〜生贄論⑤〜「ヨブ記」

ここでまた、「原罪」という言葉が脳裏に浮かびます。チョーラカの鞭打ち、傷痍軍人のアコーディオン、蛇女の蛇喰い…全て、「芸能」と呼ばれるものの原点は、等しくこの「原罪」に対する贖いなのではないでしょうか?傷ついたり、不具者として産まれついた者に対する、借りの意識。これこそが、キリスト教者ではない僕が肉体感覚で腑に落ちる「原罪」と呼び得るものと感じます。そして、その芸に対して喜捨することこそが、自身の「原罪」に対する贖いと感じるのです。
自らが、かつての「生贄」の儀式の所作を模倣し、肉体が傷つく姿を見せること。そしてそのことによって、他者の原罪意識を呼び覚まし、対価を得、口を糊すること。これこそが「見世物」、ひいては芸能というものの「ネガフィルム」だったのではないか?そんな予感が僕にはあります。

今こそ、旧約聖書の中の「ヨブ記」に、改めて目を凝らす必要があります。なぜなら「ヨブ記」こそ、慕情する他者(=神)との決定的な「断絶」と、そこからの「復活」が描かれた文学だからです。いわば、人類史上最大の「片想い」の文学に他なりません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?