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脳みそジャーニー【40】 カラダに「ありがとう」を言った日のこと

病院で抗がん剤投与を終えた夜、お風呂に浸かっていたときのことです。
「今日もとりあえず無事投与できてよかったなあ」などと思いながら湯舟に浸かり、胸の手術痕をなんとはなしに眺めていました。

胸の傷あとは、斜め一直線。
外科医の熟練ぶりを物語るような、迷いなく引かれた15センチほどの赤いラインです。術後数か月は、胸に分厚い鉄板を入れられているような違和感と疼痛、麻痺がありましたが、今ではそれも随分和らぎました。

術後数か月経って、傷が大分キレイになってきた


湯船の中で、まったいらの、肋骨がぽつぽつと浮き出た胸を、なんとなく撫でているとき、


「よく、頑張ってくれたねえ」


思わずそんな言葉がこぼれました。

それはカラダという「もう一人の私」に言葉を掛けるという、不思議な体験でした。


私の右の乳房は、丸ごと切り取られるという強烈な痛みに耐え、ひどい内出血を経て、傷口をふさぎ、今なお、文句ひとつ言わずに治癒に向かって前進していました。

その傷あとのことが、とても健気に思えてきました。

湯船の中で、「痛かったよねえ、本当にありがとうねえ」と小声でつぶやくと、少し目が潤みました。

同じように、両腕のこともさすってやりました。これまで何十回にも渡る注射の失敗に耐えてきた両腕。

そして看護師がわざわざ防護服を着るほどの、猛毒でもある抗がん剤を、血管はただただ必死で受け止めてきてくれました。回を重ねるごとに血管痛が激しくなっても、せっせと全身へ薬を巡らせてくれてきたのでした。


「血管、ありがとうねえ。今日も痛かったねえ」
そうやって腕をさすってやると、また涙が出ました。


痺れてしまった手足の指も一本一本マッサージしてやり、「えらいね、えらいね、頑張ってる!」「髪の毛だって、ちょっぴり生えてきたよ。すごいすごい」「おしりだってさ、毎日の苦痛によく堪えている!!」


そんな風にして湯舟の中で、どこもかしこも「ありがとう、ありがとう」とさすってやりました。
ぼろぼろと涙が止まりませんでした。
 

カラダは言うまでもなく私自身です。


だからこれまで、私が「こうしろ!」と命令を出し、その指令を受けて働くのが当然だと思って生きてきました。しかし、ここにきて、それは間違っていたのだと気づかされました。


言うなれば、カラダは生まれたときに「私という意識」を乗せてお借りした「レンタカー」のようなものであり、厳密には、私の所有物ではないのです。

一人にひとつ、かなり個体差のあるスペックのカラダを、借りて私たちは生まれてきたのです。

誰ひとり、その返却期限を知らないけれど。


これまでカラダのことを、「私の命令が絶対だよ! 言うこと聞け!」と無理をさせたことが幾度もありました。くたびれて悲鳴をあげても、優しくしてあげる習慣がなく、「どうして、私のカラダはこうなの?」「もう少し、ココがこうだったらなあ」「すぐ疲れる、まったく使えないヤツだな」と、厳しく接してしまった。

乳がんになったときにも「なんなのさ、私のカラダって! ボロいな! 使えねーカラダだな!!」とカラダに対してブチ切れていました。


私たちはいつも、自分の大切な人に対し、「大丈夫? 少し休もうか」と言います。頑張ったときには「すごい、頑張ったねえ」と褒めます。そうして「欠点も含めて、あなたが大好き」と思って接しています。
 

身体だって、私の大切なパートナーだったのに。
冷たくした。
厳しくした。
文句ばっかり言って、認めてやらなかった。

 

40年以上も、いろいろな不具合に悩まされながらも、じっと黙って、とてもよく頑張ってくれていたのに。いいときも悪い時も、二人三脚となって、毎日毎日わたしと一緒にただ寄り添ってくれていたのに。


「これまで、気づいてやれなくてごめんね」


私は大事なパートナーであるカラダに対して、初めて「よろしくね」と思えたのでした。
 
ずっと後になってから、この風呂場での出来事を思い出しているとき、「あれが、もしかしてマインドフルネスのような感覚なのかな」と気づきました。

そして、ミラノサンドを一口一口食べ味わったあの時間も、必死の思いで一歩一歩脚を動かしたあの時間も、ただそれだけに集中するというマインドフルなひとときでした。

「今、ここを生きる」という意味を、これまで全く体感できなかった私が、ようやくその感覚を掴んだように思いました。


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