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◆小説◆鬼が来る

夕暮れにチャイムが鳴って、Aかと思ったらAによく似た鬼が立っていた。
「Aかと思った」
「よく言われます」
「代わりに来たの?」
「まあ、そうですね、あなたがカレーを用意してると言うので」
「そっか」
鬼を部屋にあげる。気がつかなかったが、Aよりもきちんとした良い服を着ている。なんだかそれがおかしかった。
デパートのインドフェアで買った平たい銀色の皿にカレーを盛る。今日は本で読んだインド風の玉ねぎの漬物もある。それなりにがんばって作ったから、Aに食べて貰えなくなったのに少しがっかり、いや、大変がっかりした。
鬼は手洗いをしっかり済ませた。鬼にも感染症対策というものがあるのか、それとも人間により溶け込むためにやっているのか謎だが、私やAよりも丁寧に洗っているので素直に感心してしまう。
「これはアチャールというやつですね」
「よく知ってるね」
「テレビで観ました。これは混ぜて食べた方が良いですか」
「好きにしたらいいよ」
テーブルの上、私と鬼との間には水耕栽培のヒヤシンスがある。Aはうちに来る度に「成長したなぁ」と声をかけていた。鬼はヒヤシンスに対してなんのコメントもしない。なんだか物足りない夕餉だった。カレーは良く煮込まれていて美味しかった。
鬼は綺麗に食べ終わり、食器を下げる。
「あ、忘れていました。これお土産です」
と、持ってきた黒いリュックサックから紙袋を出す。何かと思ったらクッキー缶だった。
「これはテレビで紹介されていたので美味しいはずです」
「きみの情報源はテレビが中心なのか」
「うーん、Aさんから聞くこともありますが、テレビが好きなので」
可愛らしい猫が描かれたクッキー缶。中には大中小、様々な焼き菓子が入っている。
「紅茶をいれようか」
「ありがとうございます。なんか申し訳ないです。こんなにご馳走になって……」
鬼らしからぬ謙虚さに少し笑いそうになる。そしてAはずっと横暴だったな、と、ぼんやり考えながら茶葉を蒸らした。
せっかくだから、うちにある中でいちばん可愛い豆皿に焼き菓子を並べる。野の花が立体的に装飾された薄緑の皿だ。Aはこれを出す度に「可愛い! こんな可愛い皿はないぞ!」と褒めたたえていた。水羊羹を乗せたことも、シュトレンを乗せたこともあった。鬼は「可愛いお皿ですね」と静かに笑って、ココア味のクッキーを齧った。尖った歯がのぞく。
「ああ、もうこんな時間。長居してしまいました」
「いやいや気にしないで。一人で食べるよりずっと楽しかったから」
「楽しかった」ーーそれは正しくない気がする。楽しいじゃなくて、もっと、こう……。
「これまで寂しかったでしょう」
そうそう、これは「寂しい」だ。寂しい、寂しい、寂しい。カレーを煮ている時も、ヒヤシンスの水を替えている時も、ずっと寂しかった。
「今日はAさんの代わりに来ましたが、次回は私は私として来ます」
「そうだね、それがずっといい」
だって、Aはもういない。連絡が途切れてからそんな予感はしていた。LINEに「今日はかれー」って送ったのに既読がつかなかった。既読がつかなくなってどれくらい経つだろう。もうだいぶ前に気がついていたのに、気がつかないふりをしていた。私の食卓にはずっとAの場所が用意されていて、Aの笑いや言葉があってはじめて完成する食事があった。
「そろそろ泣いてもいいと思います。存分に落ち込まないと立ち上がることもできませんから」
「そうだね」
声が震える。胸の辺りから波が押し寄せてくる。わっと大きな波に体を包み込まれる。
「大丈夫です、あなたは大丈夫」
鬼が大きな水の渦から手をのばす。私は鬼の手を掴む。大きな水の塊がぶつかってくる。体がバラバラになりそうなのを、こらえる。やがて波は去る。静けさと破壊された部屋が残る。
「あー、またいちから建て直さなきゃな」
「手伝いますよ」
優しい鬼も、私も、びしょ濡れのまま立ち尽くす。空には満月。しんしんとした夜。
「そういえば来る時に梅が咲いてたんですよ」
「そっか。あっという間に桜の季節になるんだろうな」
「桜咲いたらお花見でも行きましょうよ。今度は僕も料理を作ってきますから」
鬼とLINE交換して、熱い風呂に入って、少しだけ早めに眠った。Aからもらったふにゃふにゃのウサギのぬいぐるみを抱いて。
大丈夫。私は大丈夫。

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