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蝶は水中で呼吸する[短編]

 その日、僕は街路樹から降ってくるセミの鳴き声にうんざりしながら歩いていた。夏は苦手だ。外に出るだけで疲れる。
 僕の毎日は、特別なことや派手な事はないけれど、好きな事をして平和で穏やかだ。安心するし、自分らしくいられると思う。張り切って行動して上手くいった事など一度もないので、日々大人しく暮らしている。つまらない、暗いと思われてもいい。スリルより安全がいいんだ。まぁ、そういう平凡なのが僕だ。

 歩道橋の階段に差し掛かった時、階段の上から女の子が落ちてきた。女の子が、落ちてきた。白いブラウスが広がって、蝶みたいだと思った。
 僕はとっさに腕を広げ、その身体を抱き留める。他に何かを考える暇がなかった。そうなる事が決まってたみたいに、女の子は僕の上に落ちてきたし、僕は彼女を受け止めていた。
 こうして僕と彼女は運命的に出会い、たちまち恋に落ちたりはしなかった。

 次の瞬間には僕は気を失っていた。彼女を抱えたまま後ろ向きにぶっ倒れ、頭を打ったらしい。
 大学二年生、長い夏休みの始まりの日だった。


 真っ暗闇だ。目が覚めたのか覚めていないのかわからなくなるほどの真っ暗闇。怖い。ここは何処だ。息苦しくて、抜け出したいのに身体どころか指一本動かない。そもそも出口がわからない。全身を地面に縛り付けられてるみたいだ。クソッ。頭の中に心臓があるみたいにドクンドクンと波打っている。その波が全身に響いて激痛が走る。グルグルと目が回って意識が遠く。吐きそうだ。すでに地面から離れられないというのに、さらに地中の奥深くに引きずり込まれるような恐怖に襲われた。だけど抵抗もできずに、意識を手放した。


 細い筒を覗いているような、小さな視野の先が青く揺らめいている。空か、水中か。あの女の子はどうしたのだろう。大怪我をしたんじゃないか。身体が鉛みたいに重くて感覚がまるで無い。あの子が無事だといいのだけれど。
 ガンガンガンガンと頭を打たれるような痛みが走った。嫌だ、また引きずり込まれる。必死に小さな視野の先に目を凝らした。青い世界の中に、白い蝶が飛んでいる。僕は急に安心して(ああ、彼女は大丈夫だったんだ)と思った。プツリとテレビが消えるみたいに、また意識を失った。


 誰かの話し声が聞こえる。僕は自分が「生きている」と確信した。頭も身体も痛いし重い。視界はぼんやりとはっきりしない。話し声とは別に、近くに誰かの気配を感じる。けれどそちらを見る事が出来ない。それにその誰かも、不自然なほどジッとしていて、動いたり言葉を発する気配がない。奇妙だ。天使とか?やっぱり僕は死んだのだろうか。
 ドタバタと動く気配がして、
 「貴広っ!!目が覚めたの!?わかる!?聞こえる!?先生呼ぶから!!たかひろっ!!」
 母さんだ。
 その後は先生や看護師に囲まれて何やら処置をされた。母さんは興奮して終始声がデカく、少し経つと父さんが来たのもわかった。医師や母に何か聞かれたけれど、うまく意思疎通ができたかどうか。僕は疲れ切って、また目を閉じた。その時には、目覚めた時に感じた誰かの気配を、すっかり忘れてしまっていた。


 それからだんだんと目覚める回数や時間が増えてきた。僕が倒れた後どんなに大変だったかは、母さんがデカボイスで教えてくれた。そして泣いていた。ごめん、僕も、こんな事になるとは思わなくて。
 頭は相変わらず痛いけど、手足は少しずつ動かせるようになってきたし、順調に回復しているみたいだ。
 だけどたまに不思議な事がある。寝ている時に、誰かが側にいる気がするんだ。でも目覚めると、姿を確認する前に消えてしまう。その気配を感じる時、僕は何故かいつも、青い世界に白い蝶が飛んでいる夢を見ている。
 白い蝶……
 僕はハッとした。何で忘れていたんだろう。あの女の子は、どうしているだろう。無事だったのだろうか。

 母さんが着替えを持ってきたので聞いてみた。
「あのさ、女の子、どうしたかわかる?」
「は?」
「あの、僕が倒れた時に女の子がいたはずなんだけど。」
「あんた、どうしたの?」
「忘れてたんだけど、思い出したんだよ。女の子のこと。」
母さんはしばらく難しい顔をした後、
「先生を呼んでくるわね。」
と言って病室を出て行ってしまった。どういう事だろう。
 先生は僕にいくつか質問をした。そして、術後すぐの意識は朦朧としていたので覚えていないのだろう、よくある事だから心配いらない。と言った。母さんは安心したようだった。
 手術の後、僕は何度か意識が戻っていて、2回目に目が覚めて初めて発した言葉が「あの子は?」だったらしい。看護師が「彼女は大丈夫。軽い怪我だけだったから安心して。」と伝えると、「はい。」と言ってまた気を失ったそうだ。
 だとするとあの気配は。僕の予想は当たっている気がする。


 「君が無事で良かったよ。」
彼女がビクッとして席を立とうとするのがわかった。
「待って、行かないで。」
戸惑う様子はあったものの、ゆっくりと椅子に座り直してくれたみたいだ。僕は目を開けた。彼女には悪いと思ったけど、話をするにはこうするしかないと思ったのだ。狸寝入り作戦。
「いつも、見舞いに来てくれていたね?」
彼女は黙って俯いている。
「君の気配は感じてたよ。ありがとう。」
彼女は黙って首を振った。
「これからも、来てくれる?出来れば僕が寝ている時じゃなくて、話したりできないかな?」
彼女は首を横に振る。
「じゃあ、寝てる時でもいいから。」
彼女はゆっくりと頷いた。
僕はありがとう、と言って目を閉じた。彼女はずっと側にいてくれた。

 「あの女の子が、僕の見舞いに来てくれてるんだよ。」
僕は、僕と彼女の秘密の逢瀬を、持ってきたゼリーを自分で食べている母さんに話した。
「うん、知ってるわよ。」
「え、知ってたの?」
「マリちゃんでしょ?別にそんな頻繁に行かなくても大丈夫よ、って言ってるんだけどね。あんたに悪いことしたって、思ってるみたいなのよ。あんたが鈍臭いだけなのにね。いい子だわぁ。」
「ま、マリちゃんていうの?てか喋ったことあるの?」
「喋ったことあるもなにも、マリちゃんうちに住んでるんだから。あれ、言ってなかったっけ?」

ウチニスンデルンダカラ???

「ど、ど、どうゆうこと!?」


 そもそも彼女は落ちてきたのだ。歩道橋の階段の踊り場から。何故そんな事になったのか。

珍しく小声の母さんによると、こういうことだそうだ。

 マリは3月に高校を卒業した後フリーターをしていて、アルバイト先で出会った歳上の男と付き合い始めた。数ヶ月後に同棲を始めると、男はマリに暴力を振るうようになった。あの日、マリは男から逃げる決心をした。追いかけてきた男と揉み合いになり、突き飛ばされたのだそうだ。
 マリを抱えて倒れた僕の頭の下に血溜まりが出来るのを見て、逃げようとした男は勇気ある通行人たちによって取り押さえられ、警察に引き渡された。
 僕と同じ病院に運ばれたマリは、不自然な体の傷や痣が見つかり、男と同棲していた家には当然帰らないが身寄りもなく、連絡できる友達もいないという。
 そこで名乗りをあげたのが、彼女を心配して様子を見に来た母ちゃんだったというわけだ。その時僕は手術の真っ最中で、生きるか死ぬかの瀬戸際だったというのに、母ちゃんのその判断力。
 ありがとう母ちゃん、あんた最高だよ。マリの登場で、平凡な僕の日常は変わった。良い意味でね。

 マリは寝ている時なら来てくれると言ったけど、僕は度々狸寝入り作戦で話しかけた。それを続けていたら少しずつ話してくれるようになった。嬉しい。(すごく嬉しい)
「うちはどう?居心地悪くない?」
「……悪くない。」
「退屈じゃない?」
「うん。お母さんと一緒に料理したり、楽しい。」
「そうなんだ。良かった。」
「……良くないと、思う。」
「どうして?」
「わたしは、迷惑を掛けてるから。貴広さんにも、お母さんたちにも。」
「迷惑なんて思ってないよ。」
「でも、貴広さんにこんな怪我をさせたのに、家に住まわせてもらって、逃げるためにバイトも辞めたままで、負担にしかなってない。」
「僕の怪我のことはもう気にしないで。生きてたんだからいいんだ。バイトはまたやりたかったらいつでもできるよ。それにね、母さんも父さんも、娘が欲しかったから嬉しいって喜んでる。マリは今、ふたりのことすごく幸せにしてるんだよ。」
「そんな……わたし……。」
「泣かないで。大丈夫だから。」
今、抱きしめるところじゃないか。この体、クソっ。
「貴広さんは、私がいたら、嫌じゃないの?」
「嫌じゃないよ。マリさえ良ければ、ずっと居ていいよ。」
マリは涙を拭くと、ぽつりぽつりと話し始めた。

「わたし、子供の頃から水の中が好きで、」
「うん。」
「水の中だと、自分が生きやすい感じがするの。」
「うん。」
「貴広さんのお家や、お父さんやお母さんと一緒にいるとね、水の中にいる時みたいに安心する。」
「そうなんだ。」
「今ね、初めて、ちゃんと呼吸ができてる気がするの。」
「そうか。それなら良かったよ。マリにそういう居場所ができて嬉しいよ。」

 彼女が今までどんな人生を送ってきたのか、僕はほとんど知らない。だけどあの時僕が受け止めた事で、彼女が生きていてくれて、DV男とも縁が切れて、本当に良かった。
 水中の方が好きな人、居心地がいい人がいたって、全然おかしな事じゃない。


 僕は驚異の回復力を見せた。マリがお見舞いに来てくれるだけでも元気になったし、何より僕だって早くマリと一緒に暮らしたい。


一つ屋根の下に暮らしたからといって、マリの心まで落ちてくるのかどうか。
それはまた、別のお話……。


——蝶は水中で呼吸する——おわり


…マリ 名前の由来…
スペイン語のmariposa(蝶)から

…本日のヘッダー…
なめ潟もくじ(waratsutsumi)さん

…Respect…
Le Scaphandre et le Papillon『潜水鐘と蝶』
邦題『潜水服は蝶の夢を見る』
(2007年フランス)

世にも奇妙な物語『箱』
(2015年 竹内結子)

I will really miss her.
May her soul rest in peace.
竹内結子さん大好きです、ずっと。

2021.9.27

心から感謝します。 Thank you from the bottom of my heart.