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大川慎太郎 『証言 羽生世代』 : なぜ、これほど惹かれるのか?

書評:大川慎太郎『証言 羽生世代』(講談社現代新書)

私は将棋ファンではないし、遊びで将棋を指すことすらない人間である。けれども、ある時期から、羽生善治を中心した「棋士たちの生き方」に惹かれるようになった。
一一なぜなんだろう。

私はもともとせっかちな性格なので、時間のかかるゲームというのは、おおむね好きではない。やりたいことの色々ある趣味人なので、一つのことに時間を取られるのが、とにかく嫌なのだ。
しかしまた、私は好きなことに関してはかなり徹底的にのめり込む人間でもあるので、結局は、そうした将棋などのゲーム類が「趣味ではなかった」ということだけだったのかも知れない。

私の趣味とは、いずれも「形の残るもの」だったように思う。子供の頃から数えると、絵を描く、プラモを作る、読書する、文章を書く、コレクションをする、といった具合に、形になって残るものや、自身の成果として蓄積されるものが好きだったようなのだ。
もちろん、将棋やその他のゲームだって、初めからプロになるくらいの力があれば「戦績」は残るだろう。だが、仮にそうした才能があったとしても、好きじゃなければ最初のうちに止めてしまうだろう。私も小学生の頃に、教室で級友と何度か将棋を指したことはあるけれど、展開がのろく感じられて、すぐに飽きてしまった。

将棋に惹かれる人のすべてが、最初から強かったというわけではないのだから、彼らが強くなるまで飽きることなく将棋を続けられたのは、やはり「趣味に合っていた」のだとしか思えない。
そして、そのようにして将棋にのめり込んでいった多くの人たちの中の「ごく一部」が、プロになった。

前述のとおり私は、若い頃、絵を描いたり、プラモを作ったりするのにのめり込んだので、一時は本気で「アニメーターかマンガ家になりたい」と思ったことがある。しかしながら、少なくとも昔から「眼高手低」ではあった私は、自分にはそうした「才能」のないことに早々に気付いて、自らその夢に見切りをつけ、そしてついにたどり着いたのが「アマチュアとしてでいいから、本を読み、世界のことを知り、これに対する考えを文章にする」という趣味だった。

したがって、「夢を断念した人」たちのこともわかるし、その一方、才能があって、夢を追い続ける人たちの苦闘の人生にも共感できる。
ただ、もとから「文化系」だったせいか、スポーツマン、アスリート、といった肉体競技者の人生には、さほど興味がなかった。
徴兵忌避でチャンピオンの座を失いながら、歳をとってからチャンピオンに返り咲いたモハメッド・アリ、チャンピオンの座を失っても現役であることにこだわり、その上、網膜剥離になってもまだ現役にこだわった辰吉丈一郎、といった「特別な人」たちの、非凡にストイックな人生には強く惹かれたけれど、それは「個人」に惹かれたのであって、「格闘家の人生」として惹かれたというわけではなかったようだ。

その点、羽生善治は、明らかにそうした人たちとも違っていた。
彼は最初から「完璧」であり続けた。棋士としても人間としても、およそ文句のつけられないような王道を歩んできた人であった。しかしまた、そうした「完璧さ」にありがちな、嫌味なところすら全くなかった。あまりにも完璧すぎて、面白みに欠ける、ということすらなかった。
これは、とてつもなくすごいことで、だからこそ彼は、私の興味の対象であり続けた。言うなれば彼は、私にとっての「真っ白な輝ける闇」だったのである。そして、今もなお、そうである。

しかし、興味があるのは、彼だけではない。「棋士」という人生を歩んでいる人には、総じて惹かれてきた。なぜなのだろう。
これまでに、団鬼六の『真剣師 小池重明』、保坂和志『羽生 21世紀の将棋』、大崎善生『聖の青春』『将棋の子』といった作品を読んできた。また、もともとミステリが好きなので、竹本健治『将棋殺人事件』、奥泉光『死神の棋譜』といった作品も読んでいるが、その一方、斎藤栄の江戸川乱歩賞受賞作『殺人の棋譜』は読んでいない。要は「将棋」を扱った作品だから読んだのではなく、ミステリの場合は、あくまでも作家で選んで読んだだけなのである。
また、なぜか私は、棋士自身の書いた本は、1冊も読んでいないのだ。

したがって、やはり私は、将棋そのものや、棋士の自意識そのものには興味がなく、あくまでも将棋に魅入られた人の、生き方や人生の方に興味があるのだろう。
そして、そんな人たちのどこに惹かれるのかといえば、やはりその「ストイックさ」なのではないかと思う。

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人間として、「お金」や「地位」や「名声」や「幸福」が欲しいと少しでも思うのであれば、誰も「棋士という人生」を歩もうとは思わないだろう。
そもそも、プロになったところで、世間の注目されるのはごく一部の「天才」であるし、非凡な才能があったとしても第一線のプロであり続けるためには、大変な努力が強いられる。しかしまた、努力したからといって、それが必ず報われるということでもない。なにしろ勝負の世界なのだから、誰かが勝てば、誰かが負けるのである。そして、往往にして、その世界から脱落すれば、潰しが利かない。
さらに、本書でも描かれるとおり、どんな天才であっても、いつかは衰えが来て、かつてのような活躍ができないようになるのである。
一一それでもなお、彼らが「将棋」という「単なるゲーム」に惹かれるのは、なぜなのだろうか。

しかし、そこには多分、理由なんてものはないのだろう。
「好きだから好き」「好きだから極めたい」。ただこれだけなのではないだろうか。
それは言うなれば、「最初から理由など必要ない(見返りなど求めない、狂気にも似た)情熱」なのではないだろうか。
そしてそれを言い換えるなら「純粋な生の情熱」とでも言えるのではないか。

「理由はいらない」し「理由などない」。
ただ「惹かれる」がままに、その人生を歩んでいく彼らに、私は畏怖と同時に憧れを感じる。

普通は、そんな人生など歩めるものではない。
誰だって、失敗はしたくない。最低限の生活は確保した上で、好きなことができればと願うのは、生き物としての当然の態度であり、何ら恥じるべきことではないだろう。

しかし、そうした世界を踏み出していくところに、彼らの人生の魅力がある。
言わば、「人間の領域」ではなく、無謀にも「神の領域」へと踏み込んでいく、彼らの「純粋かつ求道的な生き方」に、私は惹かれるのだろうと思う。
そして、だからこそ、彼らは「謙虚」なのだろうとも思う。「神」の前では、誰だって謙虚たらざるを得ないからだ。

しかしまた、彼らは「有限な存在としての人間」として「無限の存在である神」の前で謙虚であるとしても、決してそこで卑屈になったりはしない。彼らは「有限な存在としての人間」として、「無限の存在である神」と対峙して、一歩も退くことはない。
必然的に、いつかは敗れる運命にあることを知っていても、彼らは「神」の高みへの歩みを止めることはないのだ。だから「美しい」のである。

彼らは、ただあの小さな盤面に、人生のすべてを賭けるという生き方において、「人間の尊厳」を象徴してくれているのではないだろうか。
欲得抜きで、すべてを賭ける彼らに、私は、尊敬の念と畏怖と憧れを感じているのだと、そう思うのである。

初出:2020年12月26日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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