〜生贄論18〜「原爆パイロット

一つは、三島由紀夫が、小説『美しい星』の中で描いた、広島への「原爆投下直後」説です。これは、イーザリーに纏わる流説の中で、最も一般的なものです。イーザリーは、原爆投下直後、「離脱する軍用機のコクピットの中から、立ち昇るキノコ雲を目撃した」というものです。三島は作品の中で、「あの原爆投下者の発狂の原因」は、「痒みほどの苦痛もなかったこと」だったと述べています。罰せられてしかるべき罪を犯したはずなのに、ただ飴玉を口の中で転がすだけの平穏な時間が、何食わぬ顔で流れ続ける。その絶対的リアリズム=あるべき神の"空っぽ"を見てしまったことが、イーザリーに決定的な変革をもたらしたという説です。これは他ならぬ僕自身が、イーザリーという人物に引き寄せられるきっかけとなったものです。
仮にもし、僕自身がクロード・イーザリーだったとしたら。この決定的瞬間、僕の中の"他者"に対する幻想は、音を立てて崩れ去ったに違いないからです。自らを神が罰してくれるということ。それはつまり「この世界における誰かの"痛み"は、自分にとっての"痛み"に他ならない」ということの、動かぬ証明となるのです。ある意味、その時のイーザリーは、神が姿を現し、自らを裁くその瞬間の到来を、今か今かと待ち望んでいた。自らが犯してしまった罪によって生じた歪みが、厳然たる罰によって帳尻を合わせ、正常に戻ることを欲していたのです。しかし、神がおわすはずの場所に彼が見てしまったのは、文字通りの"空っぽ"だった。三島由紀夫が小説『仮面の告白』の中で、祭りの喧騒の中、汗まみれの男たちに担がれた神輿の中央に、六尺四方の空っぽの闇を幻視してしまった様に、この時イーザリーは、神のいない、空っぽのコクピットを見てしまった。問いを発しても、答えてくれる"他者"はいなかったのです。
他者への慕情は、ある種のテレパシー幻想として、民間信仰や土着の風習にその痕跡を辿ることができます。終末信仰を題材にした映画『サクリファイス』(アンドレイ・タルコフスキー監督)に、魔女によって捧げられた生贄と祈りが、第三次世界大戦を食い止めるという隠喩が出てきます。主人公の男が、自らにとって価値のあるもの(=家)を魔女に捧げ、その魔女が媒介となり、主人公の"痛み"を引き受けてくれることで、神とのとりなしを担うという世界観。人間の身代わりとなり、一身に祈りを捧げるシャーマン(巫女)のイメージ。このイメージは、幼い頃から僕の脳裏に棲みついていました。
そのイメージの現像を辿ると、どうやら"ガイア"という女神信仰に行き着きます。未開人の"呪術"に対する捉え方を分類した人類学者フレイザーの『金枝篇』にも、共同体内部の穢れを一身に背負って最後に「殺される」森の王が出てきます。つまり、生贄として捧げられるシャーマンや異人は、人類にとって共通の「共同幻想」と捉えることが可能です。たとえ、それが現実的な効果でなかったとしても、この様な存在の物語が繰り返し語り継がれてきたという事実は無視できません。誰かと「痛み」や「不幸」を分かち合うことで、人はまた、孤独の痛みから救われるのです。
クロード・イーザリー本人は生前、「広島から離脱するコクピットからキノコ雲を見下ろし、僕は愕然とした」旨のことを語っています。しかし、これは史実ではありません。当時のイーザリーはそもそも、原爆投下機であるエノラゲイ号を先導する"気象観測機"の機長であり、原爆投下を確認することなく任務を終え、帰路に着いたと言われています。ただ、先の発言が、イーザリーが故意に嘘をついた故のものだったと断定するのは早急です。当時の世界的な世論が彼のことを「アメリカの良心」と持て囃していた現状を鑑みれば。おそらくイーザリー自身が、その世論の求めるイーザリー像に応えるべく、意図的でないにせよ、自身の記憶を書き換えてしまった可能性が高いでしょう。ただし、「原爆パイロットがそのコクピットからキノコ雲を見下ろし、神の"空っぽ"を見てしまった」という黙示録的光景は、あまりに強烈で、動かし難いイーザリー像として、人々の脳裏に焼き付いたことは否定できません。これはある意味、人々が潜在的に、その様な心象イメージを需要したからだと捉えることが可能です。見るべからざるものを見てしまった"原爆パイロット"の肖像。それは、女神"ガイア"の様に、僕らにとっての共同幻想だったのです。当時の人々、特に日本人が希求していたものであり、たとえ歴史的事実でなかったとしても、渇望された"真実"であったのです。
では、史実として、イーザリーが他者との関係から断ち切られた瞬間は、一体どこだったのでしょう?僕はそれは、彼の妻が、彼との子供を流産した時点であったと捉えます。イーザリーは、広島での任務の後に、自ら志願し、南太平洋のビキニ環礁における水爆実験(1946年)に参加しています(放射性降下物の調査)。その後、彼の妻は二度の流産を経験します。そして1947年の時点では、軍を退役し、市井の一市民となっていたイーザリーは、退役軍人局を相手取り、放射能汚染を理由に賠償請求を起こすという行動に出ます(1948年)。当時はまた、放射能による人体への影響が、今ほど解明・言及されていませんでした。あるいは、他ならぬ自らの肉体が被曝しているということを自覚するに至って初めて、彼は原爆の"当事者"になったのかも知れません。原爆後遺症が認知されていなかった当時、
一勤め人(ガソリンスタンド従業員)として、妻を養う義務のあったイーザリーの苦悩は、どの様なものだったでしょう。
被曝した自己の発見。それは、信仰に厚き者にも関わらず、神の所業による皮膚病に苛まれる、あのヨブの姿を彷彿とさせます。『ヨブ記』と異なる点は、ヨブは始終、無垢なる者としての印象を読む者に与えていたのに対し、クロード•イーザリーのエピソードは、彼の英雄願望に重きを置かれていることを無視できない点です。イーザリーの信仰は、神自身への肯定であると同時に、その神の威光を、自らが英雄の星の下に生まれた者であることへの、定義付けとして捉える意味が濃かったのではないか?僕自身の体験に置き換えてみると。
かつて、家族の中でひときわ存在感のあった祖母が、自分に愛情を注いでくれるのは、僕が祖母自身の孫であり、他ならぬ一家の長男だからだという意識。別の言い方をすれば、僕の実存に対してではないという、拭い難い自意識です。イーザリーの信仰とは、それに似ていたのではないか?限りなく彼に寄り添えば。彼は、「未来の英雄候補」としての自己を神は愛していると捉えており、彼のインナーチャイルドは、彼自身の実存に神の愛が向けられていないことを暴露される瞬間の到来を、ずっと怯え続けていたのではないか?
被曝者としての自己の発見こそ、その恐れていた瞬間だったのだとしたら。罰してくれる神は不在であり、全ては野放図に許されている。その身も竦むほどの暴力的なまでの"自由"。その自由を前にして、自らの運命を規定していたはずの大意思を、イーザリーは見失ってしまった。そのことが、"特別"であるはずの自らの生が、路傍に転がる石ころと何ら変わることはないという認識へと、彼を導いてしまったのではないか。そして、その恐るべき虚無を直視しないために、何かを悪者に仕立て上げ(彼の場合は、自らが所属したアメリカ軍)、そして憎むという行為は、一時的な対処療法として選び得ることに、何ら不思議はありません。英雄の星の下に生まれたと信じていた者が、ある日突然"凡人"であることを告げられたとしたら。(仮に、先に挙げた僕と祖母の関係で例えるなら。ある日突然、僕が祖母と血の繋がらない子供であることを、祖母の口から宣告された様なものでしょう。幸いなことに、僕自身がその様なことを実体験することはありませんでしたが。)


三島由紀夫『美しい星』

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