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【エッセイ】遠江②─掛川城と本物の天守閣─『佐竹健のYouTube奮闘記(77)』

 掛川城の天守閣が見えてきた。川の向こう側にある高台から、天守閣が顔を覗かせている。

 橋を渡った。

 川沿いに植えられていた桜の木の枝に繁る青葉は、少し強い5月の初夏の陽気に当たり、風になびいている。

 その下には川が流れていた。これが掛川城の堀の役割を果たしているのであろうか?

 空には大きな雲が浮かんでいる。その隙間をコバルトブルーの空が夏色に彩り、天守閣の威容を引き立たせている。

 少し歩いた先に、高台へと通じている坂があった。

 坂の上には門があって、紫の幕が張られていた。紫の幕には城主であった山内家と太田家の家紋があった。

 山内家と掛川の縁は、山内一豊が豊臣秀吉から掛川の地を賜ったことにはじまる。秀吉が亡くなり、会津の上杉家に不穏な動きが見られたときは、その征伐のため家康に付き従っている。その途中の下野国小山の地で石田三成挙兵の報を聞いたときに、自身の居城掛川城を明け渡すと言った。これらの功績から、一豊は遠州のいち大名から土佐一国の主となった。下野小山の地でどのようなことが話し合われたかについては、『怒涛の関東城めぐり』「下野①─祇園城に行けなかった─(『佐竹健のYouTube奮闘記(21)』)」に書いてある。

 太田氏と掛川城の縁については、江戸時代中期の終わりごろに太田道灌の子孫である太田資俊(おおたすけとし)が入り、以来幕末まで居城としていたことだろうか。

 山内一豊が土佐から移ってから太田資俊が掛川城の城主となるまでは100年以上間が空いている。この間には、主に徳川家の一族の者や譜代大名が入っていた。

 言い忘れていたが、築城したのは今川氏の家臣であった朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)という室町時代の武将らしい。


 門をくぐった先には天守閣が見えた。

 天守閣は高台の上にある。今いる場所も高台よりも高い場所に。

 肝心な台地の上にある天守は、3階建ての白壁の天守であった。天守閣にしては標準的な大きさである。熊本城や名古屋城、大阪城のそれと比べると小さい部類に入るが。

(次こそは本物の天守閣でありますように……)

 私は心の中で祈った。

 関東城めぐりでも、天守閣のある城へ行った。だが、どれもコンクリート造りの模擬天守であったので、天守閣に登ったという感じはしなかった。それでも、中にあった博物館の展示がとても充実していて面白かったから、ある程度満足しているけど。


 天守閣の中へと入った。

 天守閣の中は、過度な装飾は無く、組まれただけの木々と釘隠し、壁に塗られた漆喰だけのものとなっていた。再建されたものであるとはいえ、ここまで史実に忠実であるのは、いいことである。

 城=天守閣と思っている人が多いので言っておく。天守閣はお殿様が生活していた場所ではない。

 では、平時のお殿様はどこで過ごしていたのかというと、御殿と呼ばれる場所である。

 御殿は本丸や二の丸などにある平屋の屋敷で、そこでお殿様は日常生活や政治を行っていた。御殿については後ほど話すので、詳しいことは話さないでおく。

 天守閣は有事のときに敵の様子を偵察する場所として使われていた。平時は櫓の中にあるスペースを利用して、武器庫として利用されることもあった。そのため、外が豪華でも中は案外質素な造りとなっている。同時に堂々たる威容から、藩の格を示すものでもあった。こうした背景から、天守閣のある城に住んでいた大名は、肥後細川家などの大大名、譜代大名や親藩といった具合だった。かなりの石高を有している外様大名、徳川一族やその累代の家臣だったのだ。

 大名なら誰しも天守閣付きの城に住めるわけではなかったので、当然天守閣の無い城に住んでいる殿様もいた。また、当初は天守閣があったが、城下町が災害で甚大な被害を被ってしまい、天守閣が全焼もしくは倒壊してしまうこともあった。天守閣が無くなった場合、再建の議論も起きたが、財政の都合でできなかったり、城下町の復興に予算をかけるため意図的に建て直さなかったりというケースもあった。

 そうした天守閣の無い城に住む殿様たちは、城にある櫓をその代わりとすることがあった。

 例を挙げると、江戸城の富士見櫓が有名だ。詳しい話は『佐竹健のYoutube奮闘記2』「武蔵(東京)⑥─江戸城本丸跡地の名所─」で語っている。江戸城以外にも、川越城に同名の櫓跡があるのだが、そこが天守閣の代わりを果たしていたとされている。

 天守閣やその代わりとしている櫓の無い藩もあった。そうしたところは、仙台藩の青葉城や薩摩藩の鹿児島城のように、藩祖や藩主の意向であえて作らないとか、そもそも石高がギリギリ大名としての体裁を保てるぐらいしか無くて、城に住めないということさえあった。

 藩の石高や大名家の格、お殿様の都合によって、城に天守閣があるかないかは決まっていたのである。


 階段は昔の日本建築らしく、急であった。階段というより、ほぼ梯子に近い。いや、梯子というには登る部分の足場の面積が広いので、どちらかといえば階段に近い感じか。加えて薄暗いので、足元に気を付けてのぼらなければいけない。そうでもしないと落ちてしまいそうだから。

 後で調べてわかったのだが、天守閣の階段が急な理由は、敵が攻めにくいようにするためらしい。

 上の階にも下と同じように木が組まれた板張りの床空間が広がっていた。またかけた梯子のように傾斜が急な階段を登り、天守閣の最上階へと向かった。

 天守閣の最上階からは、掛川の街が見えた。

 掛川市の街は山に囲まれていて、その真ん中に建物が建ち並んでいる。栄えているかそうでないかを問われたら、まあ栄えているといった感じだ。

 二の丸御殿がある方角からは、現代的な建物に混じって瓦屋根の大きな和風建築の建物が見えた。この建物が何なのか、少し気になる。

(それにしても、極端に高い建物無いな)

 掛川一帯を見渡して、ふと私はそんなことを思った。あったとしても電波塔か団地ぐらいで、それ以外は平屋か普通の二階建ての建物が多かった。

 まだ静岡県しか巡っていないが、東海地方には高い建物が少ないと感じる。

 三大都市圏の一つである名古屋へ行けばどうなのかわからない。だが、どこへ行っても高い建物はあまり見ない。静岡県の県庁所在地でかつ政令指定都市でもある静岡市にはところどころで見かけたが。

 掛川においては、この掛川城天守閣が一番高い。小高い山の上にあるから、なおさら高く感じる。

(それにしても、きれいだねぇ)

 東京の駅ビルの高層階のように雑然とビルが並んでいたり、仰々しい看板が所狭しと敷き詰められたりしていないので、眺めがいい。初夏らしい白い雲とコバルトブルーの空、そしてその下にある街がよく見える。

(続く)


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