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〜生贄論13〜「原爆パイロット④」

イーザリーが、神の沈黙という究極のリアリズムに直面した、「20世紀のヨブ」であるのなら。果たして彼は、その実人生において、いかに「復活」を実践し得たのでしょう?イーザリーは喉頭癌により、1978年に59歳でその生涯を終えます。あるいは、晩年、軽犯罪と精神病医への入退院を繰り返したその最期から、結局は救いを見出せなかった生涯と見なす向きもあるかも知れません。しかし、どの様な結末を迎えたにせよ、彼がいかなるものに救いを見い出そうと足掻いたのか、僕らは注視する必要があります。
先に見た通り、『ヨブ記』の終盤においてヨブは、姿を現した神の前にただ平伏すしかありませんでした。僕は当初この箇所から、神の威光と信仰を促すプロパガンダを感じ、蛇足にすら感じていました。しかし、この結末の多義性を好意的に解釈するなら。ヨブは神の不条理な采配をあえて「受け入れる」ことで、自身の心の平静を取り戻したと解釈することで腑に落ちます。犯してしまった罪と、招いてしまった状況をあるがまま受け入れることで、ヨブは再生の端緒を掴みます。
イーザリーの場合も同様です。イーザリーは、「原爆パイロット」である自らを受け入れ、その先に贖罪の途を模索したと考えられます。たとえばそれは、イーザリーに書簡を送った哲学者アンデルスの「アイヒマンと君(イーザリー)」「この二人は、今日という時代における、二つの両極をしめす実例」であるという言葉に象徴されています。そしてアンデルスは「もしも君(イーザリー)という人間が存在してくれなかったら、われわれは、今日のアイヒマン的時代に生きて、絶望を感ずるより他はない」と綴ります。
(※アイヒマン=ナチスドイツにおける、ユダヤ人移送局長官。連合軍に逮捕された後、「自分は巨大な機構の中の"一本の小さなネジ"に過ぎなかった」「ヒトラーへの忠誠を誠実に実行したに過ぎなかった」と、良心にかけて証言したとされる。)

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