日野日出志『七色の毒蜘蛛』論

 映像作品『ギニーピッグ2血肉の華』について、論じ尽くしたと思った。だが、解消されることのないもやもやが、図らずも僕の中に残ってしまった。
 その意識は、新宿の小奇麗な喫茶店にて、年長の友人と差し向かいで「ギニーピッグ」について話し合っているときに、次第に明確になっていった。
「君の説に従えば、この『血肉の華』という作品の性格は、つまるところ、女の“眼球”というものへの慕情・執着という、非常に人間臭いものへと還元されてしまうように読める」
 僕の書き上げた『血肉の華』論を読んだ彼のこの言葉に、本質に肉薄することができたと思っていた『血肉の華』の根底に、まだ自分自身明かしきれていない事実があることを僕は改めて自覚した。
 確かに僕は先の論において、『血肉の華』という作品のもつ有機性の欠如を指摘した。いわば、本作がいわゆる“内臓フェチ”と呼ばれる人々の嗜好を満たすことをその本質とはしていないことを早い段階で指摘した。
 切り開かれた女の腹部のなかにみずからの指先を突っ込み、ぐちゃぐちゃと掻き回して、その質感の手触りを愉しむというのであれば、百歩譲って共感できないこともない。これはある意味、非常に動物的・人間的欲求に根差した悦びともいえる。ここには少なくとも、不自然さの異議を挟みこむ余地はない。(弄ぶ対象が“眼球”になったとしても大差はない)
 だが、『ギニーピッグ2血肉の華』というビデオ作品がもつ歪さの本質はここにはない。ビデオ初見当時、僕がこの作品から感じとった底知れない不気味さと可能性の本質は、女の肉体に対する憧憬やフェチズムへの共感などといった範疇に納まりきるものではなかったように思う。まるでエリザベート・バートリーのように血と臓物の風呂に浸かる行為は、この上なく退廃ではあるが、逆説的に生を賛歌し、それを渇望しているという点においてまだどこか健全であり、『血肉の華』のもつ不気味さとは異なる。『血肉の華』の場合、生も死も肯定されることはない。それ以前に、このどちらも本質的には描かれてはいないといえる。一見すると、おびただしい血と肉が描写されていることから、本作を“生々しい”という形容詞にて評価してしまいがちだ。しかし、本編にて描かれる血と肉に、自然を伴った生々しさはない。死を実感させる痛みが意図的に伴われていないことが要因として挙げられる。
 具体的に見てみよう。まず本編スタート直前の冒頭のテロップにおいて、本作品はあくまで再現映像である旨が告知される。原版の実録映像があるにはあるが、事情があってそれは公開できないゆえ、苦肉の策としてそれを忠実に再現したものが本作品であるという断りである。本編がいかにリアルであろうとも、それはあくまでイミテーション、フェイクであるという前提を冒頭にて自覚させられた以上、鑑賞者は、例えば映画『13日の金曜日』において殺人鬼が犠牲者の脳天に斧を振り下ろしたときに感じるような“痛み”の臨場感をはじめから奪われている。
 次に、犠牲者となる女である。『血肉の華』では、犠牲者の女は腕に麻酔を注射され、正常な肉体感覚を奪われている。女は殺人者の男によって皮膚と肉とを切り裂かれるが、男自身の弁によれば、麻酔薬の効能によって、痛みどころか快感すら感じているのだという。当然、“死”という劇的なものを鑑賞者へと実感させるバロメーターともいえる“痛み”は始終、この女自身の身によって感じられることはない。殺人者の男の執拗なオペによるいったいどの局面においてこの女が決定的な死へと至ったのか、明確に判断することはできない。節目節目で口から大量に吐き出される血、内臓を引き抜かれ、首を切断され、あげく目の玉をくりぬかれ、この女は象徴の上では、死を幾度も執拗に反復しているようにさえ見える。ここにおいては、当然ながら本来は一回限りのものである“死”の希少価値は反故にされている。
 友人との会話を通じ、改めて浮き彫りにされたのは、『血肉の華』という作品のもつ不自然さである。この不自然さが、『血肉の華』という作品に至っては、欠点とはならずに、かえって印象に残るリアリティとして機能しているのは驚くべきことである。
『血肉の華』をはじめて観た子供時代、極論すればこの作品は、ひとりの男がマグロの切り身をひたすら淡々と切り分けているに過ぎない映像にも等しいとイメージしたことを思い出す。これはいったい何を意味するのか?劇中における怪人物の所作については、その狂気を黙示し際立たせるために敢えて冷淡な振舞いが演じられているのではないことに注目したい。解体を演じる男自身、過剰なジェスチャーを装い、これがパラノイア特有の“熱狂”による所作であることをアピールしているのであるが、それが目につけばつくほど、反対に男自身の冷めた理性と計算高さが露わになってくる。この乾いた眼差しが、子供時代の僕には気になって仕方がなかったのだ。ここにおいては、「アンチヒューマニズム」という認識はあまりにも無邪気に思える。ヒューマニズムへのささやかな反抗という意味においては、世のあらゆるホラー映画、悪趣味映画と呼ばれるものの多くはここに収斂されることになろう。しかし、『血肉の華』の内奥には、否定するべきヒューマニズムがはじめから存在していなかった。

 今回、論じるべきものは、日野日出志の漫画『七色の毒蜘蛛』(1971<昭和46>年「少年サンデー」11号初出)、日野二十五歳のときの作品である。底本として、ひばり書房刊・1988年10月初版の『地獄の子守唄』に収録されたものを使用した。冒頭で述べた映像作品『血肉の華』との関連は、論を進めていくうちにおのずと明らかになってくる予感がしている。いま、うっすらと僕の念頭にあるのは、“大義”という言葉である。小説家の三島由紀夫はかつてTVのインタビューにおいて、「武士に限らず、現代の人間もまた、心のなかにみずからを超える価値を認められなければ、生きていることすら無意味である、というような心理状態がない訳ではない」と述べている。これから見ていく『七色の毒蜘蛛』の主人公もまた、奇遇なことに日本刀をその傍らに置き、みずからの生業に勤しんでいる。いうまでもなく日本刀とは、「何のために生き、何のために死ぬか」という武士の大義が具象化したものである。この男はいったい、いかなるものに対して大義(みずからを超えたもの)を見出していたのか、われわれは着目しながら本編を読み解いてゆく必要がある。

見開き1ページ目。
 向かって右側は本作の扉絵である。ここには、筋肉質な男の背中がアップで描かれている。そして、その全体を覆うようにして、一匹の巨大な蜘蛛が浮かび上がっている。大蜘蛛は男の背中の中央に陣取り、男の肉体そのものを支配しているようにも見える。
 本作品のタイトルクレジットは「原色人間図鑑 七色の毒蜘蛛」である。“原色”および“七色”という形容詞は、それぞれ単体では美しさを感じさせないこともないが、それが“人間”“毒蜘蛛”という名詞と複合すると、途端に毒々しい舌触りへと変貌する。とくに、「原色人間図鑑」というサブタイトルは全編を通じてここにしか出てこないので特筆する。原色の人間たちが載った図鑑というのも、興味をそそられると同時に、どこか露悪的な印象をも免れ得ない。ぺらぺらと気まぐれにページをめくり、掲載されている人間たちの赤裸々な有り様を眺めてはほくそ笑むような、シニカルな視線をここに読みとれるからであろうか。
 見開き1ページ、左1コマ目。
 四畳半ほどの畳張りの一室。その中央で、こたつに両足を突っ込み、座って漫画を描いている男がいる。男の傍らには、散乱した煙草の吸殻やどぶろくのビンが据え置かれ、長丁場の仕事である様子が伺える。ただ、頬杖をつき、疲労の色濃い思案顔をした男のこたつ机の脇で、鞘立てと共に立てかけられた一振りの長刀が、異彩を放っている。波打った前髪を額に貼り付け、落ち窪んだ目に細い血管を浮かび上がらせた男の姿は、その内面世界の濃密さとは相反し、肉体的充実からは遠く隔たった印象を受ける。しかし、この一振りの刀の存在が、この男が絶えず、肉体的・男性的充足を渇望する者であることを暗に物語っている。
 武士の心得について著した山本常朝『葉隠』の一節、「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」はあまりにも有名である。この一節にまつわる解釈や曲解も多岐にわたり、そのことについての細かな言及はここでは割愛する。ただ、この男が刀の向こうに“死”を見ていることは明らかだ。前述した三島の言を借りれば、みずからをも超えうる価値=大義のためであるならば、自身の肉体を投げ打つことも厭わないとする美意識の薫香のようなものが、この一見惨めな四畳半の絵から嗅ぎとることができる。
 男は独白する。
「わたしは、最近、まんがをかきながら 背中がチクチクと いたい時がある…」
 時どき、針を刺すような激痛が背中に走ることもあるという。四畳半といえども、ここは男ひとりには充分な広さの部屋である。部屋の中央で背中の痛みに神経を尖らせ、時折、「あつつ…!!」と声にならないうめき声をあげる男。その姿は、幸福な熱中のなかにおいて没頭している漫画の執筆というよりも、身を削りながら白いマス目を一つずつ黒く塗り潰してゆくような、どこか苦行の生業を思わせるものである。
 事実、我々はこの男の座る四畳半の畳の目に着目すべきだ。ここでは一切のスクリーントーンは使用されることなく、すべて作者・日野日出志自身の描き込みによって手描きされた畳の目の筋が刻み込まれている。また、書き物机を兼ねたこたつのこたつ布団の模様は、一面、中心を黒く塗り潰された二重丸となっている。いうまでもなく、目玉を想起させる模様である。これらから、この主人公の意識は不断に外部のある何者かによって注視されており、覚醒状態にあると言ってもいい。熱中の忘我に身を沈めそうになると、絶えずその手前で彼を理性の水面へと引き戻すものこそ、背中のチクチクとした痛みの体感である。ゆえに、創作のエクスタシーや没我よりも、脂汗を垂らしながら筆を走らせている印象をこの絵から受けるのであろう。
 この男はみずからの描くものに限りなく意識的なのだといえる。ただ、前出の『葉隠』の「死狂い」という言葉を挙げるまでもなく、侍が刀に賭すべきは、一切の計算や自意識をも超えた、純粋行動の発露である。ここにおいて、男のジレンマが少しずつではあるが、見えてくる予感がする。
 4コマ目。「そんな時、私は 私の恐るべき記憶の糸をたぐらざるを得なくなるのだ」。畳の上に寝転び、男は咥え煙草の煙をくゆらす。そして、上着の上から背中をさすっている。針を刺すような背中の痛みが、男にいかなる記憶を呼び覚ますというのか。

見開き2ページ。
 寝そべったまま、咥えていた煙草を灰皿に押し付けている。やがて男は、ボサボサの髪を紐で後ろに束ね、手鏡でその表を確かめる。改めて、左右の瞳の大きさの不揃いな、青ざめた形相である。ただ、このときはじめて、男の口角が上にもち上がっているのが確認できる。彼の内奥にある喜びの感情にスイッチが入ったのであろうか。
“笑う”ということについては、もちろん理性によって統制された笑い(愛想笑いなど)もあるが、ここから読みとれるのは、男自身の、“理性”から“感情”への心地よい傾斜である。刀を手にしたことにより、男は先ほどまでの慢性的な背中の痛みからいっとき解放され、喜びとも忘我ともつかない微笑を口許に浮かべている。神経質で怪訝そうな面持ちで書き物机に向かっていた先刻までとは一変し、後ろ髪を束ね畳の上に起立した男の形相は、漫画家というより、『血肉の華』でいうところの熱狂にとり憑かれたパラノイヤを思わせる。
 見開き2ページ目。墨の滴る筆で日の丸を描いた半紙を、部屋の天井から吊り下げる。日の丸からは墨汁が滴り落ちている。
 先刻の「背中の刺すような痛み」が襲った後、怪奇漫画家を名乗るこの男が条件反射的に視覚化したものこそ、日の丸(日本国旗)であったというのは注目すべき点だ。本作『七色の毒蜘蛛』においても顕著であるが、凄味と共にある種の戯画的な滑稽さとが同居した日野漫画の絵のタッチに、安堵とともに、漫画、ひいては創作行為というものに対する拭い難いかすかな憐憫の情を覚えている自分がいる。この男はどこまでも理性の人であり、いかなる深刻な出来事もこの男の筆の前ではシニカルな戯画となり茶化しの対象となってしまうであろう。では、この男にとって、けっして戯画にすることのできないものは果たして存在するのだろうかという考えが僕の脳裏を横切る。ただ、時たま襲ってくる鋭い背中の痛みを経て後、みずからの過去の記憶と向き合う男の姿は、ひとときその理性の呪縛から解き放たれている印象を受ける。男の理性をも呑み込み、熱狂の没我へといざなうものの象徴こそ、日の丸に他ならない。
 以下、見開き2ページ目における、男の独白を引用する。理性の方向へと傾いていた男自身のモチベーションを、日の丸同様、彼にとって本来あるべき方向へと導くモチーフの登場に注目したい。
「深い深い 無限の記憶の闇の底から、記憶の糸を たぐりよせてみると、その糸に、原色の ドロ絵の具をまぶした 記憶の断片がズルズルとくっついて出てくる…」。ここまでにおいては“原色のドロ絵の具”という言葉が一際鮮やかだ。
「それを どこまでもどこまでも たぐりよせて、もうこれ以上はひきだせない所まで たぐりよせてみる… そうすると、ある一点を境にして、その先が スーッと無限の闇の底にとけこんでしまう」。ここでは、“ある一点”という部分に特権的な意味合いが付されている。“ある一点”という男の独白に合わせ、薄暗い部屋のなか、男自身の手によって鞘からずらされた刀身の一部が鈍く輝いている。「その一点こそ…!!私の記憶の…恐るべき 幕開けの 瞬間であり… その一点から、私の記憶はとつぜん…まさにとつぜん!! 打ち上げ花火のごとく…!! けんらんたる色彩に 色どられて、あざやかに現れるのである」。独白の最後においては、“恐るべき”という感情の盛り上がりと共に、“打ち上げ花火”という、激しい色や音を伴う言葉によって締めくくられている。
 鞘から刀を抜いた男は身構え、「ちぇ~すとっ!!」の奇声と共に、日の丸めがけ横なぎに刃を走らせる。

見開き3ページ。
 見開きページ全体からはみ出す勢いで描かれた巨大な日の丸を、横なぎに払われた男の斬撃が真っ二つに切り裂いている。ここに記された男の独白を引用する。
「それは、狂気と幻想のドラマの幕あけにふさわしく、まっかにそまった夜空に巨大な空飛ぶ怪物どもが 群れをなして襲ってくる 光景から始まるのである」
“それ”とは、前ページにて語られた、“けんらんたる色彩によってはじまる、恐るべき私の記憶”のことであろう。漫画家として、常に現実を対象化し、戯画化することを生業とする男ではあるが、時として彼が立ち戻り、身を浸さなければいけないものこそ、強い感情を伴った記憶に他ならなかった。更にいえば、その感情とは、身も竦むような“恐怖”であった。
 子供の頃に親しんだ駄菓子の味を大人になってからも忘れられないように、シニカルな茶化しの玄人が反芻し、身を浸していたのが、よりにもよって身も竦むような過去の恐怖の感情であったという矛盾が目を惹く。日の丸を横なぎに切り裂いた斬撃の軌道のなかには、サーチライトによって空に照らし出されたB29の大編隊が描き込まれている。その配下にはシルエット状になった日本家屋が建ち並び、空を埋め尽くした機体から投下される無数の芥子状の黒点をなす術なく呑み込んでいる。
 考えてみれば、男はみずからの手で日の丸を描き、それをみずからの刀によって一刀両断している。これはいったい何を意味しているのか。思うにこれは、日の丸にまつわる男の感情の根底には“恐怖”のみならず、もっと別のものが潜んでいることを示している。そして日の丸を切り裂く彼の斬撃の軌跡のなかに、日本を焦土と化すB29の大編隊が描かれていたということは、刀を携え侍の格好をしてはいるが、この男の深層意識はけっして、“日の丸”を絶対的な「死狂い」の対象とはみなしていなかったことを表している。

見開き4ページ。
 黒い夜空、その淵だけをわずかに黒光りさせた黒い塊りが、「鬼畜米英」との貼紙の貼られた電柱を擁する日本家屋を直撃している。B29の落としていった爆弾である。見開き右ページ、B29については「無遠慮な空飛ぶ怪物」、爆弾については「まき散らされた不気味な」と例えている。黒光りするくそは地上に激突し、七色の光を発して炸裂する。そしてすぐさま、町には広大な火の海が広がり、漆黒の夜空をたちまち真っ赤に焼き焦がす。
 改めて「七色」という言葉が出てきたが、この語り手は主観的な判断において、これをむしろ美しい色として感じている様子が読みとれる。事実、見開き左ページにおいて語り手は、「それは、とうてい この世の出来事とは思えぬ」「めくるめく、狂乱の幻想であった」と叙述している。投下された爆弾が降り注ぐなか、逃げ惑う人々に容赦なく七色の光と真っ赤な火が襲いかかる。4コマ目。頬に両の手のひらを張りつけ、防災頭巾を被った人物が火だるまになっている。5コマ目。地上部の地面へとカメラの視点は移っている。そこには、千切れた人間の手や足、そして生首が転がっている。そして、そんなものお構いなしに、われ先にと逃げ惑う人々の足元が、この場面の異常さを際立たせている。
 6コマ目。そして、ぱっくりと口を開いた瓦礫の隅から、真ん丸い目を見開いたひとりの男の子が外の様子を伺っている。独白は語る。「そして、それはすべて無音の世界の中の出来事のように 思えた」。男の子が身を潜める瓦礫にはまだ火の手は回っていないらしく、その視線の遠く先で、赤い炎が町全体を嘗め尽くしている。

見開き5ページ。
 どうやら男の子が身を潜める瓦礫は防空壕の入り口だったらしい。1コマ目、黒いシルエットの町に、白抜きで描かれた火の玉の群れが降り注いでいる。効果音は一切ない。そのかわり、この光景を叙述する独白の言葉が、建物の黒いシルエットの上に白ヌキで書き込まれている。「ああ… この世に これほど 狂おしく 美しい光景が またと あろうか…」
 1コマ目以降、4コマ目まで。防空壕の中から大空襲の光景に見入る男の子の顔を中心に、描き手の視点(カメラ)が徐々にクローズアップしている。1コマ目は無表情だった男の子の顔が、2コマ目ではわずかに口の端を上げ、笑みを浮かべている。いよいよ3コマ目では、その目が血走り、はっきりと興奮している表情を読みとれる。
「私は、防空壕の中で、夢をみているような」「恍惚感に浸りながら喜々として それらの光景を 眺めていた」とは、独白者の台詞である。“私”という言葉から、この男の子が冒頭に登場した漫画家の幼いころの姿であることが改めて分かる。
 独白の言葉は続く。「私が、あの毒蜘蛛を 初めてみたのは、 そんなさなかのことだった」。空襲の光景に見入る幼い“私”を防空壕の奥へと匿おうとして、父親がその背中に焼夷弾を受けてしまう。左ページ1コマ目、薄暗い防空壕の中、息を殺し身を潜ませる人々の姿が、グレーのスクリーントーンによって一様に塗り潰されている。ただそんな中、“私”の両目と父の眼鏡、そして父の背中で燃え盛る炎だけが、トーンの貼られることのない白ヌキによって表されている。まもなく父の背中の炎は居合わせた人たちの手によって揉み消されるが、その焼け引き攣った父の背中に、“私”は奇妙なものを見る。「まっかな色をした大きな蜘蛛が、不気味にうごめいている」のを、はっきりと見たのだ。左ページ3コマ目、父自身もまた、その眼鏡越しに、服が焼け落ちて露わとなったみずからの背中へと視線を注いでいる。その背中にはすでに、うっすらと例の大蜘蛛の姿が浮かんでいる。父自身もまた“私”同様、大蜘蛛の姿をそこに認めたのであろうか。
“私”と父は、ここにおいて、ある同じ秘密を共有した。ただ、父の瞳が眼鏡によって遮られているということは、“私”にとって父とは、同じ秘密を共有しながらも、必ずしも無条件にその秘密を分かち合える存在ではなかったことを意味している。

見開き6ページ。
 その翌日、“私”はもっと巨大で恐ろしい蜘蛛を見るはめになる。1コマ目、巨大なキノコ雲が、この見開きページのコマ割りのなかで最大のものとしてクローズアップされ描かれている。よく見ると、キノコ雲の傘の部分に、大きなお尻をして複数本の足を四方へと伸ばした大蜘蛛の姿が浮かび上がっている。原爆投下と、決定的な日本の敗北を表すコマ絵である。
 2コマ目、GHQ総監・Dマッカーサーらしき人物が、パイプを片手に飛行機の梯子を降りてくる。その顔に一切の表情はなく、視線も黒いサングラスによって閉ざされ、窺い知れない。3コマ目、白い地面の上に、人間たちの靴の足跡だけが黒いベタ塗りとして残されている。4コマ目、「白鬼」や「黒鬼」と例えられ、米軍服に身を包んだ白人兵や黒人兵が日本に上陸してくる。その恐ろしげな形相は、語り手自身の主観を多分に反映しているようだ。
 左ページ1コマ目。
「それはやけに むし暑い夜の ことだった」。星と三日月に照らし出された土手の一本道を、三つの人影が寄添い歩いている。三つの人影は、画面の奥から我々読者のいる手前へと歩みを進めている。彼らが歩いてきた道の奥には、瓦礫の山となった町並みが見てとれる。月は寄添う三人の周囲を照らしてはいるが、彼らの行く手(つまり読者から見て手前の領域)はベタ塗りの闇に閉ざされたままで、前述の独白の言葉が白ヌキで書き込まれているだけだ。「むし暑い」という言葉と相俟って、ねっとりと密度の濃い闇が肌に絡み付いてくる感覚を覚える。
 2コマ目。
「ヘ~イ ママサン 遊ビマショウ」。
ねっとりとした闇の沈黙が、何者かの声によって打ち破られる。そして三人(父、母、そして幼い“私”)はその場に棒立ちになる。闇のなかから現れたのは、占領軍の米兵たちであった。三人は脂汗を顔に滲ませ、後ずさりをする。父は母と“私”を庇う素振りをみせるが、「白鬼・黒鬼」と例えられた米兵たちに適うはずもない。4コマ目、父から引き離された母は、激情に駆られた白人兵の大きくて毛むくじゃらな手でその口を塞がれ、眉間に皺を寄せ身悶えするしかない。妻を取り返すべく抗う父は、別の白人兵によってまるで子供のように事も無げに取り押さえられてしまう。
 6コマ目。「私の 目の前で 悪夢が 展開されたのだ」。どうする訳でもなく、ただひとりぽつねんととり残された“私”は、押し黙り空で輝くだけの月や星たちと同じように、米兵たちに乱暴される母をじっと見つめている。このコマ絵に描かれた“私”の顔には脂汗ひとつ浮かんではいない。阿呆のように薄ぼんやりと口を開き、丸い目を見開いて、視線はある一点を凝視している。独白においては「悪夢」といいながらも、米兵たちを含めこの場に居合わせたどの誰よりも無感覚を保っているように見える。もしこの場面において“私”の顔に汗の玉がひとつでも浮かんでいたなら、読者はもっと救われた心持ちになっていたであろうし、結果として『七色の毒蜘蛛』はもっと凡庸な印象のみを残す作品になっていたことだろう。

見開き7ページ。
月と星々は相変わらず何事もなかったかのように光り続けている。1コマ目、父と“私”に背を向け、着物の肩をはだだけさせたまま、母は地面に座り込んでいる。2コマ目、道に突っ伏し、力なくうなだれている父と、そんなふたりの姿をやや遠巻きに見下ろしている“私”の姿が俯瞰で描かれている。“私”の顔には相変わらず汗粒ひとつなく、コマ絵において“私”は空に浮かんだ三日月とまったく同質の存在となっている。
3コマ目。土手の一本道の上の家族三人の姿を、月が煌々と照らしている。効果音は何もない。父に背を向けた母の黒い影が地面の上に伸びている。先ほどははだけていた着物の襟が、いつの間にか直されている。ただ、夫であり妻であるという、父と母ふたりの関係を、何事もなかったかのようにこれからまた続けてゆくには、あまりにも不自然な沈黙と距離がここにある。
4コマ目。「ドボーン」という音がし、土手下のどぶ川に映った三日月が歪に波打っている。母が身を投げたのだ。波打つ水面を指差す“私”の様子に、放心していた父がようやく正気を取り戻す。母を助けるべく、父もまた川へと飛び込む。母が飛び込んだときにできた渦と、父が飛び込んだときにできたそれとが水面で隣り合い、ふたつの波紋を描いている。見つめる“私”の顔には脂汗がいくつも浮かんでいる。
左ページ。まもなくして母は引き上げられる。しかし、すでに手遅れであった。1コマ目、もう二度とその目を開くことのない母の寝顔が描かれている。ぷっくりと柔らかそうな唇の端からは、血の筋が二本、滴り落ちている。母の死因は、果たして溺死によるものだったのだろうか。あるいは、父の手によって助けられることを拒んだ心が、みずからの舌を噛み切らせたのだろうか。
母を助けるべく、無我夢中でどぶ川へと飛び込んだせいで、父の全身からは粘り気を帯びた夥しい汚水が垂れ下がっている。これらのせいで、父の顔面には、漫画特有の冷汗が描かれる余地はない。また、眼鏡をかけたまま飛び込んだため、ぶ厚いレンズが目の表情を遮り、この場面において父はまるで、その感情を窺い知ることのできないゾンビかエイリアンのような風貌で膝をつき、すでに冷たくなった母を介抱している。
3コマ目。上着を脱ぎ捨て剥き出しになった父の背中に、“私”の視線は釘付けになる。ふたたび、そこにあの大蜘蛛の姿を見たのだ。蜘蛛は悲しみに打ち震えた父の背中で、紫色に変化していた。4コマ目においては、母が米兵に襲われたときや自殺を図ったときにも増して、カメラ=語り手の視点は、“私”の表情を大映しで抜いている。顔中に汗の粒が浮かび、零れ落ちそうなほど飛び出た目玉は、父の背中の蜘蛛に釘付けになっている。顔色も目の表情も窺い知ることのできない父の、剥き出しになった背中に、“私”は釘付けになる。
5コマ目。コマの枠いっぱいに、死んだ母を見下ろす父の背中が描かれている。引き攣れと汚水まみれの父の背中。その上に、大きな尻をした大蜘蛛が一匹、八本の細く長い足を広げている。独白の言葉はその光景について、「無数の水滴が 蒼い月光を浴びて、まるで真珠のように、美くしく 輝いていたのだった」と述べている。
“美しい”という言葉であるが、遡ること見開き5ページにおいても用いられていた。町に無数の火の玉が降り注ぐ光景に“私”は魅入られていた。いずれも忌まわしい場面であるはずなのに、ただひとり“私”だけはそこに<美>を感じずにはいられない。本来であれば見えるはずのない大蜘蛛に魅入られた私は、<美>を感受する場面において、ことごとくその姿を目撃せずにはいられなくなる。

 大蜘蛛とはいったい何者であろうか?世の中の倫理や道徳から甚だしく逸脱した美と、人外の美の虜となった者の物語といえば、芥川龍之介の『地獄変』がある。腕利きの屏風絵師・良秀は、みずからの娘が炎に包まれ死にゆく様を前に、ただひたすら絵筆を動かし、その光景を描き続ける。語り手はそんな良秀の姿を、「何か背後に荘厳な光が輝いているようにさえ見える」(芥川龍之介著『地獄変』より)と語っている。日野日出志もまた同名の漫画を描き残し、芥川の短編の切れ味に物語作家として多大な影響を受けたことを公言している。しかし、物語構成という現実的な手法のみならず、美の実現のためならばその他のありとあらゆるものの犠牲をも厭わないとする拭い難い一念のようなものもまた、芥川の作品から受け継ぎ、そして強められた部分もあったように見受けられる。
 漫画『赤い花』において、「美花園」にやって来た美しい女性客を手にかけ、その血と肉を肥料にし、可憐な花を作り出すことを第一義とした主人公の男。ここに、『地獄変』の主人公・良秀の姿が重なる。両者とも、その身にある種の非日常的な凄味を兼ね備えてはいるが、同時に、否定しがたい欠落(例えば男性的な不能のようなもの)の臭いをもまた確かに感じさせることを見逃せない。
「美花園」の主人は、ひとりの女性客を犠牲にし、美しい花を完成させる。しかし、それには飽き足らず、次なる獲物に視線を定める。たったひとりだけの女を愛の対象とするエロスからはむしろ遠く隔たりがあり、彼の創作の営みは、いっときの充足以上のものを男に約束するものではないように映る。やや穿った言い方をすれば、一見すると<美>の創造に殉じる男の営みは、男性的に不能であるがゆえに怨念にも近い感情を伴って持続する、捌け口を失ったリビドーを紛らわすための、身を削るような自涜行為にさえ思えてくる。ここに、誠の意味での心の安らぎはありえない。
『赤い花』に着想を得、そこからまったく異質な作品として生まれ変わったのが、映像作品『血肉の華』である。『赤い花』においては主人公の男はまだ、<美>の創造という営みに専念することができた。しかし、『血肉の華』では、みずからが創り出す<美>さえ、懐疑すべきものの対象へと堕してしまう。『赤い花』で見せたような“熱狂”はもはやここにはない。ついに美しい花が咲き誇ることもなく、ただ、女の血と肉とハラワタとが切り分けられる事実が、ビデオキャメラによって記録されるのみである。
『七色の毒蜘蛛』の話題に戻ろう。文芸作品のなかには、他人には見えざるものが見え、多分にしてそのことが当人に好ましからぬ影響を及ぼすということを描いたものがある。先の芥川の場合、最晩年の作『歯車』が挙げられる。作者である芥川龍之介自身を思わせる主人公の小説家は、「僕の視野を遮りだす」ものとして、徐々に数を増やしてゆく半透明の歯車を幻視するようになる。また、若かりし頃その芥川に心酔していた太宰治も『トカトントン』という小説を書いている。本作のなかで太宰は、感情の昂ぶりを覚えるような出来事に直面するとことごとく何処からともなく聞こえてくる「トカトントン」という音に、たちまち冷笑的な気持ちにさせられてしまう男のことを描いている。後者の場合、異常が視覚にではなく聴覚に訴えかけてくるものとして感受されるという違いこそあれ、どちらの場合も、みずからの五感と外部の世界とのスムーズな連携を拒む“ノイズ”としての性質は非常に似通っている。一方、『七色の毒蜘蛛』の場合はどうか。これまで本編を詳細に読み進めてきて、僕らは主人公である“私”が見出す「毒蜘蛛」に、ある一定の特性を認めることができる。
 まず、空襲によって瓦解する街や死にゆく人々、あるいはどぶ川の泥に塗れて母の亡骸を救い上げる父の背中の毒蜘蛛に、“私”は他のあらゆる感情にも増して、人知れず美しさを見出し、そこに見入る。<美>に見入ると言いながらも、この乾いた眼差しはどうだろう。ここに、対象への憧憬や慕情といった、ある種の熱や湿り気を帯びた感情を見出すことは不可能だ。三島由紀夫作『仮面の告白』の主人公は、子供の頃、町の若者衆に担がれる煌びやかな神輿の中心に、ぽっかりと空いた四尺平方の闇を見たと語っているが、まさにこれである。古都の仏教建築を前にして、壮麗さへの驚きとある種の呆気が、神仏に対する崇敬よりもまず先に僕らの心を惹くように、美を感受する“私”の眼差しは、潔よ過ぎるほど<美>にのみ純粋なのである。
 いずれにせよ大蜘蛛は、三島言うところの“義”よりもまず先に<美>を主人公に意識させるものとして彼の前にたち現れてくる。ただひとつ、これまでのところ“私”の眼差しが大蜘蛛を見出す場所は、他ならない父親の背中であったという必然は、『歯車』や『トカトントン』とは若干異なっている。それはつまり、“私”にとって父親というものが、<美>に拮抗すべき唯一にして最後の砦だからであろうか。以降、本編を読み解くにあたり、“私”が父親に見出し、託していたものに着目する。

 見開き8ページ。1コマ目には、復員列車に乗りきれず車両の上にまで溢れかえっている国民服の人たちが描かれている。2コマ目、多くの人たちに混じり、地下道で雑魚寝する父と“私”の姿を確認できる。戦後しばらくの間、ふたりは定まった住居もなく、父による日雇いの仕事でその日の糧をまかなっていた。同じような境遇の人たちも多かったようで、日雇いの仕事を待つ行列には、幼い子供をおぶった女性の姿も見受けられる。
顔じゅうに汗を滲ませ、スコップを手に肉体労働に従事する父。そんな父の姿を、“私”は膝を抱え、一日じゅうボンヤリと眺めている。
一方左ページは、右ページとは対照的に、夜の父の姿が描かれている。父は毎晩のように酒を飲んでは、街ゆく鬼(米兵)どもに喧嘩を売っていた。1コマ目、繁華街のネオン煌く路上にて。日本人の女を引き連れた白人兵ふたりに、父は背後からなにか声をかけている。その右手は握り拳を固め、言葉は通じずとも相手に敵意を伝えるのには充分である。幼い“私”は父の背後に半分身を隠し、垂れ下がった父の左手にその小さな指を絡ませている。喧嘩を売られた米兵たちは鋭い目で父を睨みつけている。その米兵に肩を抱かれている女は、男の厚い胸板に掌を添え、派手なマスカラと濃い口紅、厚化粧のためかよくその表情を読みとることはできない。怒りを露わにしている米兵よりもむしろ、表情を読みとることのできない分、却って得体の知れない不気味ささえ感じさせずにはいられない。
道行く米兵たちに喧嘩を売る父ではあったが、彼らの毛むくじゃらの熊のような拳骨に適うはずもない。4コマ目、口許に余裕の笑みさえ浮かべて立ち去る米兵たちの傍らで、返り討ちにされた父が地面に横たわっている。その眼鏡にはひびが入り、服は引き裂かれ背中が剥き出しになっている。米兵の脇に手を巻きつけた連れの女が、さも怪訝そうに眉を寄せ、父を一瞥している。
5コマ目。顔面を蒼白にし冷や汗をびっしょりかいた“私”の周囲、ネオンに照らされた通りには人だかりができ、勝つ見込みのない喧嘩を売って返り討ちにされた男の姿を遠巻きに見下ろしている。見物人たちの姿はみな一様に黒いシルエットとして描かれていて、各人の表情を読みとることはできない。ただ、そのうちのひとりは眼鏡が光を受けて反射しており、顔面に四角いレンズだけが浮かび上がっている。あまりにも湿度の伴わない乾いた眼差しである。
肉眼と、見るべき対象との間に異物(レンズ)が介在することによって、否が応にも対象への眼差しは客観性を帯びたものへとならざるを得なくなる。ここ5コマ目に描かれた眼鏡をかけた人物のシルエット。これは、方や顔面を蒼白にし、冷や汗を浮かべた“私”の、もうひとつの自己の投影であると解釈すると得心がいく。ここに描き出されたコマ絵たちが、語り手である“私”自身の記憶の具象であるとするならば、描かれたすべてのものは“私”による視線の照り返しである。本人が意識する・しないとに関わらず、“私”の視線に絡めとられなかったものは描かれることはなく、反対に絡めとられたものは、たとえそれが実証的にはそこにはなかったとしても、“見えるもの”として描かれる。
こう解釈すると、“私”の内面世界は二重に分裂していたことになる。喧嘩に敗れ横たわる父の姿を心配そうに見つめる“私”と、その数歩背後からそんな“私”自身をも眼鏡越しに乾いた眼差しで見つめているもうひとりの“私”。この第二の“私”の視線は、地面に横たわる父にではなく、冷や汗を滲ませ驚愕の表情を浮かべる“私”へと向けられているように解釈できる。論の冒頭にて、漫画家である“私”は常にみずからの描くものに意図的なのかもしれないと述べた。それはつまり、彼自身が不断にある別の誰かからの視線を意識せざるを得ない状況にあると言い換えてもよい。その視線は、例えば“死神”や“裁きの神”といった、超自然的な外部のものへと拠り所を求めることもできようが、自己を余すところなく観察し、吟味・断罪しうるのは自己をおいて他にはありえず、“もうひとりの自分”からのものと言うのが適当である。つまり、“私”の深層意識は、一方的に喧嘩を売りながらも米兵に手も足も出ず打ちのめされた父を、あまりにも冷静な眼差しで見下ろしていたことになる。5コマ目、人だかりの前で冷や汗を垂らし心配そうに父を覗き込むその表情は、あるいは、不器用ながらも親思いの子供を必死に演じようとする焦りがもたらしたものだったのかもしれない。
“私”は心のどこかで、もはやとり返しのつかない失態を今更ながら贖おうと足掻く父の姿を、至極当り前のものとして受け止めていたのである。とり返しのつかない失態とは、母が米兵たちに蹂躙された際、必死になって抵抗しなかったことである。それが証拠に、米兵に喧嘩を売って打ちのめされた父の姿は目も当てられぬほど痛ましいものであるが、一方母が襲われたとき、膝をつき地面に伏す父の姿には、打ちひしがれる様子こそあれ、肉体的な損傷はどこにも見当たらない。どうやらこのとき、父は身を挺してまで米兵たちに“喧嘩を売る”ことはしなかった(できなかった)ようである。みずからの身体に傷跡ひとつ付けることなく、父は“喧嘩”に敗れていたのだ。あるいはあの時、肉体的には適わないまでも、もっと必死になって米兵たちに殴りかかっていたなら、米兵たちの興をそぎ、母を救えていたかも知れぬ。今頃になって、一見無意味で勝てる見込みすらない喧嘩へと父を駆り立てるものは、あのとき戦わずして大切なものを明け渡してしまった自分と、死なせてしまった妻への贖罪であろうか。いずれにせよ、もう遅過ぎたのである。人垣のなかに紛れ込んだもうひとりの“私”は、けっして達成されることのない父の贖罪を、眼鏡のレンズ越しにじっと見つめている。
 父もまたこれとまったく同じ形の眼鏡をかけていることを忘れてはならない。けっして成就されることがないにも関わらず、それをやる以外他にどうしようもない贖罪行為へと急き立て、同時に監視・断罪しているのは、“もうひとりの父”自身である。白人兵の拳骨に眼鏡を割られ、地に横たわる父ではあるが、もうひとりの自分の、けっして割られることのない眼鏡越しの視線を不断に意識せざるを得ないというのは、殴られた傷の痛みとは比較にならぬほど癒し難い痛みであろう。日本人女性を引き連れた米兵に父が突っかかっていったのも、あのとき守りきれなかった母の姿を、彼女たちに投影したからだ。終戦当時、彼女たちがいかなる想いで占領軍の兵士たちと付き合っていたのかは一言ではけっして言い表せないだろう。しかしながら父は、あまりにも健気だと笑われようとも、彼女たちの姿に望まぬ境遇を強いられる日本女性の像を重ね合わせたのだ。だから、完膚なきまでに父を打ちのめした米兵に寄添い、倒れた父に怪訝な一瞥を投げかける女の姿に対し、言いようのない寂寥感を覚えるのかもしれない。彼女たちだって生きることに必死だったということは分かっていても、父の投影している亡き妻のものとはあまりにもかけ離れたその反応に、もはやすべてはとり返しのつかないものとなってしまった事実を改めて認識せざるを得なくなる。
 6コマ目。口と鼻の穴から血を垂らし、割れた眼鏡をかけたままうつ伏せに横たわる父。服の背中が大きく破れ、地肌が剥き出しになっている。まさにその上に、八本の足を起立させ、大蜘蛛が立っている。今にも動き出さんばかりである。街で米兵に殴られ、地面に伏しているとき、いつも父の背中ではこの大蜘蛛が不気味な踊りを踊っていたという。毒々しい街のネオンを受けてはいたが、蜘蛛それ自体の色については言及されていない。これまでの出現においては、その腹を父の背中に押付け伏していた大蜘蛛ではあるが、今回は細長い足を起立させ、はじめて躍動感ある形をとっている。血を吐いて倒れる父の背中はそれほど居心地が良いのだろうか。鋭い爪先を父の背中の肉に喰い込ませ、大蜘蛛は踊る。
 米兵の拳に打たれ無残に横たわる父に、“私”は日本そのものの姿を見出しているように見える。本作の冒頭にて、漫画家である“私”がその傍らから離さず常に目に入る場所に据え置いていたものこそ、一振りの長刀であった。生活の糧を得るための戦場ともいえる仕事場にて、据え置かれたこの刀は間違いなく、“私”にとっての精神的な支柱である。 
やや余談になるが、作者・日野日出志もまた、漫画家としてデビューを切って間もない頃、みずからの作品の世界観と方向性を自分自身に言い聞かせ確固たるものへと昇華させるため、いつも目の届く所に「怪奇」「叙情」という文字を書いて貼っていたという。その話しを耳にし、「言霊の世界というのは本来こういうものを言うんだろうな」と実感したのを記憶している。<怪奇と叙情>が日野日出志にとって常にみずからの方向性を指し示す羅針盤だったように、“私”にとって一振りの刀もまた、常に立ち戻るべき自己の原点とも呼べるものの具象だったに相違ない。
刀とはつまり、武士道である。みずからが信奉する大義のためならば、けっして死すらも厭わない、いや、二十四時間三百六十五日、そのためにいかに華々しく殉じるかということが唯一、問われていることであると言っても過言ではない。ならば、“私”がまず真っ先に刀の鞘を抜き、切りつけたものこそが、みずからの筆によって描かれた日の丸であったことを思い出すべきだ。“私”が尽忠を望み、そのために殉じたいと絶えず願っているものこそ、他ならない日本であった。一方、子供時代の“私”がもっとも視線を注いでいたものこそ、父の背中であった。この父の背中がやがて、刀へと受け継がれてゆく。米兵に打ちのめされた父の背中に、少年である“私”はダンスを踊る蜘蛛の姿を見る。本来これは、見えるはずのないもの、見えてはいけないものだ。打ちひしがれる父を踏み付け、茶化し、蹂躙するように踊る、大義に背く冒涜者の姿である。こんなものさえ見えなければ、少年である“私”はどれほど幸せだったか知れない。だが、悲しむべきことに彼の目にはしっかりと、踊る大蜘蛛の姿が見えている。紛うことなく、自分だけには見えてしまうのである。あるいはもうひとり、父にも同じものが見えていたのかもしれないと“私”が薄々予感していたことが読みとれる。ここに、父と“私”との間に、一種の共犯意識に伴う連帯感が成立していたと捉えても不思議はない。本来は厭うべき日本への不忠の眼差しが、父と“私”の間だけのタブーとして共有されることにより、却ってそこに屈折した価値を見出し得る。自分だけに見える秘め隠された恥部は、その醜さゆえにいっそう親しみが募るように、これが見えることがすなわち、すぐさま大義を放棄する根拠とはならない。

見開き9ページ。
1、2コマ目、コマ割を突き破り、“キーン”という文字が大きく強調されている。朝鮮戦争に動員され、日本にある基地から飛び立つ米軍の戦闘機の群れ。その群れがいななく音である。畳敷きの部屋のなか、開け放たれた窓際の柱に身を潜め、幼い“私”は恐恐といった面持ちで、空行く戦闘機を見上げている。皮肉なことに、お隣り朝鮮で始まった動乱のせいで日本の景気も上向きになり、“私”たちもようやく浮浪者のような生活から脱し、畳の上で暮らすことができるようになっていた。父が米軍の基地で働くようになったためだ。
戦時中の焼け野原がまるで嘘だったように、(おそらくは二階にあるであろう)開け放たれた窓から見える町の景色は一変している。ぎっしりと詰まった建物の間には“BAR”などと英語で書かれた派手な看板が並んでいる。少し前までは、あれほど非日常的な光景を垣間見せた米軍の飛行機が、ここにおいては“私”たちに日常の充足をもたらすものへと一変している。少年の表情に、B29の爆撃を見ていたときのような得体の知れない喜悦の表情は浮かんではこない。ただ、それよりももっと不可解な日本の変貌に、ぱっくりと丸い口を開け、不思議そうに見入るだけである。
左ページ、畳の上に一升瓶が転がっている。父が空けた酒瓶である。“私”たちの暮らし向きはだいぶ良くなったものの、父は以前にも増して酒を浴びるようになっていた。丸いちゃぶ台の脇であぐらをかき、“ぐびっ”とコップから酒を呷っている。着ているものは基地における作業着だろうか。自分から妻を奪った米兵たちからの分け前によって生計を立て、卑しくも人並みの暮らしを営んでいる自分がいる。父がますます酒を浴びるようになったのも、そんな不条理から目を背けるためだったのではないか。空っぽの一升瓶という、あまりにも無為なものに、汗水垂らして稼いだ金をつぎ込んでしまうその姿からは、せめて無為なものに金を浪費することによって、米軍からの恩恵を最小限に食い止めようとする、痛ましくも哀れな抵抗を感じとれる。
3コマ目。ますます酒を浴びるようになった父は、毎晩のように汚らしいゲロを吐いていた。大量のゲロが畳の上に吐き出されている。そんな父の様子を、横開きのガラス戸の脇から“私”が覗いている。“私”の半身はガラス戸の裏にあり、黒いシルエットになっている。4コマ目、滝のように吐き出されたゲロ。その中に、未消化の米つぶやスルメの足に混じって、「原色に色どられたピカピカと光る無数の子蜘蛛」を確認できる。蜘蛛はすでに、父の体内にまで巣くっているらしい。
父のゲロを目にした“私”もまた“うう”と口許を押さえ、次の瞬間、“げえっ”と嘔吐している。ピカピカと光る子蜘蛛は、今や米軍に宿った寄生虫のようになって日々の糧を得ている日本を揶揄しているのだろうか。米兵に打ち倒された父の背中で不気味に踊っていた大蜘蛛といい、この蜘蛛たちは主人公である“私”の日本への忠義を徹底して嘲り、茶化しているように見える。まるで、日本というものへの愛情の対義語が、<憎しみ>などではなく、<冷淡>や<失望>であることを告発しているようである。(同じ執着という意味においては、<憎しみ>もまた愛情と同類だからである)

見開き10ページ。
やがて父は、“私”に暴力さえ振るうようになる。投げつけられた茶碗がガラス戸に当たり、粉々に砕け散る。父の手によって“私”の衣類は脆くむしり取られ、“私”は一方的に嬲られることになる。しかし“私”は、父を憎いと思ったことはなかったという。4コマ目、大きく口を開け“私”を折檻する父の顔が大写しで描かれている。いわゆる“テンパった”顔、追い詰められ逆上した者の顔である。
ただ、我を失い逆上する父とは対照的に、“私”の語る独白の言葉はどこか達観していて、相変わらず冷めたものである。「私は、父があの蜘蛛のために頭がおかしくなっているのだと思っていた」「だから、私はむしろそんな父があわれだったのだ」。
6コマ目、丸裸にさせられた“私”が畳の上にうつ伏せで寝そべっている。その肢体には得体の知れない絞り縄が巻き付いており、ほつれたもみ上げを頬に張りつけた“私”は、なんの表情も浮かんでいない真ん丸い目で畳の一点をじっと凝視している。部屋には剥ぎ取られた衣類の他に、竹竿や革製のベルトが散らばっていて、父による折檻がインモラルなものであったことを想像させる。
父が“私”をここまで痛めつける理由の一端が、父に対する“私”の奇妙なまでの従順と許容、そして物言わぬこの眼差しにあったことは明らかだ。沈黙を帯びた許容の眼差しは、見られる者にとって、針で身を刺すような痛みにも等しい。母が米兵たちに襲われているとき、父は恐怖を感じていたのかもしれない。果たしてそれは、この災難がただ早く過ぎ去ってくれることをひたすら祈るだけの、打算に満ちたものであった。その事実を、他ならない父自身がけっして忘れてはいない。幼い“私”が父の背に毒蜘蛛の姿を見るように、父もまた息子である“私”の眼差しのなかに、ありうべからざるものを見ている。父が“私”に折檻を加えるのは、本来は自分自身が受けるべき制裁を受けられず、その空虚に耐えられないためだ。
左ページ。1コマ目、父の折檻を受け傷だらけの裸体を起き上がらせる“私”の後ろ姿が、コマ絵の手前に描かれている。そして“私”の視線の前方、コマ絵の奥には、背中を丸めて頭を掻き毟り、「いたい…いた…い」と呟く父の後ろ姿が見える。そして、そんな父のさらに前方、読者からはもっとも遠く隔ったコマ絵の最深部からは、閉ざされたガラス戸に反射する街のネオンの明かりが、真っ暗な室内に漏れ差し込んでいる。
“私”の目には、漏れ入ってくるネオンの明かりの下で苦痛に身を歪める父の姿が見えている。父と“私”を隔てる空間には古い桐箪笥が据え置かれ、その上に置かれた達磨の置物が、いかめしい目つきで“私”を見下ろしている。2コマ目、顔じゅうから汗を吹き出し、「背中がいたい」と父は言う。その顔は、街明かりの逆光により、眼鏡と髪の毛の一部、汗、歯を除いて黒く塗られている。痛みに耐えきれなくなった父は、呻き声と共に上着をびりびりに引裂く。
 4コマ目。ネオンの明かりだけが差し込む暗い部屋のなかで、“私”はまたしても父の背中に蜘蛛の姿を見る。恐るべきは、「父が憎いと思ったことはなかった」と言いながらも、相変わらずその父の背中に、父を嘲り踊る大蜘蛛の姿を見ている“私”の眼差しである。けっして抗いきれない贖罪に生きるしか道の残されていない父の、哀れな末路を、この眼差しは既に予見している。さらに言えばその不可避な末路を、父にとっては至極当然なものとして、あたかも阿弥陀籤の行方を見通すように透視している“私”の眼差しは、一方で「憎しみ」のもつある種の熱意すら感じることはできない。ただ、いかに大蜘蛛による“おちゃらかし”の的となっても、“私”が相変わらず大蜘蛛の姿を見留めるのが父の背中の上であったという事実がある。価値を貶めるにしても、その対象自体がある程度の高さをもっていないことにはそれも成り立たないからである。父の背中はまだ、特権的な意味合いを持ち続けているともいえる。
“私”は確かに父の背中に、日本という国がもつ矜持の残り火を託している。日本に殉じたいというこだわりと、空虚なまでの“シラケ”とが同居している。例えば現代日本におけるコメディアンの中でも特異な地位を確立しているビートたけしの場合、TVのバラエティで見かかるタレントとしての側面と、彼自身の撮る映画をはじめとするシリアスな役者の側面とのギャップに間々驚かされることがある(最近はそれにもだいぶ慣れてきたが)。世界的に有名な大監督・俳優へと成長したにも関わらず、相変わらずTVのバラエティ番組で滑稽な着ぐるみに身をやつし、周囲の笑いをとるその姿は、ビートたけしが身を置く本質が、シリアスにはなく、滑稽・茶化しにあることを伺わせる。(念のため断っておくが、シリアスな演技と比べ、バラエティやコメディの価値が低いと言っている訳ではない)。たけしは本質的に、あらゆるものを懐疑せずにはいられないのだろう。ゆえに、あらゆる深刻な話題を茶化さずにはいられないし、場の空気が単一のもので満たされはじめると、場合によっては批判を省みることなく際どい変化球を投げ入れては、事態の急変を楽しんだりもする。しかしそれを行うにはシリアスに敏感である必要があるし、そもそもシリアスの確固たる基盤をもっていなくてはならない。その意味において、彼にとってシリアスもバラエティも等価値なのである。ただ、唯一無二の信仰がもたらしてくれる恩恵に彼が浴することは、おそらくはこれから先もないであろう。けっして変わることのない確実なものを希求しながらも、不確実なものにのみ、リアリティを覚えてしまうたけしの姿に僕は等身大の親しみを覚える。だが、ありとあらゆるものを茶化し、特権的な高みから引き摺り下ろそうとするその姿に、時として悲痛なものをも感じてしまう。無感覚は時として痛みである。『仮面の告白』の主人公が神輿の奥に垣間見た四尺平方の闇。その漆黒を見つめたときの眩むような目の痛みを思い起こすべきだ。その痛みを紛らわすための終りなき営みが“茶化し”なのだとしたら、漫画家やコメディアンほど因果な商売はないだろう。
 4コマ目。ネオンの光を浴びて、七色に変化した大蜘蛛が、父の背中で毒のツメを立てている。それらのツメによって傷つけられた部分からは、血液の筋が川となって流れ落ちている。真っ暗な部屋のなか、身悶えしてうずくまる父と、ガラス戸から漏れ入ってくる無神経なネオンの対比が痛ましい。ひと思いに腹を掻っ捌くことすら、父には許されていないのだ。
 見開き11ページ。ある夏の夜、“私”は恐ろしい光景を目にする。障子一枚を隔て、父の寝る隣部屋へと目をやった“私”は、障子に映った影にただならぬものを感じる。暑さのためか全身ぐっしょりと汗ばんだ“私”は、そっと障子戸の隙間から隣部屋の様子を覗き見る。
 そこで“私”が目にしたのは、父と、父を弄ぶあの大蜘蛛の姿であった。父の背中から抜け出た大蜘蛛は、その細長い手足で、一糸まとわぬ父をまるでマリオネットのように操り、あの狂ったような踊りを躍らせていた。その蜘蛛の顔は写実的に描かれていて、一切の感情を読みとることはできない。障子戸の隙間から覗く“私”の顔半分が、真珠のような汗の玉で覆われている。大蜘蛛が“私”の視線に気づいたのか否かは分からない。そもそもこの大蜘蛛にとって、覗かれているという認識そのものさえあるのか疑わしい。そもそも「七色の毒蜘蛛」は、それを“私”の眼差しが見てしまうという前提の上に成り立っているのだから、“見られる”ことが当り前の存在なのである。この光景は、“私”によって見られるべくして見られたのだ。この点において“私”にもまた逃げ場はない。
 4コマ目。父の体じゅうにはべとべとの白い粘液が滴っている。暗い部屋のなか、張り巡らされた虹色に輝く美しい蜘蛛の巣。その巣の中心で、白い粘液に塗れた父の裸体は、まるで蜘蛛に捕らえられた獲物のように異様な輝きを放っている。

 見開き12ページ。独白の言葉はこう告げる。「そして、あの出来事は」「父の死の直前のことだった」。
 障子越しに父のうめき声を聞いた“私”は、また障子戸を右目の分だけずらし、父の寝室の様子を覗き見る。「父は、その夜、苦しそうにうめきながら ふとんの中で のたうちまわっていた…」。
 4コマ目。布団を頭から被ってのたうち回る父が手前に描かれている。それをコマの奥からじっと覗き見る“私”の右目だけが、わずかに開いた障子戸の隙間に描かれている。“私”の全身は黒いシルエットとして塗り潰されている。「死」の直前まで、“私”にとって父は<見る>対象であったことが改めて印象付けられる。見方によっては、“私”の視線を受けて父はもだえ苦しんでいるようにも見える。必死になって布団を掴んでいる腕や、剥き出しの太ももには滲むような玉の汗が光っている。
 左ページ1コマ目。ふたたび、“私”の視点から見た父の寝室の様子が描かれている。畳の上に転がった枕。壁際のガラス戸には、相変わらず七色のネオンの光が漏れ入っていて、真っ暗な部屋の一部を照らし出している。
 ネオンの明かりがぼんやりと浮かび上がらせているのは、巨大な芋虫のように布団に包まった父の姿であった。その様は、大蜘蛛に弄ばれ全身を糸でぐるぐる巻きにされた贄のようである。
 そしてここで注目すべきは、「七色」という言葉の所在がはっきりと「ネオン」と明示されていることにある。『七色の毒蜘蛛』という表題から、得体の知れない毒蜘蛛自身の、その毒々しい皮膜のものとばかり思えた色が、繁華街のネオンの灯を受けた、いわば外界からの照り返しの表れであったことが確認できる。真っ黒いベタ塗りの畳敷きの寝室で寝る父に、「七色」の毒蜘蛛はあまりにも相容れないものである。
 そして、闇に浮かび上がった父の背中が視界に入った刹那、息をのむ“私”。父の背中に巣喰ったあの大蜘蛛が、「赤や黄色や緑や金色や それこそ七色に輝く」無数の子蜘蛛を産んでいたのだ。親蜘蛛は大きな尻から、みずからと同じ形をした幾匹もの子どもを産み出している。汗まみれの上半身を布団の上で起こした父は、苦しみのうめき声をあげる。産み落とされた子蜘蛛たちは、やがて虹色をした行列をつくり、音を立てることもなく深い闇の中へと消えていった。

 見開き13ページ。
 今までの薄暗い室内から一変して、昼の野外のシーンである。ある冬の早朝、雪の降りしきる町外れ。そこに“私”はひとり傘をさし、佇んでいる。あたりに人影は見当たらない。正確には、生きている人の人影は、である。なぜなら、ごく平生の様子で佇む“私”の足元には、肥溜めに顔を突っ込んで死んでいる、全裸の父が横たわっているから。“私”の後方には、英字によって綴られた、米兵向けのおしゃれなバーが建ち並んでいる。それら建物の上空を、三機の戦闘機のシルエットが飛行している。
 父は死んだ。肥溜めに顔面と右手を突っ込んで横たわる父は、降りしきる雪にいまにも埋もれそうである。事実、“私”がこのままなにもしなければ、父の白い体は雪に塗れ、誰にも省みられることなく忘れ去られるに違いない。
 そして父の背中からは、あの大蜘蛛の姿も消えている。のっぺりした白い背中には、蜘蛛がいたという痕跡はおろか、あの火傷の引き攣れの痕も見受けられない。そんなものは初めからなにもなかったといわれてしまえばもうそれまでの、あまりにもなにもない背中である。
 その死について、“私”はこう回述している。「その時、私はなんの感動もおぼえなかった」「私の心は、ただ」「降りしきる雪のように 冷たく、白く、どこまでも空虚だった」。
 あばら骨の浮かんだあまりにも厚みのない父の亡骸を見おろす“私”の顔に、表情はない。寝室における、父と蜘蛛の営みを覗き見たときに浮かんでいたような脂汗もない。父の死は、すでに予見されていたのである。いや、予見していたというよりは、“私”は父の背中に大蜘蛛を見たときから、父がこのような形で死んでゆくのを希求していたのである。
 終戦を迎え、時代が変わり、それと共に社会を司る倫理もまた急変した。“私”の眼差しは父に、その変化への柔軟な転身を望んでいたのであろうか。答えは言うまでもない。“私”は父に、非力ながらも変化せざるなにかを求めていたのである。その要求は、あまりにも残酷なものであった。なぜならそれは、みずからの妻を死に至らしめた米兵たちと、それに対し抗うことさえしなかった自分自身を、けっして忘れないことだからである。そしてそれを父は全うした。ただそれだけが、“私”が父に望んだことだったのである。
「時代の流れへの通せんぼ」とある人が言った。放っておけばただ流れゆくのみの時代に対し、ささやかな「通せんぼ」となることを“私”が父に託したその瞬間から、父の破滅は決定付けられていた。それを全うすること。唯一それだけが、あのとき米兵と討ち死にすることを避け、生き延びることを選んだ父に残されたたったひとつの生き方であった。それを放棄し、安易に自殺することなど許されはしない。割腹することさえ禁じられた日本男児の“大義”を全うするためには、ただひたすら苦しみ抜き、生きるしかないのである。そして今日、父は肥溜めに顔をつけ、死んだ。切腹からは程遠い、名誉なき死である。徹底的に貶められ、侮辱された結末。この絵において、冒涜者であるあの毒蜘蛛の姿はもはや必要ない。役割を終えた大蜘蛛は姿を消す。

 日野日出志の漫画を読んでいると、漫画のもつ親和性にずいぶん救われているなという感じを受けることがしばしばある。深刻な題材を、日野特有の丸っこい絵のディフォルメであったり、誇張された擬音、ときに荒唐無稽なストーリーテリングが緩和し、娯楽としての体裁を整えている。代表作『蔵六の奇病』もそうだが、シリアスな場面でもよく見ると場違いなキャラクターが紛れ込んでいたりして、「これはしょせん漫画なんだから…」という自嘲というか冷めた客観性を意識させることがある。
 ただ、このことが必ずしもマイナスにはならない。むしろ、客観性をもち出してきてはぐらかすことによって、却って事実は深刻であり、真相の全容を容易には窺い知ることのできない不気味さを醸し出している。例えば、いわゆる“怖い話”などで、「これは本当の話だよ」と言われるより、「あくまでウワサなんだけど…」と耳打ちされた方がよっぽどリアリティを感じると言えば分かり易いだろうか。(映像作品『血肉の華』はまさにこの方法を用いている)
 日野日出志の漫画には、読者がのめり込めばのめり込むほど、「バカだな。これはただの漫画なんだから」と突き放す、乾いた眼差しがある。恐怖漫画でありながら、一歩見方を変えれば滑稽なものにすら見えてくる。執着と無関心とが同居している感覚は、日野作品に触れた当初からあった。『血肉の華』の場合、後者がより顕著に感じられたことを記憶している。例えば『血肉の華』に登場する、あの鉄兜を被った殺人者の男の姿はどうだろう。海外では“キラーサムライ”と呼ばれているあの姿のどこに、シリアスな<美>の探求者の像を重ね合わせればよいのか。また本作が、日野日出志の自宅に送り付けられた正真証明の実録殺人ビデオの忠実な再現物であるという断りも、「あれは本当ですか?」と探りを入れた途端、「あれはあくまでビデオだから…」と返されてしまっては、もやもやしたものがただこちらに残されるだけである。
 日野日出志については、これまではその“執着”の部分にばかり注目がいっていたように感じる。確かに『蔵六の奇病』において、日野は『今昔物語』や『怪談』に通じる日本美の語り手としての地位を築いた。『七色の毒蜘蛛』の主人公である“私”もまた、一振りの長刀を傍らに携えていた。しかしながら、また同時に、日本というものに絶えずあの乾いた眼差しを向けている。“死狂い”へと至る大義をもちたいと望みながらも、その候補となるべき日本というものが、日野日出志の作品においては唯一絶対ではない。
『ギニーピッグ2血肉の華』のビデオに初めて触れたとき、そのあまりにも日本人離れした着想に驚いたことを覚えている。文字通り、無抵抗の女をギニーピッグ(モルモット、実験動物)のように扱い、あまつさえそれをビデオに撮って流すという価値観は衝撃で、戸惑いすら覚えた。これと比較的近い感覚をもたらされたものといえば、子供のころに児童向けの悪魔図鑑で見た、ルネサンス期の聖者を街頭で誘惑する悪魔の絵(『聖アゴスティーノ(アウグスティヌス)と悪魔』Michael Pacher)に描かれた悪魔の造形(剥き出しになった尻に人の顔が張り付いている!)や、こちらは成人後に読んだものであるが、漫画『ベルセルク』(三浦建太郎)に登場する、狂ったデッサンの人面を有する奇怪な卵べヘリットのことを連鎖的にイメージする。これらのいずれも、本来あるべき人間の顔の配置を暴力的なまでに崩したデザインであり、神が意図したとされる規範的な人体像への冒涜すら思わせる。この系譜の源流を辿れば、人間と野獣とをひとつの檻に収監しその戦う様を見世物にしたという古代ギリシャの剣闘や、今なお『指輪物語』などからそのイメージを再生産される、人と動物の交配の結果産み落とされたとされる獣人の伝説などの、人間を徹底して単なる物として扱いたいという、殊にヨーロッパ圏における強い願望に突き当たる。(日本においても確かに、人と獣とが交わった結果、混血種の子どもが生まれる民話は残されているが、不思議とそれらに、西欧のように獣との異種交配を執拗にタブー視し忌諱する点は見受けられない。ちなみに「ベルセルク」とは、北欧の神話・伝承に登場する手のつけられない狂戦士のことを指し、戦闘においては獣の憑依を受けて忘我状態となり鬼神のような力を振るったという。また、このベルセルクと並び「ウルフヘジン」と呼ばれた戦士たちは、獣のなかでも特に狼の力を得て狼そのものになりきって戦ったという。これらは後に、東欧を起源とする狼男伝説に強い影響を与えたとされる)
 つまり、少なくともオリジナルビデオ『血肉の華』において日野日出志は、西洋的な価値観を誰よりも早く邦画のビデオ作品において先駆的に採り入れ、従来のいわゆる伝統的な“怪談映画”や、海外輸入のホラー、スプラッターなどとも異なるものを仕掛け、世に送り出したのである。日野日出志は明らかに、いわゆる日本的な価値に準ずる以外の価値観に敏感である。いまや日野の世界的な代表作である『ギニーピッグ2血肉の華』が、日本国内よりも海外、とくに欧米でカルト映画のアイコンとして祭り上げられ、コンスタントにマニアに熱狂的に支持されてきた原因はここにあるのかもしれない。一方、日本国内においては、件の「連続幼女殺人事件」に関わった作品として未だにタブー視されていて、それ以上の言及がなされることもなく、また視聴することすら容易ではない。作者の日野自身、みずからの漫画作品の本質が、いわゆる“日本的な美”の礼賛にのみ留まるものではないことを公言する一方で、『血肉の華』についてはあまり多くを語ろうとはしない。しかし、近年インターネット上の情報を確かめると、国内にもまた、十代という多感な時期に『ギニーピッグ』シリーズ、ことに『血肉の華』と巡り会い、それを見てしまったがゆえに、否定できない影響を受けてしまった者たちが少なからず存在する事実を窺うことができる。僕自身を含め、彼らは発言の機会を失っていた「ギニーピッグ・チルドレン」と言える。

 見開き14ページ。
 日の丸を一刀のもとに切り捨てる現在の“私”。見開き3ページ目から続いてきた回想はここで打ち切られる。そして、場面は再び現代へと移り、見開き2ページ目からの続きが描かれる。刀を握る“私”の表情は、これまでになく険しい。眉間に皺を寄せ、まるで歌舞伎の隈取りのように、顔じゅうに神経の筋を走らせている。横に真っ二つにされた日の丸が、真っ黒な闇を背に描かれている。
 4コマ目。家を出て路傍を歩く“私”の独白を引用する。「あれから、ずいぶんと時が流れ、私もおとなになった。しかし、時がたち、私が成長するにつれて、あの蜘蛛の思い出は、ますます…」
 地面に長い影を落とし、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま“私”は歩く。首には襟巻きが巻きつけてあり、下駄履きである。痩せた犬とすれ違った以外、通りに人影はなく、寒々しい感じを与える。
子供の時分に、今となっては信じられないような不思議なものを見たという経験は僕にも心当たりがある。現在が単調で平凡であればあるほど、こういった記憶は忘れ難いものとなって、自分史のなかに君臨するものだ。幸いなことにあれ以来、“私”が大蜘蛛の姿を目にすることはなかった。漫画を描いていて時折襲ってくる鋭い背中の痛みは、父の背中に巣喰って爪を立てていたあの大蜘蛛の記憶を“私”に呼び覚まさずにはいられない。ただそれも、「すわりっぱなしの仕事なので、疲れるのかもしれないが」と弁明しているように、あの蜘蛛にではなく、慢性的な疲労に原因を託している。
不可思議な蜘蛛を目にしたという記憶はけっして薄れゆくものではない。だが、それも時の経過と共に、日常の倦怠を刺激するスパイスとして、ある種の非現実感を伴い対象化されうるのである。現に“私”は<怪奇>を題材にする漫画家なのであり、「七色の毒蜘蛛」の記憶は、誰にも明かすことのできない過去の遺産であるがゆえに、“私”自身を魅了してやまないものへと昇華されているように見受けられる。
確か、90年代の初頭、僕が十二歳の頃、近所にあった場末のレンタルビデオ屋にて、はじめて『ギニーピッグ』シリーズのビデオを発見した時のことは今でも覚えている。当時はレンタルビデオ屋といっても今のように大型のチェーン店ではなく、細々とした個人経営のものが多く、品揃えも店舗によってだいぶ傾向が異なっていた。だから、掘り出し物を探して古書店の書棚を物色するような期待感が多分にあった。僕がビデオ屋通いに楽しみを見出すようになったのも、機械に詳しく、ビデオ好きだった父に連れられて行ったのが始まりだった。あの時『ギニーピッグ』シリーズは、まさに思いがけずそこに紛れ込んでいたイレギュラーなもの、本来は出回ってはいけない海賊版のような佇まいで、陳列棚の隅に並べられてあった。一見普通のビデオ屋でありながら、そのビデオテープの存在に気づき関心を払った者のみが共有し、観賞を許されるというような秘密クラブめいた臭いを嗅ぎとったのかもしれない。当然、十八歳未満貸し出し禁止だったため、僕はそれを一緒にいた父に手渡し、なんとか借りることに成功した。
『ギニーピッグ』のビデオを借り、観賞したことで、その内容自体の実験性と相俟って、僕の自意識は刺激された。この作品を見たことのある者は、学校全体を見渡してみても僕しかいないだろうという自負が、僕を舞い上がらせ、また同時に孤独に貶めた。友人たちにそれとなく自慢し、存在を仄めかしてみたところで、「ホラー映画は面白いよね」というお決まりの台詞によって話しを打ち切られてしまうだけだった。『ギニーピッグ』を僕はホラー映画だなんて思ったことは一度もなかった。そんな言葉で一括りになんかしてほしくはなかったし、いわゆるホラー映画と呼ばれるものは往々にして予定調和でむしろ嫌いだった。作り物だと初めから分かっているものに時間を割いて怖がれるほど僕は大人ではなかったし、『ギニーピッグ』と出会ったことで、その傾向に拍車が掛かった。『ギニーピッグ』が自分史における最重要の作品でありながら、これがいわゆる一般的な映像史に残されるエポックメーキングな作品ではなく、あまり流通に乗らないマイナーなビデオ作品であり、また「宮崎勤事件」に関係したということでそれ以上の追求がなされていないといった理由などから、僕は次第に、僕のなかにあった『ギニーピッグ』への感情を吐露することを躊躇い、ただ発酵させていった。ただ、これが海外、とくに欧米圏のビデオマニアの間では熱狂的に支持され、忌憚なく闊達な議論が繰り広げられていたことを知るに至っては、みずからの中に純粋ならざる躊躇いがあったことを思い知らされた。
『七色の毒蜘蛛』の主人公である“私”も、その内部で「毒蜘蛛」にまつわるやり場のない想いを募らせている。発酵するこの感情は、創作行為によってある程度は発散されているとはいえ、いずれは大きな爆発を免れ得ないだろう。なぜなら、“私”は私小説家のようにみずからの過去を追憶し、創作の糧とする。この行為は、発酵する過去のガス抜きであると同時に、忘れ去るべき過去にふたたび生命を吹き込み、繰り返しその瞬間に立ち会うことにも等しい。リピート再生される過去は次第に鮮明となり、ふたたび“私”の内奥に澱を残す。
 左ページ1コマ目。
 どうやら“私”は近所の銭湯に向かっているようだ。眼前に聳え立つ煙突の天辺から立ち昇る黒い煙が、白い空に徐々に溶け込んでいる。独白は叙述する。(あの蜘蛛の思い出は)「私の頭の中で、ふくらんで、いっそう鮮明に」「私に襲いかかってきているのだ…」。
 脱衣所の籠に服を脱ぎ入れ、体重計に乗る。浮き出たあばらとこけた頬が、体重計の針が指し示す数字をおおよそ予感させる。「おれももっといいもの食わなあかんな」「怪奇まんがは体力消もうするからなあ」。溜息をつき、共同浴場へと続くガラス戸を引き開ける。次の瞬間、「げっ」と叫び声をあげ、手に持っていた石鹸をケースごと落としてしまう。

見開き15ページ。
 男風呂の内部が描かれている。四人の男客たちが、肩を並べてカランの前に腰を下ろしている。なんと、彼らの背中すべてに、あの大蜘蛛の姿が浮かび上がっている。彼らの真後ろを、落とした石鹸が滑りぬけ、やがて突き当たりのタイルにぶつかり砕け散る。この蜘蛛たちはおそらく、あの夜、父の背中の上で産み落とされた子蜘蛛たちの、成長した姿であろうか。
 左ページ。驚きのあまり歪んだ“私”の顔。思わずよろけた“私”は、脱衣所で服を脱いでいた男のひとりとぶつかる。その背中にもまた、あの毒蜘蛛がいた。思わず、驚きの声が口を伝う。そんな“私”を、脱衣所にいた裸の男たちが一斉に振り返る。怪訝そうな顔。そして彼らの背中にもやはり、毒蜘蛛の姿があった。「ああ…これはいったい…」。頭を抱え、壁際まで後ずさる。その壁は大きな鏡張りになっていた。

 見開き16ページ。
 最後のページである。本編は、右ページまでで終わっている。大きな姿見に気づいた私は、後ろを振り返る。そしてそこに、みずからの背中の上にもまた巣喰う、大蜘蛛の姿を見る。最終コマ、カメラ目線の“私”が直接、読者に語りかけている。彼はみずからの背中を指差し、こう懇願する。「そしてそれ以来 ほらこれを見てください! こいつが この七色の毒蜘蛛が」「私のやせこけた背中に、毒の爪を立てて 毎日毎日私を いじめているのです…」。彼の左手には手鏡が握られており、読者自身へと向けられている。まるで、僕ら読者の背中の上にもまた注意を促すように。
 父の背中の上にのみ見留められた大蜘蛛の姿は、こうして至るところに顕在するようになった。少なくとも、これまでは敢えて見まいとしていたものが、もはや日本全体に露見し、蔓延していた。白昼の下、ただ流されるまま、掌を返したように、日本への大義はなんの躊躇なく踏みにじられる時代の到来である。
 日野日出志が、他ならない作者・監督でありながら、『血肉の華』についてあまり多くを語りたがらない理由。その一因に、この作品がなにより雄弁に“大義”というものをもち得ない日野自身を彷彿とさせることが関係しているのではないか。「俺は日本人でありたい」。「しかし、本当のところお前自身はその言葉すら信じていないんじゃないの?」という内なる声。
刀や鉄兜といった<美>としての日本に心惹かれる一方で、どうしても日本を無条件に愛しきることのできない無感覚が、もっとも顕著に顕れ出たのがこの作品だったのではないか。図らずも、あれを見てしまった僕にとって、たとえ作者の沈黙であってもこの作品をスルーする理由にはならない。作者の意図すら超え、僕ら日本人の知らないところで、まるで自我に目覚めた怪物のように作品は成長を遂げた。国を超え、時間を超え、作品というより“事件”とでも呼ぶに相応しいセンセーションをもって迎えられた。今度は自分の嗅覚を信じたく思う。

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