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世界3拠点、20人の仲間。場所と時差にとらわれない、完全リモートワーク編集者になるまで

 大学を卒業してから今年で10年になる。その間、僕の職業は広報PRライター編集者とシフトし、住んでいる場所も日本シンガポールオランダと移ろった。今はアムステルダムに住みながら、オランダとシンガポールと日本で会社を経営。欧米と東南アジアをはじめ、世界中の情報を扱い、各地の仲間やライターに支えられながら企画・編集の仕事に携わっている。今回は自己紹介を兼ねて、ここに行きつくまでの軌跡をたどりたい。

大学時代にWebマガジン、美大生の作品を紹介

 僕が世の中に向けて情報を発信し始めたのは、大学4年のころにさかのぼる。就職活動が終わったタイミングで、Webマガジンを立ち上げ、たまたま周りにたくさんいた美大生の作品や彼らの発想を紹介した。経済学部に在籍し、言葉で表現するのを好む僕と違って、美大生が視覚や感覚といった非言語で表現するのがとても新鮮に感じられたし、形あるものを作る人たちへの憧れや興味があって、この感動を伝えたいと思ったのだ。

 このWebマガジンを立ち上げたことで、美大生との接点ができ、話をしやすい環境ができたし、それに読者からの反応が意外とあって、情報発信者としての自信になったと思う。何より、時間やお金を気にせず、苦労を感じずに、楽しんで情報発信ができたことは大きい。この経験は、その後のライター、編集者としての僕の基盤となった。また、美大生などクリエイティブな人たちと付き合ううちに、大組織ではなく個人の力で活躍していくといった、起業心や独立心みたいなものも育まれていった。

PR会社に就職後ライターとして独立、組織人から個人へ

 それでも大学卒業後はPR会社に就職し、1年半ほど企業広報部とメディアをつなぐ仕事をした。時代の空気から「いつかは起業したい」という思いもあったが、実際に経済学部の友人たちで起業する例は見かけなかったし、僕が目指していた広告業界で活躍するフリーランスの人を知らなかったのだ。このPR会社は社員数が30人ぐらいのベンチャー企業だったため、大手に勤めるよりも早く責任ある仕事をさせてもらえた。一方で、大手企業を相手に仕事をする中で「歯車感」も味わった。

 そんな中、社外の勉強会に参加したのをきっかけに、再び独立心が呼び起こされた。勉強会は、予算規模の小さいNPO法人やアート系の組織に対して、広報面から事業を支援するというもので、そこでは組織人としてではなく、個人としての資質や能力が問われた。つまり、「〇〇会社〇〇部署〇年目の岡」と組織人としてではなく、「岡です。〇〇ができます」と個人を名乗って能力を発揮することで、周囲の人たちに喜ばれたのだ。これは、僕の独立起業心に火をつけた。

 その後、社外の出会いの中で僕に仕事をくれると言ってくれる人も現れ、僕は「1カ月にどのぐらい稼げばやっていけるか」とか「継続的な顧客をつくるにはどうすればいいか」など、具体的なことを真剣に考えるようになった。そして周りにも「独立」を言い始めた時、「ライターをやってみないか?」という声がかかったのを機に、2011年、僕は独立することになった。

ライター始動、海外のデジタルマーケティングを発信

 それからは主に、海外のデジタルマーケティングの先進事例などをニュースサイトで発信してきた。1記事の単価が6000円ぐらいだったので、1日3記事書いて1万5000円~2万円20営業日で30~40万円を稼ぐというのが自分に課したノルマだったが、1媒体との契約でそんなに自分の枠をもらえるわけもない。そこで、初めのうちはPRの仕事も請け負い、二足の草鞋で回していた。

 PRとライティングの仕事は、最終的に届ける先が読者や一般消費者だという共通点があるが、誰にどう行動させるかという目的が違う。広報PRの場合はクライアントの求めに応じて、商品やサービスに意味や価値を付け加えて「売る」ということだが、ライターの場合は自分が伝えたいこと、社会に変化をもたらしたいことを、自分の作ったもの(コンテンツ)で変えていくのが目的だ。僕の場合、実は本質的には後者のほうに惹かれていたのだろう。仕事の内容は徐々にライターのほうにシフトしていった。

 その後、僕は東京で2~3の媒体に営業をかけた。PRの経験から、「このメディアで記事を書けば、次はこのメディアに売り込める」というような情報の動性も分かっていたので、できるだけ影響力の高いメディアを選んだ。徐々に取引媒体の数や人脈が広がり、いろんな仕事が振られる中で、これまでのデジタルマーケティングに加えて、ビジネス、経済、経営者インタビューなど、トピックの幅も広がっていった。このころから仕事が継続的に入り、ライターとしての仕事が安定してきた。

シンガポールでアジア情報を発信、ライターから編集者へ

 シンガポールに移住したのは2013年のことだった。そのころにはまだポツポツと入ってきていたPRの仕事で海外案件を取り扱ったのだが、「自分が海外に出て、現地に詳しくなったほうが日本企業の役に立てる」と痛感するような経験をしたのが海外移住の決め手となった。シンガポールを選んだのは、当時日本の起業家、ベンチャーが続々と進出していたからだ。

 シンガポール移住を前に、日本の媒体に営業攻勢をかけた。「日系企業の東南アジア進出に関するコラムやインタビュー記事を書きます」、と。当時、シンガポールに進出する日系企業は、東南アジアへの進出を視野に入れていたので、1カ国に限らず東南アジアを面でとらえて情報を集めるという僕のアイデアは需要が高く、多くの媒体で連載をもらえた。そのころから『東洋経済オンライン』でも記事を書かせてもらえることになり、月1~2回は『Yahoo! ニュース』のトップ、いわゆるヤフトピにも掲載されるようになった。

 しかし、実際に東南アジア情報の連載を担当してみると、自分がマレーシアやインドネシアに取材に行っている間、シンガポールが手薄になる・・・という問題が発生してきた。東南アジア全体を一人でカバーするには無理があったのだ。さらにシンガポールに住みながらマニラやジャカルタの情報を集めるのは難しく、「現地にいないと分からない」ということを再認識。自分よりもいい情報をキャッチして、いいものを書ける人は現地にいるに違いないと思うに至った。そして、実際にWeb上にアップされた記事などを検索して、現地のライターを探し出した。

 こうして僕は徐々にライターから編集者へとシフトしていった。東南アジアを面としてとらえる編集者は今までいなかったため、日本の媒体からはありがたがられたし、各地で現地情報に特化しているライターたちにとっても、「東南アジア連載」ということで安定して継続的に仕事ができると喜ばれた。東南アジアでは1回かぎりだった人も含めると、20人以上のライターと仕事をした。

 シンガポール時代には正社員も雇った時事通信社のシンガポール支社の記者をスカウトしたのだ。編集の仕事はかなり労働集約的なので、1人の会社が2人になるとき利幅が大きく縮小する。しかも新入社員が仕事のペースとクライアントのニーズをつかむまでには時間がかかり、この時期は相当ストレスも大きかった。それでもやりたいことへの熱意がコストやストレスを上回り、勢いがあったのだと思う。結果的には正社員を雇って、ハイクオリティーな記事を安定的に供給できるようになったし、一人でやっていたのでは生まれなかったような仕事も生まれた。それに、僕自身が「人を雇う」という経験ができたのは大きい。

シンガポールから、オランダへ

 シンガポールに2年半住んだ後、今度はオランダに移住した。シンガポールで見つけたビジネスモデルを他の地域にも広げたいと思ったのと、シンガポールでの生活に飽き、ヨーロッパで生活してみたいと思ったからだ。ヨーロッパの中でもオランダを選んだのは、ビザが要らなかったから。イギリス、ドイツ、スペイン、スイスなどへの移住も考えたが、まずはオランダに行って、そこからいろいろ行ってみようということにした。

 オランダ進出のタイミングはシンガポールの時と同様、まださほど日本人が多くない時。僕が「第一波」で移住し、今は多くの日系企業が押し寄せる「第二波」がやって来ている。ビジネスとしては第二波で移住したほうが成長するし、すでにいろんなものが確立されて便利なのだろうが、あくまでも「第一波」で行きたいというのは完全に僕の性格だと思う。メディア業を選んだ時点でそういう資質はあるのだろう。

 後から知ったことだが、オランダはヨーロッパのハブ的な存在で、東南アジアにおけるシンガポールの立ち位置とも似ている。オランダに来てからいろんな都市に出張し、プライベートでも人脈が広がり、ヨーロッパ各都市に友人がいるという状況に近づいている。また、シンガポールの時よりアメリカと地理的に近くなり、以前より東海岸のニューヨーク、西海岸のシリコンバレーと交流を深められるのが嬉しい。

 子どもの教育生活環境面でもオランダは住みやすく、図らずもいい場所を選んだのだと思う。昨年オランダには「ユニクロ」が進出してきて、日本人にはますます住みやすい環境になってきている。「第二波」がやってきたら、僕にとってはちょっと住みやすくなりすぎる感もある。

 この先また第一波に乗って、別のハブ都市を求めて移住するかどうかは分からない。だけれど、場所や時差にとらわれずに働き始めた結果、今は、どこに引っ越しても、引っ越さなくても、やりたいことはやれるのかな、という気もしている。

編集者/Livit代表 岡徳之
2009年慶應義塾大学経済学部を卒業後、PR会社に入社。2011年に独立し、ライターとしてのキャリアを歩み始める。その後、記事執筆の分野をビジネス、テクノロジー、マーケティングへと広げ、企業のオウンドメディア運営にも従事。2013年シンガポールに進出。事業拡大にともない、専属ライターの採用、海外在住ライターのネットワーキングを開始。2015年オランダに進出。現在はアムステルダムを拠点に活動。これまで「東洋経済オンライン」や「NewsPicks」など有力メディア約30媒体で連載を担当。共著に『ミレニアル・Z世代の「新」価値観』。
執筆協力:山本直子
フリーランスライター。慶應義塾大学文学部卒業後、シンクタンクで証券アナリストとして勤務。その後、日本、中国、マレーシア、シンガポールで経済記者を経て、2004年よりオランダ在住。現在はオランダの生活・経済情報やヨーロッパのITトレンドを雑誌やネットで紹介するほか、北ブラバント州政府のアドバイザーとして、日本とオランダの企業を結ぶ仲介役を務める。

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