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【エッセイ】遠江③─掛川城二の丸御殿─『佐竹健のYouTube奮闘記(78)』

 天守閣を巡ったあと、天守閣がある台地の麓にある二の丸御殿へと向かった。

 目の前には堀があって、二の丸とを結ぶ土橋の脇には「二の丸御殿」の幟が初夏の風にたなびいている。

 掛川城の玄関が見えてきた。玄関は広い。城の一部なので、人の出入りが多かったためであろうか。

 玄関で靴を脱いで入ると、早速畳敷きの廊下があって、敷居をまたいだ先には同じく畳敷きの部屋があった。部屋には、いろんなところの城の復元図(絵)が展示されていた。

 城の復元図(絵)の中には、ここ掛川城はもちろんのこと、前に行った駿府城、東京の江戸城や八王子城、はては安土城のものがあった。

 これらの絵図を軽く眺め、私は奥にある部屋へと続く畳敷きの回廊へと向かった。


 掛川城の二の丸御殿について語る前に、城の御殿の話をせねばなるまい。

 戦国時代以降の城には、本丸を中心に二の丸、三の丸があった。城にあるこれらの区画を曲輪という(または郭とも表記する)。形については、中心や奥にある本丸を守る形で配置されていた。

 また、大規模な城になると、二の丸や三の丸以外の曲輪があった。こうした曲輪は、方角から「西の丸」とか「北の丸」と呼ばれていた。また、大阪城の弱点を補完するために作られた真田丸のように、家臣の名字がつけられることもあった。

 二の丸とか三の丸といった曲輪に分けられている理由については、やはり「攻めにくくするため」であった。二の丸や三の丸があることで、本丸へ敵が到達する時間を遅らせることができるからである。また、本丸や二の丸、三の丸以外の曲輪については、真田丸の例にもあるように、城の弱点を補完するという意味合いもある。

 本丸や二の丸、三の丸に御殿があった。

 前回話したが、お殿様とその家族は天守閣ではなく、御殿という屋敷に住んでいた。御殿のほとんどは本丸にあることが多く、殿様とお姫様はそこで政務を執ったり、日常生活を送ったりしていた。

 どんな場所かを簡潔に説明すると、バカ殿が多くの女中や裃姿のダチョウ倶楽部などと共に、客人(ゲスト)と謁見したりなどしている場所といった方がわかりやすい。

 二の丸にも、本丸同様御殿があった。だが、二の丸の御殿は、時代や地域によって、誰が住んでいるかについて差異はあるが、お世継ぎや先代の当主が住んでいることが多かった。

 三の丸には、家臣や一門の者の屋敷が置かれることが多かった。こちらに関しては現存例がとても少ない。あっても門や堀ぐらいではなかろうか。

 天守閣に比べ、本丸や二の丸の御殿は現存しているものが少ない。現在現存している御殿は、川越城(埼玉)、二条城(京都)、高知城(高知)、そして今いる掛川城(静岡)の4つである。そのため、後の世に図面を基に復元されたものが多い。復元されたものがある城も含めると、尾州徳川家の居城名古屋城(愛知)、肥後細川家の熊本城(熊本)の二つである。


 掛川城の二の丸御殿は、日本建築特有の陰が上手く活かされた造りであった。

 畳が敷き詰められた回廊の左側にある障子戸。その障子戸越しに入ってくる昼下がりの陽の薄明かりが、少し心地いい。

 畳敷きの回廊を奥の方へと進んでいくと、開いた障子戸から天守閣が見える。高台にある天守閣は、大きな入道雲のせいか、その威容が何倍増しにもなっている。青天と天守閣も爽やかでいいが、雲を背景にしたら持ち前の重厚感をより感じられていい。

 ただ一つ文句をこぼすとすれば、前庭に植えられている樹木の向こう側に、資材置き場のような囲いがあるということだろうか。これに関しては敷地利用や発掘調査といった城を管理している部署の都合があるので、ある種仕方ないところもあるが。

 中にある部屋は、川越城の本丸御殿と同じで、戸で区切られた畳敷きの部屋があって、そこに○○の間といった感じであった。装飾は川越城の本丸御殿同様きらびやかな彫刻などはない。あったとしても、釘隠しぐらいであろうか。

 違い棚に床の間、日当たりのいい障子戸。部屋の造りは、室町期に流行った書院造のそれである。

 書院造とは、室町期に流行った建築様式である。特徴としては、採光を考慮した窓と机、床の間、そして違い棚がある実用的な造りをしていることだ。例を挙げると、足利義政の建てた銀閣寺のものが有名だ。

 ミニマムな空間と聞いて、意外と質素だったんだな、と思われるかもしれないが、掛川城の二の丸御殿には、よく見ると御殿らしい部分も数多くある。いくつもある部屋、畳敷きの回廊、壁にかけられている椿柄の黒い着物と鳥が描かれた白地の着物、そして縁側から見える天守閣。これらがお殿様とその家族の居住空間であったことを物語っている。


 奥の方では、甲冑や太田家ゆかりのものといった文化財、有志が作った参勤交代の様子をモチーフに作られた人形や掛川城の模型などといったファンアートが展示されていた。

 特に目をひいたのが、つまようじで作った掛川城二の丸御殿の模型であった。垣、屋根、はては障子や中の様子などが爪楊枝で再現されていた。柱や梁は爪楊枝にしては太かったので、おそらく割り箸を使ったかと考えられる。

(こういうの作れる人って、本当にすごいよね!)

 尊敬できる。自分は不器用な方だから、途中でやり方がわからなくなって、屋敷の骨組みができた辺りで放置するだろう。それ以前に飽き性だから、城の模型作りに賭ける情熱がそこまで持つかが怪しいが。私の場合。少なくとも骨組みができただけでも上出来としておかねばなるまい。


 掛川城の二の丸御殿を出た。

 感想としては、天守閣に登れたり、現存している二の丸御殿の中を見ることができたりで、とても有意義な時間となった。建物とかが残っていない城もいい。だが、建物のある城、それもしっかりと木造の建物が残っていたり復元されたりしている城というのは、視覚的に楽しめるからいい。

(さて、これからどうしようかな……)

 遠江の城を巡ったから、もう帰ってもいい。が、帰るにしてもまだ時間がある。せっかくだし、掛川花鳥園にでも寄って行こうかな。

 そう思って、掛川城から花鳥園までのルートを調べてみた。

 距離的には歩いていける距離であった。が、掛川花鳥園の閉館時間が16時半。このまま歩いていたら、閉館になってしまう。急がねば。

(続く)


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