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〜生贄論11〜「原爆パイロット②」

自らが背負った幸や不幸は、等しく他者と分かち得ることが可能だという幻想。いわば、「テレパシー幻想」。これは、「人類全体の罪を担って十字架に掛けられた」というキリストを引き合いに出すまでもなく、人間にが根源的に備えた他者への幻想と言えるでしょう。人類学者フレイザーは『金枝篇』の中で、「元来、"王"とは生け贄の別名に他ならなかった」と考察しています。王とは元来、生け贄と同一の存在であり、死までの期間、特権的な地位を与えられた者のことであったと言います。王は、他者の災厄を一身に引き受け、やがて処刑されなければならない運命にありました。そしてその処刑は公開され、その記憶は公的に共有されたのです。加えて、前述した「蛇喰い」など、古典的な見世物小屋の芸が、その儀式の残滓だと考えれば、これらの芸に、血や死が付き物だということにも合点がいきます。「尊いものを殺める」ということと、それを衆目に晒すということ。そして、その記憶の共有。沈黙する神を前に、これらの過程を共有した者同士の結束は、現代人の僕らが想像する以上に深められたに違いありません。
「原爆パイロット」の一員であったイーザリーは、自己を罰する"誰か"を求めていたと言っていいでしょう。しかし、裁きの神を含め、全てが彼に対して口をつぐんだのです。それどころか、世論の大半は彼を、米国を勝利に導いた英雄として取り立てました。ある面では、その賞賛は、彼が当初欲していたものだったのかも知れません。
ヨブが友人たちから言われのない非難を受けたのに対して、いわばイーザリーは、言われのない賞賛を浴びたのです。一時期、彼の体験を映画会社が映画化しようと試みます。これは最終的に実現はしませんでしたが、この状況はまるで、隠れキリシタンが葛藤の末に「踏み絵」を踏むのと引き換えに、無罪放免という見返りを受けたのと似ています。彼は『ヒロシマ わが罪と罰』の中で、自らを、「銀貨30枚で師イエスを裏切ったユダ」に例えています。映画化の話を前に、イーザリーは、映画に出演することへの影響を含め、「僕の今後の生活」が、「僕がすべての人に対して負っている責任にふさわしい形で利用されることが必要なのだ」と述べています。そして、この様に後半生を送ることができてこそ、「僕ははじめて罪から解放された気持ちにひたれるだろう」と、哲学者アンデルス宛の手紙にしたためています。そうでなければ、どれほどの名声を得ても救いはない、と言います。そして「世間が僕について作りあげた英雄像をぶち壊したくて」、「世間から解放されて生きるため」に、法律に違反する様な行動を取ってきたと続けます。師イエスを裏切ったユダが、木に首をくくって最期を遂げた姿を、イーザリーは自らに重ね合わせています。

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