見出し画像

◆小説◆生贄の羊

兄が生贄に選ばれたので、爪を磨くのを手伝っている。兄は村で一番美しい男だったから、生贄に選ばれたと聞いても誰も驚かなかった。幼いころからはっと息を飲む美しさがあったが、最近は美貌に年頃の若者のもつ鋭利な危うさと妖艶さも混ざり、寄れば熟れきらない南国の果実の香りさえした。美しい足を膝に乗せ、一本一本爪を磨く。兄はそれを静かに見ている。



数年前、一時帰国した叔父がパパイヤを切り分けながら「日本では乳瓜と呼ぶんだよ」と教えてくれた。パパイヤにナイフを入れると甘いような青臭いような香りがして、中から姿を表わす密集した種は気味が悪く、結局兄と叔父くらいしか手を付けなかった。二人は手を濡らしながら果実を齧り、皮を舐めた。
叔父も生贄に選ばれるかもしれない人間だったと、彼がまた遠い国へ行って音信不通になった時に祖母が呟いた。
「まあ、選ばれるのは宿世からの決まり事だからね。逃げても逃げきれませんよ」
まったく、と大きなため息をつく。
「叔父さんが不在の年は贄はどうしたの?」
「まあ、大変でしたよ。Yさんのとこの娘さんいるでしょ。担えそうな男を呼んできて金を積んで婿にしてさ。逃げ出さないように村のみんなでもてなして、あれはまるで村全員の学芸会だったね」
「それで、贄として認められたの?」
「うーん、やっぱり外部の人間は認めらないみたいで。式が終わって、さあ片付けようって行ったら、形の変わったその男がいてねぇ」
「ふーん」
だから、叔父の背後には背の曲がった黒い角のある何かが見えるのか。
「とにかく、今年はあの子がちゃんと請け負ってくれるみたいで、ばあちゃんは安心しとんのよ」
祖母は満面の笑みを浮かべた。



部屋で夏休みの課題をしていると、階下から「風呂」と兄の声がする。
準備期間は邪が慿きやすく、下手したら攫われたり喰われたりするから、と、何かにつけては「お世話係」をさせられた。
いつの間にか兄の体を洗ってやるのも私の役割になり、白磁と言えば良いのか象牙と言えばいいのか、日に日に人ならざる者になっていく兄の白い皮膚の上に泡を置いて滑らせる。
「昨日は夢を見たか」
兄は決まって私が見た夢の話を聞きたがった。
「森というかアマゾンみたいな、見たこともないような植物が生い茂ったジメジメとした場所。裸足だから行きたくないなって思うんだけど翼がたくさんある大きな鳥が「早く行きなさい」って言うから、仕方なく進んでった。途中頭がふたつある白い蛇が横切ったり、5mくらいあるんじゃないかっていう大きな女がバナナの木の後ろからじっとこちらを見ていたりしてて気味が悪くて。早く終わらせて帰ってパピコ食べよ〜って思って少し急いだら全然違うとこに出てきて、薔薇を敷き詰めた風呂?みたいなとこなんだけど入ってる人たちは苦しそうなんだよね。薔薇の香りがむわっとこっちに来て、足を滑らせて落ちたら死ぬなって思ったから近寄らないように柱を掴んで歩いて、そうしたら玉座なのかな、美男美女を侍らせた偉いんだろうな〜って人がいるんだけど、どう見ても若い少年で、しかも村の祭事の時みたいな白装束を着てる。少年は気がついて「探してるの?」って言うから「うん」って言ったら、「ではもうおしまいだ」と手を鳴らすの。その途端、虹色の光がわっと広がって、目をつぶったら叔父さんが見せてくれた写真の中の遠い国の青い教会の冷たい床で、横たわってると隣に山羊のような生き物がいて、顔を見るとさっきの少年なんだよね。「君は絶対に失うことはできないよ」と言って、黒い重たい石を渡してくるんだよ。ああこれを村まで持って帰るなんてしんどいなって思うけど、やらなきゃなって心に決めて、重い石を掴んだら石がぐにゃりと溶けて大きな蛸になって、その蛸の足が体中に纏わりつく途中で目が覚めた」
兄は聞いているのかいないのか、目をつぶり洗われるがままでいる。胸、腹、腕、背中、太もも、脛、足の指先、臀部、性器。秘匿するべき部位までもが美しく完成されている。異形にも近い美は暴力で、暴力はさらに暴力を誘発させる。自分の中でふつりふつりと揺れる火種が存在を誇示してくる。
兄は「火照ったのか、」と、細い指で私を撫でる。小鳥を慈しむかのように。優しく柔らかな動きは、兄の意地悪さからくるものだった。優しくするようで、いつも本当に欲しいものは与えてくれない。本当に欲しいのは……。
「もう出よう。髪の手入れも頼む」
私は熱を残したまま、湯で体を流し、兄の命令を聞く。



兄のために用意された月桃の葉を浸した水を、縁側の藤椅子に持っていく。兄は夜風と月の光を浴びながら目をつぶっている。
「君はたくさん夢をみるからいいね」
「そうかな? 疲れるだけだけど」
「夢を夢だとわかっているし、生活に支障もなく学校に行ったり父さんや母さんの手伝いだってできる。弓道だって続けているんだろ」
「兄さんは、夢が夢だとわからないの」
「だいぶ混ざってきた。ほら、あそこ」
細く白い指が、庭の水盤を指す。
「あそこにさっきからニンフたちが代わる代わる身を沈めて行っている。歌を歌い、乳白色の輝く衣を翻しながら」
黒い陶器の水盤は静かに夜を映している。傍らの枝垂柳の枝がゆるやかになびき、暗い庭には静謐が満ちている。
「あれは、夢だろう」
「そうだと思う」
「贄に選ばれてからずっとこの調子だよ。昼も、夜も。君に艶やかな桃色の角が生えてるときもある」
そう言って兄は私の、額から頬をゆっくりと撫でた。
「私は少しずつ持っていかれているんだろう」
兄は手を下ろし、目をつぶった。まつ毛の先が僅かに銀色に光る。
「ねぇ、贄になる前に願いを叶えてって言ったら」
体の深部の炎が揺らめく。
「……できない。私の肉体も精神も、魂も、すべて███様のものだから」
今ここで、兄の腕を掴み組み敷いたら、浴衣を解いたら、口を押さえ、裸になった肉体を―――。
兄は、今にも暴走しそうな私の熱をなだめるように小さく指先を握る。
「ごめんね、決められたことだから。来世、溶け合えたら嬉しいね」
兄は私の実像をみているのか、それとも夢を見ているのか、焦点の定まらない瞳はゆらゆらと満月に近い月を映して揺らめいていた。



儀式は上手く行ったらしい。
らしいというのは、山に贄を供えるのは成人した男衆の役割で、贄の衣装や化粧の世話をするのは任命された若い女たち、音楽と祝詞を捧げるのは長老たちだからだ。
あんなに付きっきりで世話をしたのに、玄関先で迎えに来た男衆に挨拶して兄を送り出しておしまいだ。
山裾の広場では、観光客も来る和やかな祭りがあって、遠く太鼓の音が聞こえるが、見に行く気にもなれない。兄のために毎日用意した、月桃の香りのついた水を飲む。ふわりと甘ったるい香りがまとわりつく。その香りはやがて薄紅の煙になって、兄の形に像を結ぶ。
「兄さん」
と、思わず口に出して幻の兄を抱きしめる。兄はにこりと微笑み、くちづけする。舌を絡める。兄が自らこんな行為をするとは思っていなくて、頭の奥が甘く痺れる。兄は私の体のいたる所に指と舌を這わせる。兄のように美しくはない自分を恥、涙が溢れる。私が美しかったら、兄が贄になることもなかったのに。溢れる涙を兄の唇が受け止める。私の熱を兄は優しく包み込む。体液が混ざり合う。甘い熟しきった果実の、腐臭にも似た香りに目眩がする。兄が言った「来世溶け合えたら嬉しいね」という言葉が蘇る。泣きながら笑ってる私を兄は不思議そうに見つめる。
「嬉しい?」
「嬉しい」
いつの間にか辺りは薔薇の花に包まれ、濃厚な香りに息が止まりそうになる。少年帝ではなく、白銀の鹿のような動物が見下ろしている。兄の肉体は薄紅や深紅の花弁の中に消えていく。最後、美しい指先が私の指を握った。それは来世への約束だった。



「まあ、この季節は変な病気にかかる子どももいるからねぇ。お医者様は二三日で治るだろうって」
やっと目を覚ました私の額に氷嚢を乗せながら祖母は言う。長い長い夢を見ていたようだが、何も思い出せない。
「あんたはお父さんお母さんの大事な一人っ子なんだからねぇ、気をつけるんだよ」
額の上の氷は冷たく、思考は鈍麻する。
その晩私は久しぶりに夢を見ずに眠った。
ただ、起きる直前まで、誰かが指先を握っていたような気がした。

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,974件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?