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詩・散文「臍考」

臍考

臍と言うのは不思議なものだ。何の役に立つでもない腹の窪み。無くとも良いが無ければきっと寂しいに違いない。何故だろうか、この、臍を失う寂しさとは何か。

私は臍ではないが臍は私の一部である。しかしじっと臍を見つめていると、ひょっとしたら臍は臍として、私ではない臍として、私の腹の真ん中で何か想う事があるような気がしてくる。
しかしやっぱり臍は私の一部なのだから、単に他人でもないのだろう。するときっと臍とは「私であると共に他人」なのだ。それは私でもあり他人である事で、私と他人を結び付ける接点なのだ。
丁度私と母が、私でも母でもない臍によって繋がっていた様に。

私は臍がなければ寂しいが金に困ることは無いだろう。私の臍への気遣いは利害や有用性に因るのではない。臍は功利を超えている。
無くて困らないのに寂しいのは、絶対に他人になれない私が、他人に触れ得る唯一の器官が臍であり、その臍と私が共存しているからなのだ。
そういう他者へと通じる窓口が、私の腹の真ん中に鎮座している限り、私は世界は何時か、平和になるのではないかと思うのである。

2010年頃 岡村正敏

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