外国に来て、自分のアイデンティティに気づく。
外国にいると「日本人コミュニティ」というものに度々出会う。
駐在妻コミュニティ、駐在ママコミュニティ、ドイツ人と結婚した日本人のコミュニティなどがSNS上や住んでいるエリアにあるみたいだ。
私の住むエリアは人口約55万人に対して日本人が300人ほどらしい。そのため、街で見かけるアジア人はだいたい中国人と韓国人、そしてベトナム人が大半。日本人を見かけることはほぼない。
そんな規模感なので、現地に住む日本人(と日本出身の方)と知り合いになって「この前○○さんという方にお世話になって…」という話をすると「ああ!〇〇さんとお友達なんです」なんて返ってくることも多い。
マンモス校なら1学年分くらいの人数しかいないのだから、なくもない話かもしれない。下手したら全員の名前を覚えられそうなレベルだ。
でもこういうことが起きるのは、小さいエリアの、小さいコミュニティだからこそなのだと思っていた。
先日ドイツで仕事をするための手続きについて聞こうと、税理士さんとZOOMでミーティングをした。その方は日本出身で、もう20年以上ドイツで暮らしているらしい。日本語でドイツの税務関連の話をしてくれるので、私のような人には本当に助かる存在だ。
税理士さんに色々ヒアリングされている中で、私が出発前から渡航手続きでお世話になっている会社さんの話をしたときのこと。
「△△ってところに手続きを手伝ってもらっていて…」と話すと、「ああ、△△って××さんと□□さんがいらっしゃるところですよね、知ってます」と同業でもないのに名前が挙がってくる。
「え、知ってるの!?」と、私は驚いた。
確かにオフィスのあるエリアはどちらも比較的近いところのようだ。でも、同業でもないのに知り合う機会はあるのだろうか……と思った。
けれど、ここはドイツ。外国で「 日本人 」をキーワードにビジネスをしているだけで、顔見知りになったりそれがきっかけで仕事をすることが結構あるそうなのだ。
人口の多いとか少ないとかエリアの広い狭いは関係なく、「 日本人 」という属性を持っているからつながるネットワークやコミュニティがある。
それを聞いて「 私は外国にいるんだ 」と強く感じた。
「 日本人 」ということがアイデンティティであり、ネットワークの基盤や自分を差別化する要素にもなる。これは日本にいないから起きる。
日本の中で「 日本人だから 」という理由で集まることは基本ない。日本国内にいても「 日本人 」という国籍上の属性は付けられているけれど、日本国内にはそのカテゴリに属する人が1億人以上いる。区分するフィルターとしては穴の空いたザルのような、ほとんど無意味なものだ。
それもあって私は、「 日本人 」とか「 日本出身である 」ということをあまり意識せずに生きてきたし、日本にいる大抵の日本人はそうだと思う。
けれど、日本から離れればおのずと日本人は少なくなる。
すると「日本人」というカテゴリだけで区分でき、それがアイデンティティにもなるし価値になりやすくなる。それをきっかけにネットワークも作られる。
Aの国ではありふれていて無価値のものが、
Bの国に持っていくだけで価値あるものになる。
ビジネスだけじゃなく世の中ではこういうことがよくあるので、理論的にはわかる。時間や場所を移動することで、希少性とか新規性とか、そういうもので見え方も見られ方も変わっていく。
でも自分が身につけたスキルや経験ならともかく、自分が生まれながらに持っているアイデンティティも、移動によって意味や価値が変化する経験をしたことは今までなかったと思う。
そのせいか、なんだか不思議な感覚に包まれている。自分は「 日本人 」というアイデンティティを持っている。わかっていたつもりだけれど、それを改めて突きつけられたような気がした。
外国に住むと自分が「 日本人 」であるということを認識するようになると、色々な人から聞いていた。
これからもっと「 自分は日本人だ 」と感じさせられたり、時にはそれを誇りに思ったり、周りから何かを期待されるときも来るのかもしれない。
そのとき私は日本人として何ができるのだろうと考えてみた。
私は小中学生時代にで剣道をやっていて、初段だけれど一応資格を持っている。去年、仕事の都合で日本史を旧石器時代くらいから勉強し直したので、以前よりは何か聞かれても答えられるような気がしている。
そして同じく去年、興味本位で茶道や華道をかじったので、こういうスキルも日本人というアイデンティティに加算できるだろう。
万が一お家に誰かを呼ぶ時に、お楽しみコンテンツになるかも……と思い、お茶碗とお道具は少しだけ持ってきている。まだ肝心のお友達がいないけれど。
あとはまだ届いていないけれど、着物の用意がある。
それは黒柳徹子さんが昔、ニューヨークの町中で振り袖をスタイリッシュに着こなしていた写真を見たからで、着物で外国の街を歩くとか、似たようなことをいつか理由を付けてできないかと思ったからだ。理由なくする実行するほどの勇気はない。もう振り袖は着られないので留袖になってしまう。着付けも怪しいけれど、着る理由が見つかったらYoutubeで勉強する覚悟だ。
挙げたもののほとんどが日本人としてのアイデンティティというより、自分の好奇心のままに身につけたスキルや用意したものだ。けれど、それぞれがどこかで自分の日本人というアイデンティティを補強したり、より価値を生むときがくるのだろうか。
正直今は、まったく想像できない。今は生きるだけでいっぱいいっぱいだ。でもこれからもし少しでも役に立ったら、嬉しいかもしれない。
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