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夜中の
2023年3月7日 02:55
薔薇を飼い始めたのは去年の7月からだった。去年の手帳の7月のページにあの仄暗い喫茶店の名前が記してあるから確かに7月だった。「薔薇」というのはその美貌に対する安直な名付けだったが、もう薔薇は薔薇としか思えない。喫茶店で何を頼んだのか、どういう経緯で薔薇と会話を交わしたのか、今となってはすべてが曖昧だ。……いや、Kがいたな。Kが薔薇を呼んだんだ確か。お前に会わせたい子がいると言うから、またいかがわ
2022年11月13日 23:55
長い下り坂をFと歩いた。Fは学生時代からの友人で、何度か寝たこともある。最近は寝ない。私には恋人がいる。Fには寝るだけの友人がいる。また寝ることもあるかもしれないが、わからない。寝るか寝ないかはあまり重要ではない。かと言って他に重要なこともない。坂の途中の自販機で、Fはいちばん甘そうなジュースを買った。果汁は入っていない。ふた口ほど飲んで「あげる」と缶を差し出される。「嫌だよ」と言う。Fはしぶし
2022年9月11日 05:04
◆BABY, THE STARS SHINE BRIGHTと呟きピンクの煙になるの『それいぬ』はお守りだから持っていく黄泉比良坂歩きにくいなもし来世何になれるか選べたらエミキュのOPの柄になりたい幽霊になった貴方は淡色で前よりずっとモワティエ似合う藍白のトーションレースに絡まって呼吸は止まる願いが叶う仄暗いメゾンに佇むあのひとを押し花にした栞をはさむ今生は花になるための
2022年8月21日 16:38
兄が生贄に選ばれたので、爪を磨くのを手伝っている。兄は村で一番美しい男だったから、生贄に選ばれたと聞いても誰も驚かなかった。幼いころからはっと息を飲む美しさがあったが、最近は美貌に年頃の若者のもつ鋭利な危うさと妖艶さも混ざり、寄れば熟れきらない南国の果実の香りさえした。美しい足を膝に乗せ、一本一本爪を磨く。兄はそれを静かに見ている。◆数年前、一時帰国した叔父がパパイヤを切り分けながら「日本
2022年8月19日 12:57
Sが鏡に映らないのに気がついたのは、夏休み前、研究棟旧館のひとけのない階段の踊り場の大きな鏡の前だった。思わず「あ」と口に出し、鏡とSを何度も見る私に、Sは「体質なんだよね」と恥ずかしそうに笑って見せた。「気がつく人はたまにしかいない。というか、ほぼいない。中学の時に近所に住んでた兄ちゃんと、高校の時の教育実習の先生くらいかな」「家族は」「気づいてないよ」「大学にもいないの?」「貴方が初
2022年7月3日 01:36
月を齧って欠けた歯を埋めた植木鉢から、にょきりと緑青色の植物が生える。薔薇に似た鉱物のような白い花が咲き、夏のはじまりに朽ちる。やがて重たげな実が付き、はち切れそうに艶やかに実っていった。相変わらず宿無しのYがスーパーの半額の寿司と安酒とアイスキャンディーを持ってやって来たのは、風のない暑い夜だった。Yは以前よりも痩せ顔色も悪かったが、瞳には昔と変わらない、金星でも嵌め込んだかのような光があ
2022年4月26日 19:54
共有空間から逃げるようにとびだす。広すぎる廊下。天井から冷や冷やとした空気が流れてくる。一緒にいた人間たちの顔はほとんど忘れてしまったけれど、朝食として出された水分の殆どない穀物と味のないスープ、緑色の飲み物の不快な味や食感はまだ残っている気がした。胃酸と共に吐き出されようとしているのかもしれない。医務室の前を横切る。白衣とマスクの幾人か。銀のワゴンに乗った金属製のなにかをカチャカチャと動
2022年2月20日 07:11
「幽霊が出る」「え」「この部屋、幽霊が出る」「幽霊って、どんな」「Fによく似てるけど頭がない」「頭がないのにFだってわかるのか」「なんとなく」「F、この部屋によく来てたもんな」「一緒に鍋したよね」「したね。あれいつ?」「5年前かな」「そんなになるかー」「なんで俺の部屋にくるんだろ」「そりゃ、お前のこと……」「わっ」「何? 今の」「台所の洗剤が落ちたみたい」「びび
2022年2月6日 05:25
夕暮れにチャイムが鳴って、Aかと思ったらAによく似た鬼が立っていた。「Aかと思った」「よく言われます」「代わりに来たの?」「まあ、そうですね、あなたがカレーを用意してると言うので」「そっか」鬼を部屋にあげる。気がつかなかったが、Aよりもきちんとした良い服を着ている。なんだかそれがおかしかった。デパートのインドフェアで買った平たい銀色の皿にカレーを盛る。今日は本で読んだインド風の玉ねぎ
2021年12月17日 08:01
はじめに。ちいさい海があって、パラソルがあって、きみがいて、ソーダ水があった。もう冬なのできみはマフラーに埋もれるように巻かれていて。小屋で火を焚こうと提案すると、はじめての名案だというように目を輝かせるきみ。サイコロ状にカットした野菜がごろごろと入ったスープをよそう。パンをちぎってひたして食べる。置きっぱなしのパラソルに冷たい雨があたるおと。思えば今年も夏は短かったし、冬は永遠のように
2021年12月10日 07:39
その塔は引越し先のアパートから15分ほど歩いたところにあった。何のための塔なのか、検索してみても詳細は掴めず。周りをぐるぐる歩いてみる。窓のようなものがある。入口のようなものがある。壁面は少し苔むしてヒビが入っている。のぼりますか。後ろで声がする。大人なのか子どもなのか、男なのか女なのかわからない人物が、にこにことこちらを見ている。のぼってもいいんですか。かまいませんよ。ここの主はとう
2021年12月9日 08:12
木曜日の深夜のことです。頭の中でこぽこぽと音がして、覗いて見たら銀朱の魚が泳いでいました。魚は昔の恋人に少し似ていて、私の腕にじゃれついてきたかと思えば、すい、と彼岸に行ってしまったり。考えるべきことがいくつかあったような気がしましたが、それも魚のつくる水流に飲まれて有耶無耶になってしまいました。私の頭の中より、大きく清潔な水槽が必要だろうと、裏路地の地下にある暗い水族館に行きました。水