【短編】『僕が入る墓』(序終編)
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僕が入る墓(序終編)
義父が太い縄だけでどうやって奴らを捕まえるのか知る由もなかった。すると、義父がその一つを手に取って僕の足元に大きな輪っかを作った。
「ここに足を入れてみな」
僕は義父の言われた通りに輪っかの中央を踏みつけた。縄は小さな積み木のようなものに空いた二つの穴を通って、その先には大きな杭が付いていた。すると、義父がその杭を手に持って引っ張ると同時に、僕の足にかかった輪っかは徐々に縮んでいき、ついには僕の足を強く締め付けた。僕は意思とは裏腹にその場で一歩も動けなくなった。
「この仕組みを使うんだ」
僕はなんとなく義父が試そうとしていることが理解できるような気がした。
「これはあくまで小動物用の罠だ。人間が引っ掛かったら自分の手で解けてしまう。だがそれがむしろ好都合だ」
僕はなぜ義父が好都合と言ったのかわからなかった。
「拓海くん、君は縄を解こうと思ったらどうする?」
「緩めようとします」
「どうやって?」
僕は身振り手振りでその動きを二人の前で演じて見せた。
「それはつまり、何を使って縄を解こうとするんだ?」
「両手を使います」
「そう。それが重要なんだ。人間は手と足が塞がった状態ではなす術もない。それに暗い中で縄は簡単には解けない。手こずることは間違いない」
「では、どうやって奴らを罠に掛けるんですか?」
義父はにこりと笑って答えた。
「運に任せるんだ」
明美が襲われてからのこと、防犯センサーを設置するほど何事も用意周到に戦略を練ってきた義父の口から「運」という言葉が出てきたことには驚いた。むしろ奴らを捕らえることすら諦めてしまったのではないかとさえ思えた。
「勝率はある」
義父は狭い地下室の床を見渡して言った。
「ランチェスターの法則を知ってるか?」
「ランチェスター?」
「まあ、簡単に言えば、量より質にこだわることが重要だということだ。数打てば当たるってわけでもない。家の各場所に罠を仕掛けるよりも、一箇所絶対に逃さないって場所を決めてそこに一点集中で罠を仕掛ける。そうすれば、失敗する確率も減る」
義父は僕が思っている以上に戦略家だった。自分も同じ思考を持ちさえすれば、普段の経営企画部の仕事もうまくこなせるのにと息を漏らした。
「捕らえ方はこうだ。敵が罠にかかる。俺が縄を力いっぱい引いて足を縛る。その隙に拓海くん、君が敵を物理的に捕らえる」
なぜか僕が重要な役割を担う羽目になっていた。
「奴らが襲ってくるのは夜に限る。なら向こうだって視界が悪いはずだ」
僕たちは早速くくり罠を持てるだけ持って地上へ戻ろうと思った。地下は案外空気が通っていた。それを示すように小さな出口が落ちてきた穴とは別にもう一つあった。その扉を開けると、目の前には狭い通路が人間の手で作られていた。僕は夢の世界に別れを告げるように、その扉を勢いよく閉めた。
バタンッ
咄嗟に手が震えると同時に耳を疑った。自分が夜寝ている時に聞こえた音はこの音だった。何者かがこの地下室を出入りしていたということだ。僕はふと嫌なことを思い浮かべてしまった。何者かが秘密裏にこの屋敷に住み着いているのではないかということだ。この地下室で生きていくには食料を地上で調達するしかない。そうなると、あの扉が閉まる音というのは、この地下室に住む誰かが食料を求めてこっそり屋敷内に侵入する時の音と言うことができた。その誰かが、今回屋敷を襲っている犯人であるかまでは検討がつかないが、不法侵入者であることだけは間違いなかった。僕はますますこの家の闇の部分に触れてしまったような気がして気が休まらなかった。
通路を進むにつれて、微かに上の方から光が差し込んだ。もう外は朝のようだった。義父が何かに頭をぶつけると、すぐ真上に床板があるようだった。義父は力いっぱい年季の入った床板に向かって拳を振るった。板は簡単に砕け、頭上にできた小さな穴からは強い光が差し込んだ。板を一つ一つ砕いてようやく地上に出ると、目の前に仏壇とお祖父様の遺影が映った。久保田家の家宝が置いてある部屋だった。
自ずと嫌な妄想も頭から消え去った。出入り口は床板で閉ざされていたのだ。第一、自分が最初に降ってきた通路でさえ、壁に穴を開けた時に発見したのだ。どうやらこの二つの通路はとうの昔に作られて、今では久保田家の跡を継ぐ者たちに忘れ去られてしまったようだった。
ふとした時にあの扉の音が僕の頭に蘇った。実際に僕はあの音をなん度も聞いていた。やはり、地下に何者かが住んでいたのだろうか。だが、通路を進んだ先には壁がある。どうやってそこから出入りしていたのだろうか。僕は恐ろしくなって、ゾンビのように次から次へと湧いて出る不吉な考えを無理やり記憶の底へと封じ込んだ。
義父が電話で警察と話している声が聞こえてきた。何やら警備をつけるかつけないかで揉めている様子だった。僕は仏壇のそばに置いてあるお祖父様の遺影を眺めながら、明美のことを思った。明美が目を覚ましたという連絡はまだなかった。なるべく義父や義母には明美の件については話さないように心がけていたが、返ってそれが心の中に潜む不安を増大させていた。
「あの、病院には何時ごろ行きますか?」
義母は割れたガラスを箒で拾い集めていた。腰を上げると、僕の方を見て優しく答えた。
「そうね。お昼頃には一度行きたいわね」
義母の声からは、救急車の中や病院での手術中あらわにしていた心の乱れは少しも感じられなかった。きっと僕に心配をかけさせたくないがために平静を装っているのだろう。一方で、僕は立て続けに起こった災難に心も体も疲弊していた。幸い自分の寝床の部屋は窓ガラスが割れておらず、義母に少し眠ると告げて部屋に籠った。
目を覚ますと、すでに正午を過ぎていた。すぐに部屋を抜け出し、長い廊下を歩いて居間へと向かった。二人はテレビの方を向いて座敷に腰掛け、一息ついている様子だった。
「おはよう。寝れた?」
「はい。ただ、怖い夢を見た気が――」
「そうよね。あれだけ恐ろしい経験をしたのだから。でももう安心よ。警察の方が屋敷の外で昼夜問わず警備してくださることになったの」
義父がくたびれた顔で横から会話に入った。
「安心するのはまだ早い。いつ何時奴らが襲ってきてもおかしくない。念には念を置いて我々も用心しなければいかん」
「まあ、そう堅苦しくならずに少し気を緩めて」
義父は義母の話に聞く耳を持たないといった具合に目を逸らした。
「さて、拓海さんがご飯食べ終わったら明美の様子を見に行きましょう。先生曰くもうすぐ目を覚ます頃とのことですから」
「はい」
僕は机に置かれた皿を自分のもとに寄せて被さったラップを取り外した。卵焼きだった。味噌汁をお椀によそってから、白米の上に納豆をかけた。卵焼きを一切れ口に運んでから焼き鮭も続けて頬張った。どこか豪華な朝食を食べている気がした。明美と二人暮らしをしているときの朝は、苺ジャムを塗ったトーストとグラノラを食べる毎日だった。
家を出る頃にはすでに警察の車両が屋敷のすぐ外に何台も停まっていた。義父が挨拶すると警備の者が深くお辞儀を返した。やはりこの地域の警察は久保田家にだいぶお世話になっているようだった。おおよそ警察署以外にも、町内会や市役所、信用金庫など街ぐるみの団体には多額の献金をしているのだろう。僕たちは白いミニバンでゆっくりと屋敷を去った。
明美は未だ目覚めてはいなかった。病室の中は冷房で冷えきっていたため、明美の体も冷たくなっていた。まるで明美が息を引き取ってしまったかのようだった。病院内の空気はどこか澱んでおり、自分まで病気になったような気がした。
その感覚は幼少期の頃からずっと変わらなかった。ある時、祖父の入院のお見舞いに行った際に、妙な妄想が頭をよぎった。病人が吐いた息が施設の中に充満し、それを自分が吸っているような感覚を覚えたのだ。それ以来、病気がうつるからという理由ではなく、汚い空浮を吸いたくないという理由から病院を訪れる度にアレルギー反応で咳が出るようになった。病気という汚れのイメージが頭の中で増幅し、病院そのものが、汚れた場所と認識するようになってしまった。
僕は、明美の病室の窓を開けて空気を入れ替えた。病気でない明美にまで病的なものがうつってしまうような気がしたのだ。外の空気は蒸し暑かった。絶え間ない蝉の鳴き声がそれを助長していた。すると、たちまち外と中の空気が混ざり合って、まるで何かが外から病室に入ってきたかのようにカーテンが大きく揺らいだ。
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