愛と真実は、自然の中に。
ちょっと前にバジルの種をまいたんですよ
んでね、数日経って、ちっちゃくてかわいいぃ芽が生えてきたのね。
植物を種から育てたりするの ほとんど初めてなんだけど
うれしくって、あまりのかわいさといとおしさに泣けてきて、
神様だ……
って思ったんです。
神様って、かわいいんだよね。
特定の宗教を信仰していない日本人が漠然と抱く神様像って、西洋人のオッサンとかおじいさんなことが多いと思うんだけど
わたしはそれはちょっとかなり怖い刷り込みだと思っていて、
わたしの思う神様って、わたしたちが感じられるか否かに関わらず 目に映るもの全てに宿っていて
その神様たちのバイブレーションを感じ取って、愛しさで胸がいっぱいになるほど純粋な気持ちを思い出しているとき
わたしたち自身もまた、神の意識と一体となっている。
そんなふうに感じています。
意味わからんかもしれんけど。
🌱⋆。
ご存知のかたも多いと思うのですが、
この1〜2年ほどの間、『縄文』というキーワードに 急上昇的に注目が集まっているように感じます。
縄文時代の暮らしや文化、大自然と共に暮らした人たちの精神的豊かさ……
そのバイブレーションを、取り戻そうよ。
そんなうねりが起こっていますよね。
前回のnoteで書いた、愛と調和の古代文明の話とも繋がってきますが、、
土から頭をのぞかせた小さな小さなバジルの命を愛でながら、
あー遥か昔のわたしたちは、こうやって自然の中に神の存在を感じながら生きていたのかな。
なんて思って、胸がきゅんとしたのでした。
物質的にはとても豊かな現代を生きるわたしたち。
生活に必要なものはもちろん、乗り物も薬も娯楽も嗜好品も、なんだってある。
それなのに悩みや迷いが尽きないのはきっと、
自然のサイクルの中にしか、真実は存在しないから。
真実(神の無条件かつ無償の愛のようなもの)を忘れて生きることを余儀なくされているから
わたしたち現代人は、何か外側のもののために 平気で自分という大自然を傷つけ苦しめることができるのだろう。
傲慢で狡猾な人間たちの作り出した『まやかしの真実』に惑わされて。
あと、今ね、『所有』ってワードがなんかすごい入ってきていて
「あらゆる悩みや苦しみは、所有の信仰が心のベースにあることから生まれる」って
なんか今 言われた。誰かに。
土地や食糧、金品や人間をより多く所有したいという欲望から争いが生まれ
より多く所有した者が偉いとされる信仰が、人間同士の競争を煽り
支配・管理・搾取する者とされる者の分断が起こり
人の上に、人が作られた。
人のいのちに値段がつけられることが、当たり前のことになった。
こう考えるとさ、ほとんどの労働って人身売買なんだよね
すっげーきれいにラッピングされてるけど、現代でうちらがやってることって、人身売買と変わらんのよ
さっき『縄文』ってワードがでてきたり、前回は『レムリア』って言葉がでてきたりしたけど
それらの文明の頃ってさ、きっとわたしらの命にまだ値段がついていなくて、そして誰にも所有されていなかったんだと思うんだよね。
自分でさえ自分のことを支配しようとしたり管理しようとしたりしなかったんだとおもう。
いのちへの畏怖があるから。
でも今のわたしたちは、自分という大自然を支配して管理しようとするから、
そして同じく他人という大自然のことも、所有したりコントロールしたりしようとするから
きっと終わりのない焦りや苦しみが生まれるんだね
こーゆー感覚って、遥か昔の記憶なのか未来の感覚なのか、もはやわかんないけど
ひとつの命としてはふつーに正当な感覚だよね。
人間の大人として絶対に言ってはいけないことを今日は言ってしまったかもしれないけど。
あーなんか、もうひとつ、、
命として生きよ。
って頭ん中で誰かが言ってるなあ。
そーだよね。わたしたちは命なんだもん。
たくさんのものを所有するとか、誰かを思い通りにするとか、
そーゆーこと考える前に、まっすぐに純粋に、精いっぱい自分のいのちを感じよう。
バジルの神様みたいにね🌱
ほぼ殴り書きですが、本日は以上となります。
ご清聴誠にありがとうございました。
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