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ルイス・ブニュエル監督 『皆殺しの天使』 : 「この作品に意味はない」ということの〈意味〉

映画評:ルイス・ブニュエル監督『皆殺しの天使』

難解で知られる作品である。
私は、初めてブニュエルの作品を視るのだが、視ようとした動機はまさに、「難解」だと評判だからである。
「難解」だというのなら、「読み解いてみせようではないか」という気にさせられるのが、「名探偵趣味(謎解き趣味)」とも「批評家趣味」とも呼べるものを持っている者の性(さが)だからだ。「鳴かぬなら鳴かせてやろうホトトギス」なのである。

『あるブルジョワジーの邸宅で、夜会が始まった。楽しげに振舞う列席者たち。ところが、邸宅の従業員が次々に辞職していき、執事ただ一人になってしまう。邸宅の主人夫婦は何とか晩餐を用意する。食事の後、音楽室に移った列席者たちはピアノや歓談を楽しみ、帰る様子もなくそのうちジャケットを脱ぎ、すっかり腰を落ち着けてしまう。次の朝になってみると、なぜか誰も部屋から出られなくなってしまう。
そのまま数日が過ぎ、水や食料が尽きてくると人々は徐々に理性を失っていき、ついには死者も出る。一方、邸宅の外では軍隊も出動する騒ぎとなるが、なぜか誰も邸宅の中に入ろうとしない。』
 (Wikipedia「皆殺しの天使」より)

夜会の参加者たちが、招かれた館の広間から「出られなくなってしまう」と言っても、それは「物理的」に出られないということではなく、「心理的」に出られないのである。
つまり、その部屋の「ドアが開かない」とか、ドアの外には「茫漠たる無が広がっていた」とかいった話ではない。ドアの外には、普通に、その隣の部屋だとか庭だとかが、それまでどおりに存在しているのだが、客たちは、部屋の境界まで来ると、なぜか、そこから踏み出すことができない。
「その前に考えなければならない問題がある」とか「われわれはなぜ出られないのか」なんていうもっともらしい議論を始める者もいれば、「その前に食事を確保せねば」なんていう、一見もっとらしいけれど、根本的にズレた思考や行動を始めてしまうのだ。これが「心理的」に出られない、ということの意味である。

さて、この「不条理劇」の意味するところは何か。

監督のブニュエルは、明確に「意味は無い」と言っているそうだが、それは本当か嘘かはわからないし、そもそも作品に「意味」を与えるのは、鑑賞者の方であって、監督ではない。だから、監督の言葉など無視して、鑑賞者はそれぞれに、作品からその意味するところを「取り出す」ことをすればいいのである。
ただし、取り出した「意味」が凡庸であるなら、それは「無意味」である、に等しい。だから、鑑賞者は、言うなれば「意味のある意味」を作品に与えなければならない。また、その意味で、作品は「難解」でなければならず、その「難解さ」は「豊穣な深淵」でなければならないのだ。

したがって、本作を捉えて「ブルジョワへの反発であり批判である」とか「人間存在の(あるいは、現代社会の)閉鎖性を描いている」とかいった評価は、もっともダメな部類の「評価」であり、「意味づけ」だと言えよう。
なぜ、そうなのかと言えば、それは「見たまんま」だからである。

と、このように書いて、わざわざ敷居をあげて、私は自分の首を絞めているようなものなのだが、しかし、ここで私の読解を示さないで逃げる、というわけにもいかないから、思いつきを書いておこう。

ブニュエルが、本作に込めた「テーマ」や「意味」というものは、無い。
やはり「無い」のだ。
だが「意味が無い」ものを提示することには「意味がある」。それがブニュエル「意図」なのではないか。

つまり、ブニュエルとしては、自分の作品に、自身で語れば「凡庸なもの」とならざるを得ない「意味」や「テーマ」などを込める意図などさらさらなくて、むしろ「意味」を避けるようにして「やりたいことをやっただけ」なのではないだろうか。つまり、彼は「意味を求める(あるいは、意味を込める)」などという「貧乏臭いこと」が大嫌いな、貴族的唯美主義者なのだ。

もちろん「やりたいことをやっただけ」でも、作品はおのずと「意味」を持ってしまう。
それは仕方がないことなのだけれど、ブニュエルとしては「批評家」に知ったかぶりで「あなたがこの作品で描きたかったのは、これこれだろう」などと言われるのが、不愉快だったのではないか。
そんなもの、結局のところ、「そうではない」とも「もしかすると、無意識にそうした部分があったのかも知れない」とも言えるもの、つまり「どうとでも言えるもの」でしかなく、その「どうとでも言えるもの」でしかないのに、ああだこうだと知ったかぶりで決めつけられるのが不愉快だったので、ブニュエルは徹底して「無意味」なものを作ろうとした。「意図を込めない作品」「意図がありそうで無い」作品を作ろうとした。

その結果、作られる作品とは、結局のところ「やりたいことをやった」だけの作品とならざるを得ない。
というのも、人間、頭をまったく使わないで、何かを作るなんてことは不可能なのだ。仮に、完全に「思考停止」できたとしても、その場合には、「思考」の代わりに「無意識」や「欲望」が浮かび上がってきて、それが「思考」の代わりに作品制作を主導するだけなのである。
したがって、自ずと作品には、その作家固有の「無意識」や「欲望」という「意味」を読み取ることが可能となってしまうのだ。

だから、究極的には「意味」から逃れられないブニュエルがやったのは、「鑑賞者へのイヤガラセ」なのである。
「こんなものに、意味なんてないのに、そこに意味を見いだして、わかったような顔をしているお前らは、みんな大馬鹿者だ」と言いたかっただけなのだ。

だからこそ彼は「作品に意味は無い」ということを、断言強調しなければならない。
作品存在が「無意味」なのではなく、鑑賞者の「作品解釈」こそが「無意味」だとするためには、作品自体は徹底的に「無意味」でなければならないから、ブニュエルは、イヤガラセのために、意地でも「作品には、秘められた意味などない」と言わなければならなかったのだ。
作者のブニュエル自身には「イヤガラセ」という「意図」があったとしても、作品自体には「意味が無い」ということでなければ、ブニュエルの望む「イヤガラセ」は成立しないからである。

ちなみに、なんでこんなことをしなければならなかったのかと言えば、それはブニュエルに「サディズム(加虐嗜好)」的な思考があったからであろう。
この場合の「サディズム」とは、「他人を支配(コントロール)したい」ということであり、言い変えれば「他人に支配されるのは、絶対にごめんだ」という嗜好である。

だからこそ、ブニュエルは、自分の分身とも言うべき作品が、「鑑賞者の解釈」に従属させられるのを良しとしなかった。「どうぞ自由に解釈なさってください」という気にはなれなかったのだ。

ブニュエルの「サディズム」については、(たぶん)すでに多くの人によって指摘されているだろうから、ここではそれを繰り返して指摘することはしない。その必要はないはずである。

ただ一点だけ、私が気づいたことを指摘しておけば、ブニュエルは「冷たい感じの金髪美人が好き」だということである。
「冷たい感じの金髪美人が好き」だというと、普通は、そういう「女王様に鞭打たれたい」とか「オマエは豚よ、とか言われて蔑まれたい」とかいった「マゾヒスト」を連想するわけだが、たぶん、ブニュエルの場合は、普通の人を虐めても「虐め甲斐」がない、つまり「ブスを虐めても、気持ちよくない。どうせ虐めるのなら、気位の高い、感情を表に出さないような美女がいい」などという「神聖冒瀆」的なことを考えたのではないかと、私は推察する。

つまり、ブニュエルが「批評家的な作品解釈」と敵視したというのも、「一般の頭の悪い観客」ではなく、「頭のいい評論家」の方が「虐め甲斐」があって楽しい、と感じたからではないだろうか。

言い変えれば、ブニュエルは「評論家イジメを楽しめるような作品」を作ることを「楽しんでいた」のである。それが、彼の作品が「難解」であることの必然性であり、理由なのではないだろうか。

ちなみに、私のこの「解釈」は、無論、ブニュエルに対する「イヤガラセ」でしかない。

初出:2019年12月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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