〜生贄論④〜「原罪」

ふたたびチョーラカのことを考えてみると。僕が心惹かれたのは、ショッキングな彼らの芸そのものという側面も確かにあります。しかし、もっと興味深いのは、彼らの芸を何百年(?)にも渡って今なお許容し続けてきた、インドという土壌のもつ不思議と、その懐の深さなのです。彼らの芸が必要とされている理由が、現代の日本に生きる僕らが“職業”を捉える時とは別の、もっと生きることの根源に直結した部分にあるような予感がしています。
インドの大衆は、チョーラカの何に対して価値を見出し、対価を支払っているのか?ひとつ大胆な仮説を挙げるならば。かつての日本における傷痍軍人のケースと同じように、インドという国そのものが、チョーラカという存在に対し、何か共通の体験なり価値観を根深く共有しているからだと考えられます。それはつまり、ヒンドゥー教のカースト制度でしょう。チョーラカは、いわゆる不可触民です。カースト制度の中でも最下層に位置します。ゆえに、彼らの子供の多くは学校教育を受ける機会に乏しく、細々とした家業を継がざるを得ません。自らを鞭打ち、時には血を流さなくてはならない、あの荒芸です。
ここからは推測なのですが、チョーラカの荒芸に対して金銭を渡すことが、日本の傷痍軍人に対する喜捨とよく似た感覚だったとすれば。庶民の中に、チョーラカという存在に対する“ねぎらい”と“感謝”の感情が隠されていると読みとれます。つまり、チョーラカが傷痍軍人と同様に、その身に傷を負うことによって(傷が自ら付けたものなのか、他者から付けられたものなのかという違いはありますが)、もしかしたら自分たちが負うかもしれなかった痛みを、彼らが身変わりに引き受けてくれたという共通認識を、たとえ無意識レベルであれ、インドの庶民は広く持っているのではないか。そのことが、結果、長らく昔ながらの姿でこの荒芸が途切れることなく伝承されてきた秘密と読めるのです。

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