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企画がやりたくて入社したけど、配属は総務だった

 地方の支社に赴任して1ヶ月が経った頃、上司から会議室に呼ばれた。

 「総務を中心にやってもらうからね」

 担当業務を告げられた僕は、「はい、楽しみです!」と笑顔で平静を装って返事をしたけど、落胆で身体の力が抜けていくのを感じていた。

 ”プランナー”や”ディレクター”みたいなカッコ良い肩書きの響きに憧れて、「企画」や「イベント」という仕事の華やかな部分に気を取られて就職活動をした。できる奴だとは周囲からあまり思われていなかったので、「驚かせてやりたい」「手の平を返させてやりたい」という下克上的な気持ちを少なからず持ちながら、僕はいわゆる大手企業に潜り込むことができた。意識とプライドだけは高かったので「入れて当然だろ」という気持ちもあったけれど、顔を驚かせながら「すごいね」と言ってくる友人の反応を見て、「やっぱりそう思うよなあ」と感じていた。

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 入社して東京での全社研修を経て、僕は結構な地方へ転勤することになった。家探しではじめて訪れた際には「まさかここまで田舎だとは。。。」と唖然とした。だけど、東京から離れて新しい気持ちでスタートできるし、少人数の職場、見知らぬ土地、誰もやったことがないような企画を自分はできるのではないか、という期待感で胸が一杯だった。それだけに赴任して早々、担当がバックオフィスの業務だと告げられた僕は、落胆せざるを得なかった。

 大手を目指して右向け右で就職活動をした先で社会人になった僕は、周りの状況や評価ばかり気にしていた。だから他人に気を取られては、気分を落とし続けた。
 
 他の地方に赴任した同期の多くは、元々やりたいと思っていた仕事を担当することになっていた。羨ましかった。
 企画系の仕事を担当していた年の近い先輩は、とても面倒臭そうに仕事をしていた。腹が立った。
 東京の友だちから「お前その会社入った意味あるの?」と言われた。悔しかった。

 社会人は自分のやりたいことだけができるわけではない、そんな当たり前のことを頭では理解していたけど、理想と現実のギャップのあまりの大きさに悩んで、寝付けなくて、夜の田んぼ道をアテもなく歩くような毎日を過ごすようになった。

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 「もうダメかもしれないな」
 少し体調が悪くなりはじめたこともあって(かなり肌荒れして痩せた)、時期尚早なことを思いはじめていた僕を踏み止まらせてくれたのは、総務の業務を引き継いでくれた、親より年上で、定年間際の大先輩から言われた一言だった。

 僕はその大先輩を苦手に思っていた。同期が年の近い先輩からOJTしてもらっているのに「なんでこんなおじいさんと、、」という気持ちもあったし、大先輩は定年間際ということもあって、もう既に仕事へのやる気がなくなっているように見えた。実際、向かい合わせで引き継ぎをしていても、途中で話しながら寝てしまうこともあったし、健康管理の業務の一環で産業医のおじいちゃん先生と3人で打ち合わせした時には、二人とも寝てしまって仕方なく僕も目を閉じるようなこともあった。役職も付いていない大先輩のことは「尊敬できるところないなあ」と最初は思っていた。

 だけど、引き継ぎしながら一緒に仕事する日を重ねていくと、その大先輩が職場の人から凄く信頼されているのが見えてきた。たとえば、その人の内線電話は頻繁に鳴る。毎日、大先輩の自席には色んな部署の人が相談しにくる。強面の管理職も、新人も、みんな。
 そのことにうっすらと気づきはじめた時、大先輩の見え方が徐々に変わっていった。
 「こんなに信頼されると、総務の仕事でも楽しくなるかもしれない」
 そう強く思った頃には、大先輩の最終出勤日はすぐそこに迫っていた。

 大先輩が有給消化に入る直前、向かい合わせで前よりも遥かに真剣に話を聞きながら引き継ぎをしていると、ボソッと言った。
 「お前は俺よりも数段優秀だからどこに行ってもやっていける。大丈夫だ。
  会社辞めても良い。いつか、自分のやりたいことをやったら良い。」

 俺が優秀かどうかなんてわからないだろ、適当な事言うなよと思ったけれど、おまじないのようなすがれる言葉をずっと求めていた僕はそれを瞬間的に信じた。
 いつかはきっと、できるかもしれない。

 同じ時期に、東京にいた頃から好きだったバンド・クリープハイプが「二十九、三十」を出した。当時の自分の心情にぴったりな曲だった。


 大先輩がいなくなって本格的に総務を担当し始めた僕は、会社からの帰り道、街灯が少なく真っ暗な田舎の夜道を「二十九、三十」を聴きながら歩いた。
 自分の気持ちがすっきり整理できたわけではない。他人の言葉やその日の出来事に浮き沈みして、理想との落差ある日常に「やっぱりもう無理だ」と半泣きになることもたくさんあった。だけど、大先輩の言葉を思い出して、クリープハイプの歌を聞いて、ほんの少しずつだけど前に進んだ。気づくと、僕の内線電話は大先輩みたいに鳴るようになってきていた。

 「二十九、三十」は、向き合わないといけない目の前の日々を乗り切るために一緒に戦ってくれると同時に、自分のやりたい気持ちにも火を付けてくれた。
 大きかったのは、「二十九、三十」の企画の裏側にコピーライターの阿部広太郎さんという存在がいたことだ。阿部さんは、広告会社で最初は人事配属。相当な努力をして企画の仕事にたどり着いた、というウェブ記事を、すがるように、穴があきそうなくらい繰り返し読んだ。iPhoneのメモ帳にひたすら保存して、阿部さんのツイートもスクショした。何度も何度も読んだ。

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 僕も、この人のようになりたい。
 でもこんなに努力できるか?
 東京じゃないし無理か。
 でもいつまでもこのままで良いのか?
 、、、だめだ。やるしかないだろ。

 毎日のように自問自答して、すぐに気が変わった。だけど、なんとか自分を奮い立たせた僕は二年目の終わり、企画部門が集まる社内コンペに勇気を持って、総務なのに空気を読まずに出た。毎日徹夜して企画書を作り、プレゼンでは「誰こいつ?総務やっているのになんで?」という空気にビビって資料を持つ手も声も震わせて、大量の冷や汗を掻きながら自分の考えたアイディアをしっちゃかめっちゃかに話した。
 他人の評価ばかり気にする僕だったから、入社してからできるだけスマートに見られるように装ってきた。そういう意味でも、ビビって震える姿はかなりカッコ悪くて恥ずかしかった。だけど、懸命に何かを掴もうとしている自分は嫌いじゃなかった。

 すごく運がいいことに、結果として僕の企画には予算が降りた。自分の考えた企画を世の中に仕掛けることができることになった。
 東京本社の会議で提案が採用されたと連絡が入った時は、少し泣いた。勇気を出して良かった。
 しかも、時期を同じくして、担当を総務から企画に変更してもらえることになった。
 いつかはきっと、できた。

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 それから僕は、紆余曲折ありながらも今は転職して東京に戻って、広告業界の制作会社で企画を中心に仕事をしている。
 ただ、今でも自分の思う通りに行くことは少ないし、100%できる環境ではないし、やりきれない思いをすることも結構多い。昨日も大事なコンペで負けてしまった。

 それでも僕は辛くても、少しの勇気と意志があれば、良い未来に向かっていける、そう信じている。ドン底に落ちたとしても、僕の背中を押してくれる大事な音楽や言葉がある。僕はそうやって、なんとかここまできた。
 
 いつかはきっと、、
 そう思いながらもがき続けるすべての人が、背中を押してくれる言葉や音楽に出会えますように。この文章が誰かに届きますように。
 「二十九、三十」の世代に突入した僕は、そう強く願う。

「二十九、三十」/クリープハイプ

<太・プロフィール> Twitterアカウント:@YFTheater
▽東京生まれ東京育ち。
▽小学校から高校まで公立育ち、サッカーをしながら平凡に過ごす。
▽文学好きの両親の影響で小説を読み漁り、大学時代はライブハウスや映画館で多くの時間を過ごす。
▽新卒で地方勤務、ベンチャー企業への転職失敗を経て、今は広告制作会社勤務。
▽週末に横浜F・マリノスの試合を観に行くことが生きがい。

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