〜生贄論⑨〜「ヨブ記の系譜」

もはや、奇跡を期待することはできません。つまり、沈黙のまま他者からの返答がなくても、「それでも信じ続けることができるか?」という命題を直視するべきです。
いかなる理由かは分かりませんが、神はもはや、この地上において「奇跡」を引き起こすことを止めてしまった様に見えます。だからこそ、神の沈黙を前にした時の在り方にこそ、僕らに選択の余地が残されているのです。

神の沈黙。信じたものとの断絶。そして、その地獄から、人はいかに復活できたか?
本論が目を凝らすのはまさにそこです。この過程を描いた最大の文学として、まず『ヨブ記』を挙げました。そして、この『ヨブ記』の血脈を引き継いた人類の足跡として、書かれた形式も洋の東西も著者の民族も異なりますが、次の三つが静かに共鳴します。
すなわち、イーザリー『ヒロシマ・わが罪と罰』(1968年)、クシュナー『なぜ私だけが不幸になるのか』(1981年)、そして遠藤周作『深い河』(1996年)の三つです。「現代のヨブ記」とでも名付け得るこれらは、自覚的にせよ無自覚にせよ、ヨブ記を下敷きにしながらも、主人公たちの辿る運命に、共通点と相違点があります。

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