神戸の鷹取〜新長田周辺から学ぶ"まちづくり"
今日は、阪神淡路大震災から28年。
3年前、神戸をわすれない・せたがやという団体主催のイベントレポートを、ねつせた!で投稿しました。
何と先日、現地の案内をしていただくイベントに参加させていただくことができました!
当日は多くの方々が集まっていて、震災への関心の高い人の多さを感じました。
鷹取〜新長田駅
まず初めに、公園にて集合し、担当者の方々のお話を伺いました。
当時は火事が燃え広がる中、この公園で火が止まったとのこと。1,600平方メートルと広いからだそうです。
防災面でも街の中に公園は必要で、国土交通省でも防災公園の整備について定められています。
公園から延びる道は、かつては商店街だったりしました。
震災モニュメントも多く作られました。
こちらは、公園内にある、震災当時の写真が入ったモニュメント。
記憶を残そうとしていて、「年に1回くらい、子どもたちが見てくれたら良いなぁ」と仰っていました。
横の街灯が錆びているのは、当時の火事で燃えた跡。火の手が近づいてきたら輻射熱もあり熱くなるそうです。
「班田収授の法」を歴史の授業で聞いたことのある方も多いと思いますが、その一環で「条里制」が施行され、耕地整理をしました。その時の道がまだ残っていて、それを元に火事になった街を区画整理していったそうです。
次に、「カトリックたかとり協会」を案内していただきました。何と、世田谷区在住の坂 茂さんによる建築です。
ちなみに坂さんも、2017年1月に開催された「第30回 神戸をわすれない」にて講演され、その模様が世田谷ボランティアセンターが発行する「セボネ」の3月号特集にて紹介されています。
当時の写真が展示されていました。焼夷弾で街を燃やす爆撃に近い光景が広がったそうです。
カトリックたかとり教会は地域の救援基地になっていて、災害FM放送を始めた場所。
普段からのお付き合いが緊急時に発揮できることの大切さを感じたと言います。
その後、海運双子池公園に行きました。
通常公園というのは、国土交通省の基準では2500㎡を基準にしているそうです。
しかし、ここの敷地は400㎡。
大きな公園を作るのには難しい場所だったので、「どんな公園にしようか」というのを地域住民とワークショップをやった結果、
広場、砂場、ブランコ…みたいな"児童公園"ではなく、"街のお庭"みたいな公園にしようという話になりました。こういった過程で、住民の意見を聞きながら実現するまちづくりのスタイルが確立されていき、一番最初にやったのがこの公園だったそうです。
まちづくり協議会とは、昭和40年代から始まった、地域のことをどうするかをみんなで考える会であり、震災の時もそれを活かしたそうです。
行政は地域の全ての住民の意見を取り入れていると収拾がつかないため、それを解決する手段となっています。
途中、「野田北ふれあいセンター」を通りました。
「神戸をわすれない・せたがや」でもよく上映されている青池監督の映画も、ここが舞台となっているので、地域のつながりにしみじみ🥺
その後、若松鷹取公園に行きました。道路を挟んで公園が2つあるのが特徴です。
1件の火災から約970件まで燃え広がったため、水もすぐに無くなっていき、近隣の自治体からも支援があって正午にやっと鎮火したというお話を伺いました。
火は地域の住民が消す、ということを学んだことから、月1で消防訓練をしていて、ここまで防災訓練をよくやっている公園は珍しいとのこと。
また、車止めが取れるようになっている、などの工夫もあるそうです。
古市 忠夫さん。何と、今はプロゴルファーとして活躍されています。「ありがとう」という映画は、この方の半生が題材になっています。
感謝力が奇跡を起こす原動力となっていて、これからも前進したいと語られています。
当時の写真をお見せして下さいました。
その後、公園を後にし、拡幅された道路を見に行きました。
街灯がありますが、無電柱化されています。各家庭に引かれていたり、地中化されていたりするのを「ソフト地中化」といい、街並みがスッキリして見えます。
新長田駅〜ふたば学舎
新長田駅前にある、若松公園に到着。
都市公園は、種類別に分けられることを知りました。
新長田駅前には、鉄人28号の像もあります。その下で、地域の実情となるお話を聴かせていただきました。
現在、神戸市長田区では産業振興が課題となっています。最近では近隣国がその役割を担っているためです。震災から時間が建って、ある程度ハード整備はできるが、お店が歯抜けになってしまっているとのこと。なので、今後の計画では、まずは住宅地を作って、そこに商業を作ろうという考えがあるそうです。
新しいプロジェクトがほしいと考えていたところ、「鉄人28号が誕生して50年」という記事を見つけたことが、ここに鉄人28号像を立ち上げるきっかけとなり、実行委員会、NPO法人を作られました。現在は、地域の基盤になる形を作っていくのが目標とのこと。
立てた計画は行政にお願いして、中心市街地の活性化をしたいと思っていたものの、国としては、基本計画には出すもののモニュメントには補助金を出さないと言われました。
震災後10年経った段階で「いつまで震災のことを言っているのか」と言われたこともあったそうです。復旧まではハード整備ができるが、その後のソフト整備にはお金が回ってこないため、自分での決断になりました。
やめようかという話もあったが、何とかやりきろうという決断をされたのは地元の商店主でした。いろんな知恵を出し合いながらお金を集めていきました。行政(神戸市)職員がいなかったらできなかったのも事実で、国からの補助金は出なかったものの、結果的には地域のみんなで作ったので愛着も持つようになったとのこと。現在、人が集まる広場という意味でも愛される場所となっています。
商業集積は2割を切ると危険と言われている中、3割を切っていたが、「復興基金」という制度をうまく使って、95%まで上がった。でも続けることが大切なので、その繰り返し。表には出ないが鉄人28号モニュメントのお陰で経済効果が出た部分もありました。
コロナ禍でイベントができなかったうえ、もうすぐ近隣に病院もできるため、イベントのやり方も変えざるを得ないとも感じているとのこと。音楽コンサートなどをやっていたが、今後は上の写真にあるマス内に人が入るくらいの距離感を持ってイベントをすることや、NPO法人としての動き方も変えていくことを考えているそうです。
また、鉄人も10年に1回は塗り替えをしなければならず、メンテナンスのための資金は定期的に必要とのこと。
ハード整備も大切だが、次の世代に引き継いでいかなければならないと感じていらっしゃいます。
長田区にはかつて、ケミカルシューズ🔗の工場があり、「靴の街」とも言われています。
その後、水笠通公園に行きました。
ここでも、地域の人たちとワークショップして、どうすれば地域の人のためになるかを考えました。
どう使うか、防災にはどう役立てるかなど、公園には基本的なスペックが必要なのです。
火事が起こった時の初期消火のために、防火水槽に溜められた100トンの水を使います。震災の教訓から、神戸市内の公園には必ずといっていいほどあるそうです。
まちづくりは建築基準法、都市計画法など法律で決まっているケースが多いですが、
神戸市には"まちづくり協定🔗"というものがあり、地域の人々で結成した「まちづくり協議会」を市長に認定してもらうことで、地域の人々で決められるようになるそうです。
例えば、建物を建てるときには建築基準申請というものがありますが、まちづくり協定があると「色を何とかしてくれ」「木を植えてくれ」など事前に地元の住民がチェックして要望できるようになっています。
ここでは、10年以上、県と交渉を重ねるなど努力の結果、公園の横に交番ができました。
ちなみに、世田谷区では、昭和57年にまちづくり条例が制定されたのですが、神戸市で検討されていたのも同じ時期で「西の神戸、東の世田谷」とも呼ばれていたんだとか。
その後、いくつかの市場や商店街に足を運びました。ここからは商業についてのお話です。
この辺り一帯は、西の副都心として再開発計画がありますが、震災でとても被害が大きかった場所の一つでもあります。
新長田1番街商店街に到着。ここでは、お店を営んでいる方からお話を伺いました。
都市を計画する側は100年単位で考えることがあっても、1人の人生の1年の重みも考えてほしいとのこと。そのお店は火事になって倒壊して、借金ばかりが残ってしまったそうです。
再開発して、一見「きれいになった」とは言われるが、将来の世相を予測できなかったうえ、半径1kmの中にスーパーができてしまったから、売上に対する負担が大き過ぎたと仰っていました。
今後、日本は少子高齢化も進む中、本当にきれいな建物にすることは必要だったのか?と、疑問に思うこともあるそうです。なぜなら、維持するにはランニングコストといった経費がかかるから。
まずは自分の身を守ること。人を助けることは、それがあるからこそできる。人は1人では生きていけない。
"商業地ではお金を使おう"という気持ちが、どこの地域であっても助けになると仰ってました。
その後、ついにゴール地点のふたば学舎へ!
中では、様々な取り組みが行われていました✨
楽器の練習をしている音色が聞こえてきたり、資源回収のスポットも…。
ふたば学舎では、おぜんざいを振る舞っていただきました。
参加した感想
今回紹介した地域は、「神戸をわすれない・せたがや」とも関わりがあります。今年10月には、イベントにも参加されたそうです。今後の活動にぜひご注目下さい✨
改めて、震災当時のことを説明して下さるガイド付きで地域の取り組みを知ることができ、学びになりました。ここでの取り組みが契機となり、住民主体のまちづくりが世田谷区や全国に広がることもあるかもしれません。震災はつらい記憶でもあるからこそ、教訓をみんなでシェアし、今後に活かしていく、それが大切だと感じました。
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