〜生贄論12〜「現爆パイロット③」

この世界は、正しき者が報われ、悪しき者は罰せられる世界であれ、という、渇望の叫びから抜け出すことは、この時もう既に、彼にとっては不可能だったのかも知れません。
イーザリーが、「無欲な平和主義者だった」と言うことは難しいでしょう。確かに、彼はアメリカの兵士でした。「平和」や「正義」あるいは軍人としての「野心」と、ヒューマニズムや「他者」という存在とを比較した場合。良し悪しはさて置き、当初のイーザリーはおそらく、前者を選び取る人間だったと僕は感じます。芥川龍之介の『地獄変』という作品に、燃え盛る炎に包まれた娘を前に、絵師の父親が、その死に際の美しさに魅入り、黙々と写生を続けたという描写があります。兵器開発に従事する科学者が、ひたすらその探究心に乗じて、いかに「効率よく」人間を殺せるかを探究する様に、自覚の有無に関わらず、イーザリーの原罪は正にそこにあります。いわば「美」を選び、「他者」を踏みしだいたのです。
その結果、イーザリーは遠からず、間違いなく「他者」との断絶に直面します。それは、他者がイーザリーを非人間的とみなして敬遠し遠ざかっていくということ以上に、イーザリー自身が、他者を受け入れることが難しくなっている現状を指します。更なる悲劇は、彼自身が長い習慣の末に、もはや疑う心抜きで他者を信じることができなくなってしまってしまっているということです。
若かりし頃のイーザリーは、軍人になることで、一体何を守ろうとしたのでしょうか?それは果たして、イーザリーという人間個人で完結し得る願望だったのでしょうか?
僕はそうは思いません。少なくとも、自らの手で守った平和を、あるいは誰かと分かち合いたかったのではないでしょうか。他者への慕情という価値観を、「軍人」や「平和」の更に向こう側に求めていたと感じるのは、僕の甘ったれた感傷に過ぎないのでしょうか。
必然として、神の沈黙(他者との断絶)の前に引き出されたイーザリーが、ただ立ち尽くすしかなかった事実は、前に見た通りです。「他者」と共有し得ない平和に、一体どれだけの価値があるのでしょう?イーザリーは岐路に立たされます。再び、彼自身が自分を赦し、他者との繋がりを取り戻すためには、一体どうすればよいのでしょう?それはやはり、「原爆パイロット」という、彼の業であり、原罪を見つめ直す意外に方法はありません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?