見出し画像

私は〈あなた〉を批評している。

私は、noteでの自己紹介文を、次のように書いている。

『昔から論争家で、書く文章は、いまどき流行らない、忌憚のない批評文が多い。要は、本音主義でおべんちゃらが大嫌い。ただし論理的です。だからタチが悪いとも言われる。』

これを読んで「好感」を持つ人が多くないことくらいは、もちろん私だって自覚している。
自覚していながら、なぜ、あえてこういう「挑発的」な書き方をするのかと言えば、それは無論、私が「批評家」だからである。私が「太鼓持ち」ではないからだ。

こういう書き方は、「ウケてナンボ」のnoteにおいては、異質・異例なものであろうし、こんなへそ曲がりを喜ぶ人もまた、当然のことながら少数派であろう。
note「クリエーター」仲間から、たくさんスキをもらい、あわよくば小銭を稼ぎたいと思っているような多くの「クリエーター」にとっては、私のような人間は、目障りに違いない。
だが、それで良い。そういう「外部の視点」を保持しているからこその批評家なのだし、批評家の存在意義も、そこにあるからだ。

 ○ ○ ○

さて、そんな私の書く「批評文」がどのようなものであり、noteに参加している「クリエーター」たちに、どのように読まれているのかの実例を、ここでご紹介しよう。

本来であれば、私の記事のコメント欄に寄せられた、否定的・批判的なコメントが、その何よりの証拠になるのだが、論争家である私は、ただで言いたいことを言わせてはおかず、私に反撃されて痛い目を見たネトウヨさんなどの実例も、すでにいくつか紹介済みなので、基本的には、人に好かれたり高く評価されることを求めてやっているnoteにおいて、わざわざコテンパンに扱き下ろされる場に、我が身を晒そうという人は、もうあまりいないようだ。
そこで、今回お示しするのは、私の記事に対する反応の、数字的な分析である。

下に示したのは、ここ1週間の記事の閲覧状況だ。

画像1

ここでわかるのは、アニメ映画『竜とそばかすの姫』を批判的に論じた「闇に生まれし者は、闇に帰れ」の閲覧数がとび抜けて多く、後のものは、90〜60カウントくらいで、大きな開きはない、ということだ。

「闇に生まれし者は、闇に帰れ」の閲覧数が多く、スキも比較的多いというのは、『竜とそばかすの姫』は、世間的な注目度が高く、一般に評判も良いせいだろう。
この映画を観た人なら、どんな評価がなされているのか気になるし、多くの人が観ておれば、世評の高さに反発した人も少なくないだろうから、そういう人が、この記事にスキをくれたのだろうと、容易に推察できるのである。
だから、この記事は、まあどうでもいい。注目すべきは、それ以外の記事のスキ数である。

スキ数が「1」つだけなのは、
・「法月綸太郎は、なぜ嫌われる?」
・「ネトウヨ でもパヨクでも楽しめる、ロリコン漫画」

「2」なのは、
・「釈尊「最高の教え」としての法華経」

「3」は、
・「〈ブラック・ライブズ・マター〉と私」
・「パズル小説にこだわり続けた〈紳士〉:山沢晴雄について」

ということになるが、この中でも特に注目すべきは、閲覧数が多いわりに、スキ数が
少ない記事である「法月綸太郎は、なぜ嫌われる?」や「ネトウヨ でもパヨクでも楽しめる、ロリコン漫画」であろう。

なぜ、これらの記事は、閲覧数のわりには、スキが少ないのか?

それは、こうしたタイトルの記事が気になって、思わず閲覧してしまう「当事者」こそが、当該記事において批判されているからである。

つまり「法月綸太郎は、なぜ嫌われる?」においては、「自身の読解力の無さを認められず、作品にケチをつけることで自己正当化するしか能のない、凡庸な読者」と「エリート読者気取りの、ミステリマニア」の両方が、両睨みで批判されている。
もちろん、この記事のタイトルに惹かれた人の大半は、そのどちらかである蓋然性が高く、したがって、記事を読んで不愉快になった人の比率が高かったので、おのずとスキは付かなかった、ということであろう。

次の「ネトウヨ でもパヨクでも楽しめる、ロリコン漫画」の場合は、主に批判されているのはネトウヨだが、しかし、この記事の趣旨は「ネトウヨ批判」と言うよりも、左右を問わない「頭を使わない政治運動家」批判であり、だから「パヨクでも」がつけ加わっている。
したがって、この記事を読んだネトウヨが腹を立てるのは当然として、ネトウヨ批判の党派的な記事を期待して読んだのに、左翼であろうと「馬鹿は馬鹿」という趣旨の記事だと知った左寄りの人も、きっと不愉快になっただろう。
そんなわけで、この記事も、タイトルに惹かれて読んだ、多くの政治的意識だけが強い人には、左右を問わず嫌われて、スキが付かなかった、というわけである。

このように、私の「批評」というのは、「ウケ狙い」ではないのは無論、「ポジショントーク」の「党派的なウケ狙い」でもない、ということである。

私が書きたいのは「傑作は傑作だし、駄作は駄作だ」という、ただそれだけのことなのだが、傑作を褒めることは誰にでもできるが、駄作を適切に批判するのは、誰にでもできることではない。その「根拠を示して、駄作を駄作と適切に評価する」という「とどめを刺す」がごときことを、わざわざするから、私は嫌われるのだ。もちろん、ここで言う「駄作」とは、単なる「作品」だけを指すのではなく、「出来損ない」一般の意であり、「駄作と思われていない人間」なども含む、広範囲のものを指している。

そして、そんな私にとっては「閲覧数が多いのに、スキが少ない」というのは、批判対象へ批判が届いた、という意味で大成功だと言えよう。
一方、へそ曲がりの私としては「閲覧数が多く、スキも多い」というような、ベストセラー的なウケ方は、うれしくないとまでは言わないが、批評家の仕事ではなかったな(エンタメタレントの仕事だったな)と反省されられる部分もある。

やっぱり、批評家というのは、普通の人が気づかないところまで斬り込んで、その患部を剔抉するような、血のしたたるがごとき仕事をしなければならないと、そう思うのだ。

(2021年8月27日)

 ○ ○ ○