〜生贄論17〜「原爆パイロット⑧」
そしてまた、イーザリーが自らをユダに重ね合わせたということは。その終焉において、善悪の狭間で首を括ったユダの心理に寄り添う予感を、少なからず抱いていたのではないでしょうか。つまり、自らが傷付けた"他者"の痛みを、その何万分の1でも共有し、引き受けることに想いを馳せ、"祈る"こと。その瞬間にこそ、彼の魂の平穏は訪れたのではないでしょうか。
ヨブにとっての絶対的他者が、父なる神であった様に、イーザリーにとっての絶対的他者とは、原爆乙女に代表される、(たとえ間接的であるにせよ)自らが傷付けてしまったヒロシマの人々に違いありません。
改めて僕は、イーザリーこそ、イスカリオテのユダの血を継ぐ者であると同時に、神の沈黙に直面した、あのヨブの運命を辿る者、現代のヨブであると捉えます。ではイーザリーの全生涯を通し、彼にとっての「神の沈黙」=決定的な「他者との断絶」が訪れた瞬間は、いつだったのでしょう?そして、彼はそこで、いかなる選択をしたのでしょうか?もっと具体的に言えば、当初は軍の模範生であり、軍人的功名心すら覗かせていた彼が、後に彼自身を破滅に導いたと(世間一般的に)言われる「良心の呵責」を覚えた地点は、一体どこだったのか?という謎です。
かつてのヨブがそうであった様に、「神の沈黙」引いては「他者との断絶」とは、イーザリーの人生における決定的なターニングポイントに他ならないでしょう。僕は、それ該当すると思しき出来事は、この三つだと考えます。これら三つのいずれか、あるいはこれら三つの全てが、その影響の大小はあるにせよ、絡み合い、彼を「英雄」ではなく、「一人の人間」に引きずり下ろしてしまったのだと考えます。
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