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【目印を見つけるノート】723. どちらのコミュニケーションが多いですか

きのうの自分のnoteを見て、涙しました。
自分の書いたことに酔ったわけではありません🍺😵🌀 ウーイ。

書く「向こう」にいるかたのことを思ったら、涙が出たのです。

(枝垂れ桜です)

私の場合ですが、書く向こうにはどなたかがいます。どなたもいないと、ちょっと書けないかもしれません。

これって、何度も書いているのでくどいかなと思いますが、また書きますね😊

書く向こうに誰がいるかというと、
恩師かもしれませんし、
尊敬するかたかもしれませんし、
愛するかたかもしれませんし、
親愛なる友かもしれませんし、
会うことのできない歴史の人かもしれません。
私の中ではそのかたがたは常に具体的です。ただ、公開するものですので、特別な場合を除いてお名前を出すことはありません。
(例えば、亡き小松左京さんに書いたものなどはそうです)

不特定多数に向けて書くというのは、なかなか難しいものです。論文や評論、主張、教訓、宣伝、報道記事ならば不特定多数に向けて書けるでしょう。これはそれとは明らかに違います。同じようにしてしまったら、それは「自己顕示」になってしまうように思います。

もし私が眉目秀麗の芸術品のような人であれば、それも一興かと思うのですが、残念ながら😊

(これは桜ではなくて、あんずです)

そういえば、
きのう、ラーメン屋さんに知り合いと行きました。
とてもおいしかったので、
「おいしかったです😊別添えのゆず胡椒でスープがさわやかになって、二度おいしかったです😊」とお伝えしました。
店を出ると、知り合いが「感想いう人なんかいないよぉ」と言いました。
「え、でも⚪⚪さんはインスタによくラーメンとかあげているでしょう。じかに言わないの?」
「うん。初めてでもないし、今は黙食だし」

私はマスクを付けてから言ったのですが……それは別にいいのです。

SNSが一般的になる前は、飲食店さんのお料理や店を撮影するのは、事前にお許しをいただくのが普通でした。それも今は宣伝になるからということでフリーなわけです。

それも別にいいのです。

ただ、お店の人に「おいしかったです。ごちそうさま」と感想を言うのもアナログな部類になってしまうのかなと、ちょっと考えてしまいました。

もちろん、上のお話がすべての人にあてはまるわけではないでしょうし、私がついつい(マスクをして)話してしまう性質だということもあるでしょう。

ただ、
じかにコミュニケーションすることを懐疑的に捉えている方は増えているのかもしれないと思いました。

そうですね、不特定多数の人とのべつまくなしにコミュニケーションを取るのは、特に子どもにとって危険をはらんでいたりします。ですので、区切りをはっきり付けた方がいいのかもしれません。ある程度は。
そのことと、(多少棲み分けをしたとしても)不特定多数に向けたSNSがコミュニケーションの大きな要素になっていることの間に、ちょっとした違和感を感じたりもします。バランスが偏っているというか……。

誰に向けて書いていますか。

ということで、この項目については、
ずっと「手紙のように書いて公開しています」という、いつもの話に戻るのです。
加えて、じかのコミュニケーションは時節柄マスク越しになってしまいますが、大歓迎です。

アナログかしら。

今日はオオバンの群れを見つけました。

アナログついでに、きのうの流れで20世紀の曲をいくつか聴きましたが、このかたのヴォーカルにまた圧倒されました。
REBECCA『Raspberry Dream』

こちらは屋外のライブですが、すごいです。
声が高いとか低いとかそういうレベルではなくて、「この人にしか出せない」という声の筆頭なのです。愛らしくて艶があって、エモーショナルで。ベッシー・スミスからアイドルまで、女性シンガーは好きで聴いてきていますが、このかたは私には別格です。
「この人にしか」という人はいるのです。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽

追伸 おかえりなさい😊

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