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雑考・メモ・日記

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#エッセイ

雑考・日記・メモ「逆説的協同」

雑考・日記・メモ「逆説的協同」

逆説的協同

1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。
どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。
コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。
そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。

2024年2月6日 

雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

「怪人ダダ」が好き。
弱っちいのが良い。
弱っちいのに頑張ってる。
上司に反抗できず、腕力では人間にも劣る。
でも頑張って「人間の標本6体を集める」という上司からの命令を遂行しようと、頑張るのである。無理かもしれない・・・そういう困難がわかっていてもやらねばならない、その悲哀を「怪人ダダ」の転倒シーンに見てしまったのは、果たして私だけだろうか。
美術史での「ダダイムズ」も似たようなものだ。一見先鋭

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哲学・日記・メモ「老人とこども」

哲学・日記・メモ「老人とこども」

「老人」と「こども」

「老人」は高齢者ではない。
「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。
また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。
そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。
つまり「老人」は人であり人間てあり

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哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

「ハレとケ 年賀状の事」

年賀状を書かなくなって久しい。しかし年始の挨拶を全くしないわけではなくて、メールで送信してはいる。これでいいのか?と思う事はあっても、それを20年も続けてきていると、それでいいのかもしれないと、開き直りでは決してない省察の結果として、今では受け入れている私がいる。
と言うのも次のように考えるからである。

メールでも心づかいが伝わっていれば良いのではないだろうか?

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哲学・日記・メモ「口笛を吹く」

哲学・日記・メモ「口笛を吹く」

「口笛を吹く」

時たまに口笛を吹きたくなる。
そんな時は不思議と必ず、車を運転している時なのである。
それは何故だろうと思う。
それは車内に私一人、しかいないからではないか?
誰にも「聞かれない」からである。
しかし本当にそうだろうか。
誰にも聞かれたくなかったら山の中や河川敷でもいいのではないか。
でも口笛を吹くために山に入ったり河川敷に赴くのは面倒だ。何故ならば口笛を吹きたくなる時は、突然に

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雑考・日記・メモ「『もののかたり』と『物語』の事」

雑考・日記・メモ「『もののかたり』と『物語』の事」

「もののかたり」と「物語」の事

「もののかたり」はそのつどの「もの」との対話である。
それは単なる「出来事」である。
そしてこの「出来事」の痕跡が収集されるとそれは「記録」となる。
さらにこの「記録」に意味が付与される事でそれは「歴史」となる。
しかしこの「歴史」には意味が付与されてはいるが、「目的」は付与されてはいない。
そうして、「歴史」に目的が付与される時、歴史は「物語」となるのだろう。

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雑考・日記・メモ「エビもタコもイカも感覚を有する。そんなの当たり前!と思う事を問う」

雑考・日記・メモ「エビもタコもイカも感覚を有する。そんなの当たり前!と思う事を問う」

https://gigazine.net/news/20211122-lobster-octopus-crab-sentient-being/

この感性と言うのか何というのか・・・私には良く解りません。エビもタコもイカも感覚を持っているし、茹でられれば苦しいに決まっています。わざわざ科学的に証明しなければそれは文化にはならないのだろうか?
と、先ずは欧米文化に対するステレオタイプな批判をしてみて

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雑考・日記・メモ「生涯学習者の共同体としての探究の共同体はありうるのか」

雑考・日記・メモ「生涯学習者の共同体としての探究の共同体はありうるのか」

生涯学習の当事者性を考えた時、「探究の共同体」は何も「こども哲学」の特許ないだろう。「探究の共同体」は広く「生涯学習」と言う視野から考えてみても良いのだから。だから私はいわゆる「単なる年齢としての子供」を対象とした「子供哲学」にはどうも馴染めません。と言うのも私が関心があるのは単なる年齢の区分ではない「老人=こども」であり、そのような「老人=こども」が自ら自治する「生涯学習」であるのだから。

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哲学・日記・メモ「アートと哲学・直感とひらめき・形式と内容」

哲学・日記・メモ「アートと哲学・直感とひらめき・形式と内容」

アートと哲学・直感とひらめき・形式と内容

アートは直感。哲学はひらめき。
そして直感は形式。ひらめきは内容
形式は言葉にできない故に直感であるしアートである。内容は説明しうる故にひらめきであり哲学である。
だからアートは形式である。だから哲学は内容である。
そして形式は内容の沈殿から抽出されるものである、とするならば、形式の涵養の前提には内容がなければならない。
かくしてそもそもの始まりには、形

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哲学・日記・メモ 「信じる者と疑う者と問う者について」

哲学・日記・メモ 「信じる者と疑う者と問う者について」

信じる者と疑う者と問う者について

人が何かを語った時、「問う者」は「この人は何故このような事を語るのだろう?」と自らに「問う」。「本当にそうか?」と彼を「疑う」のではない。「何故?」と自らに先ずは「問う」。だから彼は「問う者」なのだ。

そして「問う者」は「本当にそうか?」ではなく「何故?」と問う故に「疑う者」ではない。「疑う者」は「本当にそうか?」と「疑う」のだから。と同時に「問う者」は「信じ

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雑考・日記・メモ「対極主義の罪」

雑考・日記・メモ「対極主義の罪」

岡本太郎の最終的な表現スタイルを「対極主義」だとすれば、それは大阪万博で完結しているはずである。太陽の塔のそれを言っているのではない。丹下健三のウルトラモダン建築をぶち抜いてそそり立つ太陽の塔の、この、モダンとプレモダン、もしくはイデアとアーキタイプの対極の実現だけが唯一の太郎の作品なのだと言いたいのである。
縄文時代の復古を想わせる太郎の太陽の塔だけを見れば、それは復古でありパロディであるにすぎ

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哲学・日記・メモ「俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソス」

哲学・日記・メモ「俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソス」

メモの前のメモメモ

ディオニソスとアポロンの対立そのものを俯瞰できるのはアポロン。対立そのものを抱擁するのはディオニソス。もっと正確に言えば、俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソスは理性を共有している。言い換えれば理性がアポロンを介して対立を俯瞰したり、理性がディオニソスを介して対立を包み込み抱いている。単なるアポロンと単なるディオニソスにはそれが出来ない。俯瞰も抱擁も成しえない。

2021年

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雑考・日記・メモ 「『シークレット・カメラ』」

雑考・日記・メモ 「『シークレット・カメラ』」

『シークレット・カメラ』

『シークレット・カメラ』                      作: フランク・ダバ・スミス
訳: 落合恵子
写真: メンデル・グロスマン
出版社: BL出版  2001年

おそらく1939年頃に撮影された写真。                 写真の中でじっとこちらを眼差すこの少年は「今はもういない」。    1939年と言えば生きていたら100歳近いので当然な

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雑考・日記・メモ 「支配の罪(または功)があるならば誘惑の罪(または功)だって対等に扱いたい。」

雑考・日記・メモ 「支配の罪(または功)があるならば誘惑の罪(または功)だって対等に扱いたい。」

「支配」の罪に関しては多く語られるのに「誘惑」の罪について語られることが少ないのは何故か。単なる時代に因るものなのかそれとも・・・。

「支配・権力・男性性の罪」と「抱擁・誘惑・女性性の罪」を等価とする事は、反転して言えば、男性性と女性性の功を等価に肯定する事と矛盾しない筈なのだ。と思うのです。

だから私は対極主義!