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オカムー
2022年4月29日 18:11
二匹のどじょう二匹のどじょうが二匹のどじょうが 右にくねくね左にくねくね とびあがってぴょんそして再び水の中 二羽のちようちょが弐羽のちょうちょが空にのぼらずひらひらふわふわ地にもおりずにぴたり 菜の花にとまって菜の花になった二人の子どもは二人の子どもは くるくるくるくる追いかけっこ どっちが追いかけてるのかわからなくなってじゃぶじゃぶ 河を渡って二度と戻って来なか
2022年3月13日 19:45
あした私猿になる日毎に日がのびて地がぬくんでくると私目覚める度にウキウキしちゃうウキウキウッキーってあした私猿になる2022年2月28日岡村
2022年1月18日 15:58
誰にも知られない花誰にも知られずに芽吹き花咲き萎れ枯れていく花は、果たして存在したのだろうか。私はしなかったとおもいます。もしこれが正しいならば、在るがままの自然と言われるものは嘘になる。現象する自然は、必ず人為に依ってその様態が定まり顕在化されるのであろうから(→シュレーディンガーの猫)。だから私は「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう(レヴィ=ストロース)」とは、私
2021年11月1日 19:43
右手と左手「右手」とは「左手の右側の手」であるのならば、「左手」は「右手の左側の手」であろう。別に「手」じぁなくったっていいし「手じゃない何か」である必要もない。単に「左右の定義」として考えてみると、「右の定義は左の右側」であるし、「左の定義は右の左側」である。とすると、この定義は真であるか偽であるか?2021年11月1日 岡村正敏
2021年10月25日 16:50
臍考臍と言うのは不思議なものだ。何の役に立つでもない腹の窪み。無くとも良いが無ければきっと寂しいに違いない。何故だろうか、この、臍を失う寂しさとは何か。私は臍ではないが臍は私の一部である。しかしじっと臍を見つめていると、ひょっとしたら臍は臍として、私ではない臍として、私の腹の真ん中で何か想う事があるような気がしてくる。しかしやっぱり臍は私の一部なのだから、単に他人でもないのだろう。すると
2021年10月1日 22:28
「岩になり砂になり水になり空になり」真っ平らでダダ広い大地に 亀裂が入りひび割れると そこには無数のゴツゴツした岩岩がひしめいていた この岩を二つの拳が叩いて砕くと 岩岩は礫になり砂になって拡がって まるでそこは海のような砂原になった やがて風が吹いて砂の粒子を巻き上げると それは空一面に舞い散って 空のような宇宙になった そうしてそこには透明な粒子が遍いていた それはもう粒子と呼べるものでも
2021年9月14日 18:14
夢さえ見ずに眠りたいあそびはやがてあきるが、あきる事にもあきた時、私はもうどうでもよくなるのだろう。「あそびたい」はまだ「あそびたい」という欲求を目的としているが、この目的を契機として「あそび」に没入している時、「あそび」にはもう目的はなくなっているのだろう。しかし目的なき「あそび」は永続する事は無くやがて「あきる」。そして「あきる」とは「もうこのあそびを止めにしよう」という目的の残照
2021年8月18日 12:34
詩?それとも物語?●世界の開闢の瞬間に立ち会い、「開闢」に祈りを捧げまたは賛美するのが「詩」なのだとしたら、「開闢」の現場に立ち会い、「開闢」そのものを問う、その問いのstanceに固執するのが「物語」なのではないだろうか?●「開闢」などと書くと、それは出来事の因果をさかのぼり歴史として記述されなければならない、と考えるかもしれませんが、「開闢」はそのような歴史的遡及によって知られるのではな