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頼山陽が見た「花の雨」(1)

【スキ御礼】
歳時記を旅する13〔桜〕後*上千本中の千本花の雨
西行が見た「花の雨」
秀吉が見た「花の雨」
芭蕉が見た「花の雨」
本居宣長が見た「花の雨」

江戸時代後期の歴史家で文人でもある頼山陽は、母を連れて吉野山を訪ねている。
文政二年(1819年)三月二十八日、母と京都の桜を見物していた山陽は、急に思い立って京都を発った。四月四日に雨をついて吉野山に上った。山陽四十歳のときである。

この日は山上の旅館「さこや」に泊った。
しかし、翌日も雨で、しかも新暦の五月なので花はほとんど散っていた。
それでも新緑を鑑賞してまわり、山陽は歌を詠んでいる。

 芳山
侍輿百里度嶙洵
花落南山萬緑新
筍蕨侑杯山館夕
慈眼自有十分春


輿に侍して 百里 嶙洵をわたる
花おちて 南山 万緑新たなり
筍蕨 杯をすすむ 山館の夕
慈眼 おのずから 十分の春あり

〔大意〕
母の駕籠にしたがって、吉野山に分け入り、険しい山坂を越えた。しかし桜花は散ってしまい、全山は葉桜になっていた。夕方、山上に一泊して、山菜をさかなに、母に一杯をおすすめすると、悦びの顔いろである。ああ、ここにこそ春がある。散り落ちた花を、いつまでも恨むまい。

安藤英男『頼山陽選集1 頼山陽傳』近藤出版社 1982年

山陽が母を連れて吉野山を訪れたのは、母への孝行のための桜見物でもあるが、古事記、日本書紀、万葉集の地への憧れでもあり、何より吉野を皇居とした南朝を哀れむ思いだったのだろう。

その自分の思いは果たせたかもしれないが、今回は母を連れている。
京都をもっと早く発っていたなら花の時に間に合ったのに、母に見せたかったのにという無念さが歌にもにじむ。
 誘い出されて花を見られなかった母はご機嫌を損ねることはなくて、酒を勧めても「慈顔」でいてくれたことに息子として一安心だったことだろう。
「おのずから十分の春あり」というのも、花の時期に遅れた悔しさを正当化するために、歌に託して昇華させようとしているようにも見える。

だからこそ、山陽はこの8年後に再び母と吉野を訪れることになるのである。

(岡田 耕)

*参考文献(引用のほか)

有岡利幸『ものと人間の文化史137-2 桜Ⅱ』法政大学出版局 2007年
安藤英男『頼山陽選集1 頼山陽傳』近藤出版社 1982年 



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