見出し画像

〜生贄論14〜「原爆パイロット⑤」

イーザリーにとっての、実人生における『ヨブ記』の実践がいかなるものであったのかを問う前に、今一度、ヨブ記の結末に目を凝らしましょう。そこに描かれていたのは、唐突ではあるものの、神の降臨と、ヨブの救いでした。この結末を指し、ユング は著者『ヨブへの答え』の中で、"ヨブ"こそが、旧約聖書と新約聖書とを繋ぐキーパーソンであったと述べます。一般的に、旧約の神は「人間を罰する神」、「父性的な不条理の神」という性質が濃く、一方新約の神によって遣わされた神の子イエスは、「母性的」「赦す者」であると言われます。同一の神の顕現であるにも関わらず、なぜこの様な変容が起きたのかという問い。
この問いにユングは、「ヨブが神の善性を上回った」ことにより、「神は人間の水準まで追い着くことを志向した」のだと言います。『ヨブ記』の結末においてヨブは、自らに対して理不尽な試練を与え続ける神の暗黒面を強烈に意識します。それは、神自身ですら気付いていないものでした。そして最終的にヨブは、神を"赦す"という選択をします。無意識を意識化するという行為において、ヨブは神に対し、「神自身が欠けているものを自覚するに至らしめた」と、ユングは神を精神分析します。その結果、ヨブに追い着く必要が生じた神は、ヨブの姿を下敷きに、やがて人の子イエスとして地上に受肉します。神に"全能"を志向する性質がある以上、この不均衡に目を瞑ることは困難でしょう。ちなみにかの『ヨブへの答え』を発表した当時、ユングはキリスト教会から非難を浴びたと言われています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?