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【短編】『旋律の響き』(前編)

旋律の響き(前編)


 彼女の鍵盤を叩く姿はある時にはまるで天使がハープを弾いているように美しく見え、またある時には殺し屋のように猛烈に激しく恐ろしくも感じられた。しかし、いざ鍵盤から指先を離すと全くもってそれらの面影は消え去り、存在感すら感じられないほど別人へと様変わりするのだ。私は毎度、ステージの裏から彼女がピアノを弾き終わりこちらへと戻ってくる姿を見ながら、ピアノを前にした彼女とそうでない彼女の人格の解離に惹きつけられていた。彼女には大抵の人にはない何かを持っていると思えた。そして私はその何かを探りたいと強く思った。しかし彼女は別の音楽事務所に所属するピアニストだったため、直接彼女に申し出る他に私が彼女に関与する隙はなかった。

「あの、少しお時間いいですか?」

「はい」

「実はこういう者でして」

と私は自分のプロダクションの名刺を照明が微かに届く場所の下にかざして彼女に見せた。

「実はあなたの演奏に感銘を受けまして、もしよろしければ少しお話できないかと」

私はダメもとで彼女への勧誘を試みた。

「いいですよ」

と彼女の透き通ったやさしい声が私の左耳から右耳へと過ぎ去った。

「今なんと?」

「ですから、いいですよ」

「あなた私の立場をわかってますか?私スカウトですよ?」

私は彼女が断ると思っていたばかりにむしろ自分の方からあたかも彼女が間違いを犯したかのように問いただしてしまった。

「もちろんわかってます。その上で言ったんです」

「でも、今の事務所は?」

「実はちょうど辞めるつもりだったんです」

「そんなあっけなく辞めてしまっていいのかい?一応大手だろ?」

「いいんです。今回が今の事務所での最後の演奏になるだけです」

私は存在感のない彼女の根底から計り知れない強情さを感じ取った。

「そうか、ならいいんだが。そしたらここで話すのもなんだから私の部屋に少しの間来てくれないか?」

「はい」

彼女の決断がまるで私が質問をする前から決まっていたかのごとく、私の考えていた理想的な展開像は淡々と具現化されていった。

 部屋には、これから演奏を控えているピアニストがいたものの、私はその者を追い出して、部屋に二人きりになった。

「今の事務所からはいくらぐらいもらっているんだい?」

「お金なら結構です」

「なんで?」

「私はお金のためにピアノを弾いているのではないので。今の事務所は母親の言い付けで無理やり入らされたんです」

「君はどこでピアノを習ったんだ?」

「母です」

「そうか。それで大手に入れさせたのか。勝手に事務所を変えて怒られないか?」

「はい。私もう成人してますから」

「そう言う意味じゃないよ。君のお母さんの機嫌を損ねて辞めさせられたりしないかって」

「そんなの知りません。辞めさせられるなら私は母と縁を切ります」

「そこまでしなくてもいいだろ?」

「いいえ、これは私の決断なので」

「そうかい」

私は彼女がここまで意地を張る人だとは思ってもいなかった。およそ今まで自分の思うがままにピアノを弾けてこなかったことに腹を立てているのだろう。しかし仮にそうであるのなら一層のこと自由にやらせてみても悪くないとさえ思えた。長続きはしないであろうが少しの間でも自分のもとで彼女の演奏をプロデュースできるのであれば、願ったり叶ったりだった。

「では、そういうことで明日からよろしくお願いします」

「あ、こちらこそよろしくね」

私の方から彼女を勧誘したはずがむしろ私が彼女のプロデューサーとして採用されたような感覚がしてどこかおかしさを覚えた。気づくと彼女は向こうへと歩き去っていた。

 翌日彼女が事務所に訪れるまで、私は何度も前の日の彼女の生演奏そしてその直後の会話を思い出し懐古に浸った。彼女の鍵盤を撫でる姿、そして直後に叩き割る姿。終始彼女は何か神聖なものを身に纏っているかのように神々しく美しかった。その混沌の抜け殻だけを残して彼女はピアノを後にした。彼女が事務所を訪れたのは夜だった。私はすぐに察知した。今まで感じていた彼女の存在感のなさ故の底から聞こえる真の音色はすでに彼女からは聞こえなくなってしまっていたことを。その日は久々の大雨で彼女はその雨に心を持っていかれてしまったかのようにずぶ濡れの状態で下を向いて現れた。

「遅くなってしまってごめんなさい」

「君、その格好は」

「家出をしてきたの」

「なんだって?」

「もう家にはいられなくなってしまったの」

「言わんこっちゃない。早く中に入りなさい」

彼女の姿はピアニストではなくただの家を追い出された少女同然だった。

「なぜ家を出てきたんだ?」

「母から逃げるためです」

「昨日言っていた縁を切るというのは本気なのか?」

「はい。母に縁を切ると言ったら、その腕を出しなさいと言ってきました。何をするのかと思い、母の目を見つめていると、私の手を強く握って台所まで連れていかれたんです。あともうし少しのところでナイフが私の手に突き刺さる寸前に私は母を突き飛ばして家を出てきました。幸いあなたの名刺がポケットに入っていたのでこの場所まで来れました」

「なんてこった。やはり君の親は君が事務所を辞めることに反対だったんだ」

「でも、もう私は母親の言いなりになるなんてまっぴらです。お願いです、この事務所に入れてください」

私は彼女が事務所に入ることに胸を高ならせていたものの、このような厄介事に事務所を巻き込んでは問題になることはわかっていた。私は髪をタオルで拭う彼女の目を見ながら言葉を切った。

「すまんが、それはできなさそうだ。ちゃんと親と仲直りしてきなさい」

「そんな、前の事務所も辞めたんです」

「そこはきっとお母さんがなんとかしてくれる」

「そんなの私のしたいことじゃない」

と彼女はタオルを床に捨ててそのまま土砂降りの外へと走り去ってしまった。

 それからのこと、彼女の姿をピアノのコンサートで見かけることはなかった。再び彼女が現れやしないかと思いながら毎度ステージの裏で待機していたが、結局無駄骨に終わった。ある日、事務所のピアニストを連れて街中を歩いていると、一瞬歩道の向こう側に彼女の姿を見た気がした。信号が変わったと同時にすぐにピアニストを置いて駆けつけたが、人混みに彼女を見失ってしまった。数年が経ち、ふと彼女のことを思い出した私は、彼女のピアノの演奏を見返そうとネットで検索すると、そこに全く予期していなかったものが映っていた。彼女はピアノを辞め、満面の笑みを浮かべて自らの体を剥き出しにしていたのだ。


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