。
辞書界にはびこる盗用体質を何とかしたいと思っていても、山田先生にはできることが限られていました。
そこで、山田先生は、水面下で【とある準備】を進めました。
その【とある準備】によって、温厚だった見坊先生は生涯で唯一の激怒を見せます。
運命の「一月九日」が人知れず近づいていました。
7.「1月9日」事件
1972年1月9日。
懐石料理の名店「白紙庵」で、打ち上げが行なわれようとしていました。
何の打ち上げでしょうか?
三省堂から新たに刊行される『新明解国語辞典』(以下、『新明解』)の完成のお祝いです。
出席者は、見坊先生、山田先生、金田一春彦先生などの辞書編集者だけでなく、三省堂の社長や取締役などの重役も含まれていました。
この打ち上げの席で、山田先生以外の人が、初めて完成版の『新明解』を手に取ります。
そして、山田先生が書いた『新明解』の序文を読み、その場にいた人は眼球が飛び出るほどの衝撃を受けます。
簡単に説明すると、
◆見坊に事故があった
◆代わりに山田が主幹になった
ということが書いてあります。
出席者が驚くのは当然です。
見坊先生は、事故に遭っていません(というより、この祝いの席にいます)
また、今まで中心的人物だった見坊先生が<編集語採集担当>とされ、山田先生が<編集主幹>とされており、
という主張が感じられます。
見坊先生は、この序文を黙って読んでいました。
「声を荒げているところを見たことがない」と言われ、極めて温厚と評される見坊先生は、何も言わなかったのです。
しかし、見坊先生のお子さんたちによると、自宅に帰ってきたあとは、
と大声で怒っていたそうです。
とお子さんが言うのですから、「一月九日事件」がいかに見坊先生を怒らせてしまったのかがわかります。
8.なぜ「一月九日事件」は、起きたのか?
山田先生が「見坊に事故有り」と書き、見坊先生を激怒させた【一月九日事件】。
それが起きた理由は、様々な要因が絡み合って起きたと言えます。
【要因1】
『新明解』においても、”名義貸し”が行なわれていた。
『新明解』の編者には、山田先生以外にも、見坊先生、金田一春彦さん、柴田武さんの名前がありました。
しかし、実際には山田先生以外の人は辞書の編集にまったく関わっていませんでした。
編者に名前があるのに、新たに出版される辞書(新明解)の完成打ち上げに参加するなど、一般常識では考えられないことでしょう。
しかし、”名義貸し”が横行していた辞書界ならば、起きてもおかしなくないことだったのです。
【要因2】
見坊先生が、『三国』と『明国』の改訂作業を同時に進めるのが難しかった。
三省堂という一つの出版社から発売された『三国』と『明国』は、どちらもよく売れていました。
三省堂としては、どちらの改訂版も出版したいです。
しかし、前述のように見坊先生は用例採集に傾倒しており改訂作業が遅々として進みません。
当時、三省堂の【辞書出版部長代理】を務めた小林保民さんは、
と語っています。
三省堂は、早く改訂版の辞書を出版したかった。
会社としては、早く辞書を作ってくれそうな山田先生に仕事を頼んだ方が好都合だったのです。
また、実際に、見坊先生から山田先生に『明国』の改訂作業を頼みたい」という依頼があったそうです。
【要因3】
山田先生には理想があった
当時の辞書には、大きく2つ問題がありました。
1つめは、前述の”盗用体質”です。
前述の【暮しの手帖事件】で世間の人が知ってしまった不名誉な体質です。
2つめは”堂々めぐり問題”です。
たとえば、【しぼむ】【すぼむ】を引くと、それぞれ次のように書いてあります。
と書いてあるのです。
こういったことが起こります。
これでは、一向に「しぼむ」の意味はわかりません。
このような堂々めぐりの記述が、当時は普通だったのです。
山田先生は、この”堂々めぐり”に、強い不満がありました。
そして、
と考えます。
自らが考えた語釈を載せるため、これまで共同作業を進めてきた見坊先生から独立して水面下で作業を進めたのです。
9.独特な語釈の真意
『新明解』は、山田先生が主幹となり、ほぼ一人で作り上げました。
そこには、山田先生の理想が体現されています。
今までの、”言いかえ”や”盗用”ではなく、【長文で詳細な説明】を実践したのです。
例として、【生意気】の語釈(言葉の説明)を挙げます。
また、山田先生は、辞書界の発展を望んでいました。
その考えは、『新明解』初版の序文にも明示されています。
「盗用するな。語釈は自分で考えろ」というメッセージが伝わってきます。
また、一見”皮肉”とも思われる語釈にも、意図がありました。
たとえば、【役所】という言葉は、
と、皮肉まじりに説明されています。
が、その皮肉の意図は次のとおりです。
たしかに、言葉の中には、意味が”表”と”裏”の両面を持つものがあります。
山田先生は、『知ってはいるけど、大きな声では言えない』裏の意味を、きちんと辞書の載せたのです。
ただ、あまりにも独創的な語釈であったため大きな波紋を呼びました。
これには抗議が殺到し、修正が加えられました。
他にも、国語学者や辞書編集者から多くの批判を受けました。
しかし、世間には受け入れられ初版から大ヒットします。
1990年代に入ると、『新明解』が『三国』の売り上げを逆転し、今では「日本で一番売れる辞書」と言われるようになりました。
現在、『新明解』は【累計発行部数1200万部の広辞苑】より多い、累計発行部数2000万部を誇っています。
10.まとめ
の答えは、
◆山田先生が、辞書界の問題を打破するために独特な長文の説明をしたから
です。
独特な説明は、山田先生の理想を体現したものだったんですね。
この記事を読み、辞書に興味を持っていただけたら嬉しいです。
最後に、山田先生の”魂”がこもった用例を紹介します。
次の【んとす】という言葉の用例は、『新明解』の最後のページ(付録を除く)に書かれています。
※引用文で太字になっているもののは、オニギリが太字にしたものです。
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