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石川達三『生きている兵隊』 : これはフィクションであり〈現実〉である。

書評:石川達三『生きている兵隊』(中公文庫)

本作は「小説」作品であり、その意味では「フィクション」であるけれども、「小説=フィクション」という形式を採ったからこそ書き得た「中国戦線における、日本軍の現実」であったと言えよう。
その意味で、本作を「フィクションだから現実を描いていない」とするような否定的批判は、およそ無意味である。

著者の石川達三は『南京陥落(1937年12月12日)直後に中央公論社特派員として中国大陸に赴き、1938年1月に上海に上陸、鉄道で南京入りした。南京事件に関与したといわれる第16師団33連隊に取材』(Wikipedia)して本作を書いたのだが、要は、この時の石川の身分・立場とは「日本の兵隊さんの活躍を取材し報告するペン部隊」員の一人だった、ということである。
したがって、その基本姿勢は、決して「中国戦線における日本軍の蛮行批判」などではなかった。彼はただ、「現実」を描き、報告したかっただけだったのだ。

本作が提起する問題については、Wikipediaが要領よくまとめているので、先にそれをそのまま紹介し、その後に、私の本作に関する評価を語ることにする。

『『生きている兵隊』(旧仮名づかい:生きてゐる兵隊、いきているへいたい)は、中国戦線に取材した石川達三の小説であり、作者自身の中公文庫『前記』によると、「この稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものである」という。しかし、「あるがままの戦争の姿を知らせる」(初版自序)ともしており、モデルとなった第16師団33連隊の進軍の日程、あるいは、描写が歴史事実と一致する個所も少なくない。1938年発表。』(Wikipedia「生きている兵隊」より)
『石川は、南京陥落(1937年12月12日)直後に中央公論社特派員として中国大陸に赴き、1938年1月に上海に上陸、鉄道で南京入りした。南京事件に関与したといわれる第16師団33連隊に取材し、その結果著されたのがこの小説であり、日本国内では皇軍として威信のあった日本軍の実態を実写的に描いた問題作とされる。『中央公論』1938年3月号に発表される際、無防備な市民や女性を殺害する描写、兵隊自身の戦争に対する悲観などを含む4分の1が伏字削除されたにもかかわらず、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」などとして、掲載誌は即日発売禁止の処分となる。その後、執筆者石川、編集者、発行者の3者は新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴され、石川は禁固4か月、執行猶予3年の判決を受けた。この著作が完全版として日の目を見るようになったのは第二次世界大戦敗戦後の1945年12月である。
1946年5月9日の『読売新聞』のインタビュー記事で石川は、「入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった」と自らが見聞した虐殺現場の様子を詳細に語っており、その記事が掲載された直後の11日の国際検察局の尋問では、「南京で起こったある事件を、私の本ではそれを他の戦線で起こった事として書きました」と述べている。一方、石川の逝去3か月前にインタビューを申し込んだという阿羅健一は、闘病中を理由にインタビューは断られたが、「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」との返事を石川からもらったと主張している。』(前同)

この最後の部分は、いわゆる「南京虐殺まぼろし論」にかかわる証言だが、南京での中国人民間被害者数が、中国政府の見解である30万人か、あるいは日本人学者が推定した数万人かは、要は「数的見積もり問題」でしかなく、「数万人規模の中国民間人虐殺(戦争犯罪)があった」というのは、小揺ぎもしない事実なのだ。

私は以前、『1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌を自主廃刊したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された』(Wikipedia)いわゆる「マルコポーロ事件」の主犯である西岡昌紀が、まだ人気があった頃のSNS「mixi」において「南京虐殺まぼろし論」を展開しているのを見て、西岡に対して直接「ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件での被害者は200人たらずだったが、それでも兵隊による民間人虐殺だからこそ、〈虐殺〉事件と呼ばれた。では、侵略被害国である中国の政府が南京での被害者を30万人だと過大に報告し、現実にはそれが数万人だったとしても、だからと言って、あなたのように、虐殺はなかったと言えるのか。あなたは、民間人が兵隊に何人殺されたら、虐殺だと認定するのですか?」という趣旨の質問を繰り返してぶつけた。西岡は、当初は言を左右にしながらも私に対応していたが、結局は、その問い自体には答えなかった、という経験がある。

つまり、「南京虐殺まぼろし論」にしろ「ホロコースト否定論」にしろ「歴史修正主義」者たちのやることは、不都合な「事実告発」に対して「言葉尻を捉えて、すべてを無かったことにする」というものでしかない。

無論、告発する側にも必然的に「ミス」は付きものなのだが、例えば「写真1枚、間違って掲載していた」から「その告発書は、すべてデタラメ」だとか「事件そのものが無かった」などという話には、当然ならない。
だが、書き手の巧妙なレトリックと読者の近視眼的な読解力不足が重なった時に、そうした「歴史修正主義」の欺瞞は、一定の効果をあげるのである。

そして、それは本作についても同じことで、本作に対して、「所詮は小説」「石川の取材は、事件の2週間後であり、虐殺の現場自体を見たわけではない」「南京での取材は、たったの8日間だった」などといった批判は、典型的な「ネトウヨによる難癖」に過ぎないし、Wikipediaに紹介されていた『石川の逝去3か月前にインタビューを申し込んだという阿羅健一』による「石川証言」もまた、何の証拠も持たない、阿羅健一による「為めにする、でっち上げ」の可能性が大なのだが、こんなものに頼るしかないのが、「ネトウヨ」による「南京虐殺まぼろし論」のお粗末さなのだ。

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本作『生きている兵隊』を一読すれば、作者が、日本軍や兵隊を「悪玉として描いているわけではない」という事実がハッキリと読みとれよう。本作に描かれる、自己犠牲的なまでに勇敢な日本兵や心優しい日本兵の姿、あるいは、次のような描写にも、それは明らかだ。

『西沢部隊長〔大佐〕は部下を愛する親のような感情をもつと同時に、敵を愛することを知らない軍人ではなかった。彼は幾千の捕虜をみなごろしにするだけの決断をもっていたが、それと共にある一点のかなしい心の空虚をも感じていた。この空虚を慰め得るものが宗教であろうと思った。彼はいま指揮官として敵の戦死者を弔う余裕と自由とをもたないが、それは従軍僧が代わってやってくれるであろうと思っていた。』(本書 P62〜63)

ここで西沢部隊長は「情けを知る武人」として、理想的に描かれている。そんな彼が『幾千の捕虜をみなごろしにするだけの決断をもっていた』のは、終始、補給物資の不足に悩まされながら、それでも前線から前線へと転戦させられていた彼らにとっては、捕虜をつれ歩くなどという選択は、現実にはあり得なかったからだ。
つまり彼は、「武人」として「心を鬼にする」覚悟を持った、しかし「敵に対しても情けを知る人」だったのである。
そして、当然のことながら、作者の西沢部隊長に対する感情は「同情」的なものであったと言えよう。

しかしまた、作者はここで「日本兵には立派な人が大勢いた」という事実を描くと同時に「それでも、どうしようもなく戦争犯罪に手を染めなければならない現実があったし、それに手を染めた兵隊も大勢いた。また、西沢のように敵への情けを知る者ばかりではなかった」という「事実」をも伝えてもいるのである。

本書(中公文庫版)「解説」で半藤一利が紹介しているように、作者・石川達三は、次のように語っている。

『「毎日読む(※ 日本軍についての提灯持ち的な、きれいごとの戦意高揚)記事が画一的なんで腹が立ちました。戦争というものは、こんなものではない。自分の目で確かめたいと思っているところへ、中央公論特派員の話があったのです。』(P204)

つまり、石川は「戦場の現実」を描きたかったのである。
そして、その「美醜両面」を描いた結果が、先の「西村部隊長」の姿であり、「中国人民間人を虐殺したり強姦したりする日本兵」の姿だったのだ。

石川達三の描いた「戦場の現実」は、「人間の戦争の歴史」を少しでも真面目に勉強したことのある者にとっては「ごく常識的で一般的な事実」でしかない。だから、日本兵だけが、例外的に「民間人虐殺や強姦・略奪」をしなかったと考える方が、あまりに露骨な「ご都合主義の自己正当化」でしかないのである。

戦時において日本の政府が、中国戦線における「日本軍の不都合な真実」を隠蔽しようとしたのは、まだしもやむを得ないとは言えよう。かの西沢部隊長だって、その立場なら、やむを得ずそうしたであろう。
しかし、「敵への情けを知る武人」たる西岡部隊長であれば、戦後になってまで「事実」を隠蔽しようとはしなかっただろうし、自身が手を染めた「戦争犯罪」について、誤摩化すことなく堂々とその事実を認め、進んでその身を裁きの場にさらしたであろう。

だが、「『生きている兵隊』否定論者」たる「ネトウヨ」などの「歴史修正主義者」たちは、自分たちが罪を免れるためならば、どんな嘘でも平気でつける「卑怯未練な日本人」なのである。

こうした輩が、現に大勢いて可視化されているからこそ、中国戦線においても「虐殺・略奪・強姦」を行なった日本兵が、相当数いたであろうことも、容易に類推できるのだ。
彼らは、バレなければ、そうした「恥ずべき行ない」も平気でやれる、無自覚な「国辱の徒」なのである。

そして、そうした日本人の実在をも、真っ正直に描いたのが、本作『生きている兵隊』なのだと言えよう。

初出:2020年8月25日「Amazonレビュー」

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