nekozo kouzuka

文章家の猫蔵です😸 見世物小屋ウォッチャー。好事家。大学の非常勤講師。「マンガ論(文…

nekozo kouzuka

文章家の猫蔵です😸 見世物小屋ウォッチャー。好事家。大学の非常勤講師。「マンガ論(文芸理評)」「生贄論(民俗•人類学)」が専門。

最近の記事

日野日出志『七色の毒蜘蛛』論

 映像作品『ギニーピッグ2血肉の華』について、論じ尽くしたと思った。だが、解消されることのないもやもやが、図らずも僕の中に残ってしまった。  その意識は、新宿の小奇麗な喫茶店にて、年長の友人と差し向かいで「ギニーピッグ」について話し合っているときに、次第に明確になっていった。 「君の説に従えば、この『血肉の華』という作品の性格は、つまるところ、女の“眼球”というものへの慕情・執着という、非常に人間臭いものへと還元されてしまうように読める」  僕の書き上げた『血肉の華』論を読ん

    • 〜生贄論18〜「原爆パイロット

      一つは、三島由紀夫が、小説『美しい星』の中で描いた、広島への「原爆投下直後」説です。これは、イーザリーに纏わる流説の中で、最も一般的なものです。イーザリーは、原爆投下直後、「離脱する軍用機のコクピットの中から、立ち昇るキノコ雲を目撃した」というものです。三島は作品の中で、「あの原爆投下者の発狂の原因」は、「痒みほどの苦痛もなかったこと」だったと述べています。罰せられてしかるべき罪を犯したはずなのに、ただ飴玉を口の中で転がすだけの平穏な時間が、何食わぬ顔で流れ続ける。その絶対的

      • 〜生贄論17〜「原爆パイロット⑧」

        そしてまた、イーザリーが自らをユダに重ね合わせたということは。その終焉において、善悪の狭間で首を括ったユダの心理に寄り添う予感を、少なからず抱いていたのではないでしょうか。つまり、自らが傷付けた"他者"の痛みを、その何万分の1でも共有し、引き受けることに想いを馳せ、"祈る"こと。その瞬間にこそ、彼の魂の平穏は訪れたのではないでしょうか。 ヨブにとっての絶対的他者が、父なる神であった様に、イーザリーにとっての絶対的他者とは、原爆乙女に代表される、(たとえ間接的であるにせよ)自ら

        • 〜生贄論16〜「原爆パイロット⑦」

          「ユダの自死」は、聖書最大の悲劇であり、謎であるとされます。イエスはなぜ、ユダの「裏切り」と「破滅」の運命を知りながら、彼を弟子に加えたのでしょう?イエスは全てを知っていたはずです。 『ヨブへの答え』の中での、ユングの指摘が想起されます。神は、一見"不完全"に見える人間の中に、神が未だ獲得し得ない"聖性"を見出し、それを獲得するためには、人間に受肉することも厭いませんでした。 ユダという人物に課せられた、特別な意味があったと考えるのは、僕の飛躍でしょうか。イエスは、裏切り者ユ

        日野日出志『七色の毒蜘蛛』論

          〜生贄論15〜「原爆パイロット⑥」

          イーザリーは、哲学者アンデルスとの書簡の中で、自らを裏切り者ユダに重ね合わせています。「僕の手に入れる金が、それ以外の目的のために支払われたものであるとすれば、その金は、キリストを売ったイスカリオテのユダが受け取った三〇枚の銀貨とおなじような意味しか持たないことになるだろう」と記しています。文中の"それ"とは、「僕がすべての人に対して負っている責任にふさわしい形で利用されること」を指します。つまり、少なくともこの書簡において彼は、自らが犯してしまった罪と向き合うことを自覚して

          〜生贄論15〜「原爆パイロット⑥」

          〜生贄論14〜「原爆パイロット⑤」

          イーザリーにとっての、実人生における『ヨブ記』の実践がいかなるものであったのかを問う前に、今一度、ヨブ記の結末に目を凝らしましょう。そこに描かれていたのは、唐突ではあるものの、神の降臨と、ヨブの救いでした。この結末を指し、ユング は著者『ヨブへの答え』の中で、"ヨブ"こそが、旧約聖書と新約聖書とを繋ぐキーパーソンであったと述べます。一般的に、旧約の神は「人間を罰する神」、「父性的な不条理の神」という性質が濃く、一方新約の神によって遣わされた神の子イエスは、「母性的」「赦す者」

          〜生贄論14〜「原爆パイロット⑤」

          〜生贄論13〜「原爆パイロット④」

          イーザリーが、神の沈黙という究極のリアリズムに直面した、「20世紀のヨブ」であるのなら。果たして彼は、その実人生において、いかに「復活」を実践し得たのでしょう?イーザリーは喉頭癌により、1978年に59歳でその生涯を終えます。あるいは、晩年、軽犯罪と精神病医への入退院を繰り返したその最期から、結局は救いを見出せなかった生涯と見なす向きもあるかも知れません。しかし、どの様な結末を迎えたにせよ、彼がいかなるものに救いを見い出そうと足掻いたのか、僕らは注視する必要があります。 先に

          〜生贄論13〜「原爆パイロット④」

          〜生贄論12〜「現爆パイロット③」

          この世界は、正しき者が報われ、悪しき者は罰せられる世界であれ、という、渇望の叫びから抜け出すことは、この時もう既に、彼にとっては不可能だったのかも知れません。 イーザリーが、「無欲な平和主義者だった」と言うことは難しいでしょう。確かに、彼はアメリカの兵士でした。「平和」や「正義」あるいは軍人としての「野心」と、ヒューマニズムや「他者」という存在とを比較した場合。良し悪しはさて置き、当初のイーザリーはおそらく、前者を選び取る人間だったと僕は感じます。芥川龍之介の『地獄変』という

          〜生贄論12〜「現爆パイロット③」

          〜生贄論11〜「原爆パイロット②」

          自らが背負った幸や不幸は、等しく他者と分かち得ることが可能だという幻想。いわば、「テレパシー幻想」。これは、「人類全体の罪を担って十字架に掛けられた」というキリストを引き合いに出すまでもなく、人間にが根源的に備えた他者への幻想と言えるでしょう。人類学者フレイザーは『金枝篇』の中で、「元来、"王"とは生け贄の別名に他ならなかった」と考察しています。王とは元来、生け贄と同一の存在であり、死までの期間、特権的な地位を与えられた者のことであったと言います。王は、他者の災厄を一身に引き

          〜生贄論11〜「原爆パイロット②」

          〜生贄論⑩〜「原爆パイロット」

          クロード・イーザリーのことは、三島由紀夫の小説『美しい星』で知りました。イーザリーは、広島に原爆を投下したエノラゲイ号を先導するストレートフラッシュ号の機長であり、後に「発狂」という末路を辿った人物と言われています。三島は作中、イーザリーについて「あの広島における原爆投下者が発狂した理由。それは、みずからが手にかけてしまった者たちの痛みが、露ほども共有されないことを知ったゆえ」「原爆投下の後も、キャンディを舐め続ける平穏な時間が、何者にも犯されることなく流れ続けた。」と書いて

          〜生贄論⑩〜「原爆パイロット」

          〜生贄論⑨〜「ヨブ記の系譜」

          もはや、奇跡を期待することはできません。つまり、沈黙のまま他者からの返答がなくても、「それでも信じ続けることができるか?」という命題を直視するべきです。 いかなる理由かは分かりませんが、神はもはや、この地上において「奇跡」を引き起こすことを止めてしまった様に見えます。だからこそ、神の沈黙を前にした時の在り方にこそ、僕らに選択の余地が残されているのです。 神の沈黙。信じたものとの断絶。そして、その地獄から、人はいかに復活できたか? 本論が目を凝らすのはまさにそこです。この過程

          〜生贄論⑨〜「ヨブ記の系譜」

          〜生贄論⑧〜「ヨブ記4」

          ヨブ記の考察を続けます。 その後、ヨブの下に三人の友人が見舞いに駆けつけます。三人は、ヨブの変わり果てた姿を見て愕然とします。そして、彼と悲しみ・苦しみを共にし、七日七晩、沈黙のうちに寄り添います。 しかし、その後ヨブの口から出てきたのは「わが生まれし日、滅び失せよ 」という、衝撃的な言葉でした。ヨブは、自らが生まれた日への呪詛を口にしたのです。これは即ち、父なる神に対する、抗議に他なりませんでした。 すると友人は、「考えてもみよ。未だかつて、罪なき者で滅ぼされた者があるか?

          〜生贄論⑧〜「ヨブ記4」

          〜生贄論⑦〜「ヨブ記3」

          ここで僕の脳裏に思い浮かぶのは、第二次世界大戦中における「アウシュヴィッツ強制収容所」の悲劇です。アウシュヴィッツ強制収容所は、人類史上最も「神の沈黙」「神との断絶」が明らかになった、負のレガシーでしょう。ユダヤ人らに対する"ホロコースト"(大量虐殺)が行われたアウシュヴィッツにおいて、聖書に描かれた様な「神の奇跡」が起こることは遂にありませんでした。帰還者であるユダヤ人のエリ・ヴィーゼルは、少年時代、アウシュヴィッツに収容された初めての夜、人間が「焔」となって煙突から立ち昇

          〜生贄論⑦〜「ヨブ記3」

          〜生贄論⑥〜「ヨブ記2」

          ヨブ記の冒頭を見てみましょう。 かつて、ウツの地に、ヨブと呼ばれる男がいました。ヨブは、神への信仰に厚く、多くの富をもち、人々の尊敬を集める、非の打ち所のない人物でした。天に住む神もまた、ヨブを誇りに思っていました。しかし、神の傍らにいたサタンが、神にこう耳打ちします。「ヨブが信仰を捧げているのも、貴方が見返りとして彼に祝福を授けているからこそ」。「試しにヨブから祝福の全てを取り上げてみたらいかが?」「たちまち信仰を捨て、天に向かって唾を吐くことでしょう」。 このサタンの申し

          〜生贄論⑥〜「ヨブ記2」

          〜生贄論⑤〜「ヨブ記」

          ここでまた、「原罪」という言葉が脳裏に浮かびます。チョーラカの鞭打ち、傷痍軍人のアコーディオン、蛇女の蛇喰い…全て、「芸能」と呼ばれるものの原点は、等しくこの「原罪」に対する贖いなのではないでしょうか?傷ついたり、不具者として産まれついた者に対する、借りの意識。これこそが、キリスト教者ではない僕が肉体感覚で腑に落ちる「原罪」と呼び得るものと感じます。そして、その芸に対して喜捨することこそが、自身の「原罪」に対する贖いと感じるのです。 自らが、かつての「生贄」の儀式の所作を模倣

          〜生贄論⑤〜「ヨブ記」

          〜生贄論④〜「原罪」

          ふたたびチョーラカのことを考えてみると。僕が心惹かれたのは、ショッキングな彼らの芸そのものという側面も確かにあります。しかし、もっと興味深いのは、彼らの芸を何百年(?)にも渡って今なお許容し続けてきた、インドという土壌のもつ不思議と、その懐の深さなのです。彼らの芸が必要とされている理由が、現代の日本に生きる僕らが“職業”を捉える時とは別の、もっと生きることの根源に直結した部分にあるような予感がしています。 インドの大衆は、チョーラカの何に対して価値を見出し、対価を支払っている

          〜生贄論④〜「原罪」