〜生贄論⑧〜「ヨブ記4」

ヨブ記の考察を続けます。
その後、ヨブの下に三人の友人が見舞いに駆けつけます。三人は、ヨブの変わり果てた姿を見て愕然とします。そして、彼と悲しみ・苦しみを共にし、七日七晩、沈黙のうちに寄り添います。
しかし、その後ヨブの口から出てきたのは「わが生まれし日、滅び失せよ 」という、衝撃的な言葉でした。ヨブは、自らが生まれた日への呪詛を口にしたのです。これは即ち、父なる神に対する、抗議に他なりませんでした。
すると友人は、「考えてもみよ。未だかつて、罪なき者で滅ぼされた者があるか?」と、神の正当性を弁護し、ヨブをたしなめます。しかし、苦しみに打ちひしがれるヨブにとって、この言葉は神経を逆撫でするものでしかありませんでした。ヨブは、「なぜ自分がこの様な理不尽な目に遭わなければいけないのか、心当たりはないし、せめてその理由だけでも教えて欲しい」と神に懇願します。
ヨブと友人たちの議論は平行線を辿ったまま、やがて「ヨブ記」は意外な展開を見せます。なんとその終盤において、"父なる神"が、嵐と共にヨブの前に姿を現すのです。父なる神は苛立ちを隠そうとはしません。「天地創造の際、私が怪獣レヴィアタンと戦っていた時、お前は一体どこで何をしていた?」と、ヨブを問い詰めます。非創造物である人間が、神の意図を図ること自体の傲慢を指摘します。怒れる神に、ヨブも平伏するしかありませんでした。
そして神は、悔い改めたヨブに対し、かつての二倍の財産と、七人の息子、三人の娘を授け、福音のうちに「ヨブ記」は幕を閉じます。

僕は初めて「ヨブ記」を読んだ時以来、この結末に蛇足めいたものを感じざるを得ません。例え罰するにしても、福音を授けるにしても、絶対的な他者である神の側から応答がなされたのであれば。当初の命題自体が意味を成さなくなってしまうでしょう。

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