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久々に自己分析をしたら、エゴエゴしい自分に出逢った。

 先週は時間をかけて「 自己分析 」をしていた。
 自己分析といえば、就職前にするイメージが強いのではないだろうか?
かくいう私も大学生の頃にやったきり。
 それから今まで、なんとなく自分を振り返ったことはあったけれど、改めて時間を割いてやったのは10年ぶりかそれ以上だった。


 どうしてそんなことをし始めたかといえば、
このところ「 反省 」という言葉がやたらと頭の中に出てくるわりに、「……で? 反省したあと、次はどうするの?」「何を頑張っていくの?」という言葉に、明確な答えが見つけにくくなっていたから。


 時間を作って種を撒きやその計画を進めてみたりもしているけれど、なんとなく焦燥感にかられているだけな気もしていた。
 「今の自分が、何も価値を生み出せていない」という焦りからとりあえず手の出しやすいことをやっているだけではないのか?
 自分が目指すところと合っているか、不安になってしまうことが多々あった。


 焦っているとき特有の、なんとなく地に足がついていない感覚。
 もがいたりあがいたりするだけで、1センチも進まない気持ち。
 何かはしているはずなのに、やりがいも達成感もなく終わる1日。
 そんな自分に落胆し、ずっと誰かに謝罪する追い込まれた気持ち。


何にかはわからないけれど、
自分がどんどん沈んでいくような気がした。



 そんななか夫が勧めてくれたのが、「 自己分析 」だった。
 幸いにも時間はたくさんあるのだから、じっくりやってみてはどうかと。


 こういうときは、とりあえずやってみよう。
 そういうわけで私は就職活動ぶりの自己分析を始めた。

先日見つけた近所のわんこ。
彼は自分のやるべきことがよくわかっていそうだ。
(ご主人を待っているのか、全然こっちを向いてくれなかった)


 最近の自己分析では、「 自分史 」を作るというのが一般的らしい。
 幼稚園生くらいから現在まで、毎年何があったかを覚えている限り書いて、その時の感情や考えたこと、それによって学んだことなどをまとめていく。

 少し前に流行ったビジネス書の「メモの魔術」にも、似たような作業が載っていたような気がする。
 あれも自己分析として紹介されていた気がするから、もしかしたらこの本が出版された5年くらい前からは、このやりかたがスタンダードになっているのだろうか。


 とにかく、5,6歳くらいから現在までの約30年間を必死に思い出しながら書いていく。
 私の性格のせいか、正直あまりいい思い出が思い浮かばない。感覚的には、いい思い出1に対して辛かったり悲しい思い出が3,4くらいだった。
 特に幼稚園~小学生前半はいじめられていたりもしたので、あまり良い記憶がないのだろう。

 いじめられっこを脱却後、反動なのかなんなのかガキ大将のような性格になり、高学年になるとその正解が担任の先生の目にとまり、目の敵にされた。
 その後入学した中学校は公立にもかかわらず、校則も上下関係もとても厳しかった。
 上級生が決め、破れば先輩から制裁を受ける、いわゆる「裏校則」も普通に存在する時代だったので、上級生に目をつけられないように、隠れるように廊下を歩いていたのを覚えている。

 その頃の思い出として印象的だったことがある。
 それは小学6年生のとき、一つ上の中学1年生がわざわざ放課後校庭で遊んでいる私たちのところに来たときのことだった。
 一つ上の先輩であるということしか知らない、あまり面識のない彼女ら。 そんな人たちがなんの用だろうと思っていると、突然彼女たちは「私たちが先輩だから!」と言い放った。
 そのいきがった声音は今も鮮明に覚えている。

 彼女ら中学1年生は、中学校では最下級生。
 中学校では誰にも威張ることができないから、わざわざ小学校まで威張りにきたのだ。


 当時も「なんだそれ……」と心のなかでドン引きしたのを覚えている。
 そんなことをしたくなるくらい、彼女らにとって中学校内の上下関係が苦しかったのだろう。憂さ晴らしをしたかったのだと思う。

 小学校の高学年くらいになると、年上の兄弟を持つ同級生から、中学校の上下関係の厳しさを聞いていた。嫌だなぁと思っていた。
 たかだか1年や2年の差で、何が偉いのだろうと思わずにはいられなかった。
 そして当時の私は祖父母に「あんたは耳年増だね」と言われるくらいだったから、その時の彼女たちを見て怯えるでもなく、「あー威張りたくて来てるんだな」とすぐに理解したし、冷めた目で見ていてもいた。
 なのでとっさに出たのがこんな言葉だった。



「 わかりました! せ~んぱい♪ 」



 おちょくっていると言われてもおかしくない言い方だったと思う。正直、少し(というかかなり)小馬鹿にしていた。
 しかし、このときの満足げな先輩方の顔は、今でも覚えている。きっと、込められた感情は関係なく、本当に欲しい言葉だったのだろう。

 そしてこのエピソードを何度思い出しても、自分の可愛げのなさにびっくりする。


 自分史を振り返ると、こんな転職活動では語れないような、むしろ自分の人格を貶めそうなエピソードがゴロゴロと出てくる。
 自分の尊厳を守るため、ここでこれ以上の自分史を語るのはやめておくことにしよう。
 せっかく読んでくださる方々に、これ以上失望されたくない。

先日プラハで見に行った、カフカの顔のオブジェ。
彼はオブジェになっても意思を持ち、そして休憩しているようだ。

 さて、そんな自分の過去を掘り返すのに4日ほど時間を掛け、無事に終了させた。長かった。

続いてやるのが、

・今までで楽しかったこと、嫌だったこと
・やりたいこと、やりたくないこと、できること、できないこと
・今抱えている不安
・「本当は~」を付けた文章を書く
・どういう自分になりたいか
・やってみたいこと、興味のあること

などなどを思い出したことをベースにまとめていくこと。
 4日間をかけて過去を掘り返しているので、自分の思考パターンや関心事、逆に苦手や関心のないもの見つけやすくなっている。
 なにより理性的で建前的なものが少しずつ削がれ、感情の乗った意思や思いがよく見えてくる気がした。

 そして最後に「これから次やること(仕事)に何を求めるか?」を書いていく。
 転職活動をするのであれば「これが実現できる仕事(会社)を探そう!」ということになるし、私のような” やりたいこと探し ”ややっていることの検算をしている場合は「これが実現できること(仕事)をやろう!」ということになる。
 自分の気持ちが少しでも見えてくればいいと思いながら、真摯な気持ちでこの質問と向き合っていった。



 その結果、最後の「自分は次やることに何を求めているのか」という項目には、とてもエゴイスティックな願望が並んでいた。
 いくつか綺麗な願望もあるが、とてもお見せできるものではない。



 危険思想とかそういうことではない。
 ただ、「いつか人を見返したい」というような、人がわりと一般的に思っていそうだけれど、表立って言うようなことじゃない願望が、見事な列を作っていた。
 仕事の種類にかかわらず、理想の自分と現実自分の間にギャップがある人特有の、ドロドロとしたエゴイスティックな欲望が見えた。

 なんてエゴエゴしいんだろう。
 否定しようにも、これは1週間かけて出てきた結果だ。
 時間をかけて過去を振り返ることから始めて、ここにたどり着いてしまった。だから、このびっくりするくらいエゴイスティックな欲望を並べる自分が、おそらく本当の自分なのだろう。



そんな自分を包み隠したり見なかったことにするのは簡単だ。
むしろ、そっちのほうが簡単なんじゃないかとすら思う。
たぶん私は、今までそっちの選択をしてきたような気がする。

 だからこそ今までずっと持っていて、しかもなんとなくそこにあることは気づいていたくせに、初めて知ったような動揺をしているのだと思う。


 こういう「知らなかった」とか「えー!? 嘘ー!」みたいなスタンスをやめて、いい加減自分に向き合っていかなければいけないのかも、と思った。
 日頃見えている当たり障りのない形になったところだけでなく、日陰で正体がわかりきっていないところも、全部。
 否定も肯定もせず、自分として受け止める。そのときが来ているような気がした。


 なにより、自分の思いを否定したって始まらないし、直す苦しさより受け入れて活かす苦しさを選ぶほうが、健康的な選択のはずだ。
 自分とは一生付き合っていくのだし、そういう自分をどう活かして生きていくかを考えるのが、自分の腕の見せどころとも言えるのだろう。


最近すっかり雪に包まれた近所の公園。
いつも癒やしを与えてくれる美しい場所だけれど、
雪と朝日のおかげで、なおのこと美しくなっていた

ドイツに来て9ヶ月。
世間というものを以前よりも意識せず、
自分を意識するようになったからこそ、
こういうことも素直にできつつあるのだと思う。


ようやくわかってきた自分を受け入れて、前に進もう。


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