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【総集編】やさしさを育むために必要な「4つのちから」

こちらの総集編は、2023年の11月頃にアップしていた本体記事です。
まとめてじっくり読みたいかたにオススメです。

※シリーズ編は、当記事を分割するために少々内容が増えたり編集されたりしているので、より深みが増した実感があります。マガジンにて第1回~9回までを一覧できますので、よろしければ覗いてみてくださいね。




このカテゴリでは「こころをもっと身近なものに」というコンセプトで、日常生活で活かせる物の見方や考え方を発信していきます。

こころの印象を「見えないものだから難しい」から「見ようとすれば見れるもの」にミラクルチェンジさせるため、なるべくわかりやすくお伝えすることが目標です。

また、「社会課題とどのように向き合うか?」という視点で、一人ひとりにできることを考え、提案しています。今回のテーマである「やさしさを育むために」という中心軸にそって、あらゆるシーンで起こり得ることを執筆していきます。よろしければ、ホームページもご覧ください。

わかり合うことが難しく感じる人と関係性を築くには、失敗したり傷つけあってしまうヒトの不完全さを適切に受けとめて理解したり、誤解を招いてしまった時にフォローできる「建設的なコミュニケーション」がカギを握ると考えています。
そしてこれが、人の安全基地をつくるために必要であることをお話しています。

各々の対人関係やコミュニティーにおいて、積極的に他者を理解しようとする人が増えるほど、安心して生きられる人が増えると考えています。
はじめに、こちらをご覧ください。

はやい話が、「やさしさが人の心を助け、癒し、安心感をつくる」と考えていて、そのために必要なことを一人ひとりが実践していくことが大切だと思っています。

具体的には「忍耐力・想像力・洞察力・包容力」を身につけることで、自ずとやさしさが育まれていくと考えています。今回は、この4つのちからについて、ホームページでお伝えしきれなかった部分を深掘りしていきたいと思います。


人の心を助ける「やさしさ」とは?

ひとことで「やさしさ」と言っても、様々な捉え方があると思います。
上記の、「はじめにお伝えしたいこと」の執筆の意図でもお伝えしたとおり、思想や考えは各々の世界観に基づいていて、さらにそれをどの角度から見ているか?によって正しさは変わります。だから、すべての人にとっての正解を語るのは不可能であると考えています。
ですが、ひとつの軸をつくって、自分なりの正解を語ることは可能です。

「やさしさとは?」という漠然としたテーマではありますが、そのような視点でこの先をお読みください。

結論から先にお伝えすると、私なりのやさしさとは「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」であると考えています。

「自己犠牲」という言葉に対して、抵抗感を示すかたは少なくないと思っています。
特に現代では、人様に献身的に尽くすよりも、まずは自分自身を大切にすることを勧めるかたが多くいる印象です。

「自分に優しくできたぶんだけ、他者に優しくなれる」

おそらくこういった理由で、まずは自分を…というお話になり、それが定着してきたのではないかと思います。自分に余裕があるからこそ他者にも気持ちをかけることができるというのは、確かにその通りだと感じます。

ここだけを見ると、特に問題は起こらないように思います。
それなのに、私があえて「建設的で意図的な自己犠牲」の必要性を訴えているのは、次のような理由があります。

自分に優しくすることと他者を思いやること、これらが同席していることが「やさしさ」の本質であると考えています。しかし最近、あちこちで見聞きする情報によって、あることを心配しているのです。

「自分に優しくすることの意味が、自分のこと『だけ』を考えていればいいという解釈に変わってきていないだろうか」

具体的には、次ような情報が飛び込んでくる機会が増えた気がします。
(統計を取るなどはしておらず、あくまでも話の大枠を説明するための感覚的な解釈に過ぎませんので、不確かなものが苦手なかたはご容赦ください)

・人の気持ちなんて考えてもわからないのだから、自分がどうしたいかだけでいい
・面倒な人や困った人のことなんて放っておけばいいし、離れるべき
・思ったことを言えないのは良くない、自己主張できるほうが素晴らしい

こういったものにふれると、心がザワザワするのです。

繰り返しになりますが、思想や考えは人それぞれに正解が違うため、他者の信じているものを否定する意図はありません。
ただ、あくまでも私の感覚として、次のように感じるのです。

・人の気持ちなんてわからないからと、わかるための努力をしなければ、一体どうやって他者と関係性を築いていくのだろう
・面倒な人や困った人だからこそ、ケアやサポートが必要ではないだろうか
・ストレートに想いを伝えるのも時に大切だけれど、他者を慮って「言わない」を選ぶのも立派な自己主張ではないだろうか

そしてこれらのことは、当然、自分に向くこともあります。
わかってほしい時に「あなたのことなんて知らないわ」と突っぱねられたり、どうにも困難な状況下で人に面倒をかけてしまう時に冷たくあしらわれたり、こちらの話に耳を傾けてもらえず自分の意見ばかり押し付けられると、つらい気持ちにならないでしょうか。
なんだか心が乾いて、ひび割れてしまいそうです。

理解の目が向けられず歩み寄られないことは、やさしさとは程遠いもののように感じます。されるほうはもちろんのこと、するほうも巡りめぐってしんどい想いをすることになりそうです。そのため、この部分を改めて考えていきたいと思いました。
(詳細は、今後「社会の動向を捉える」というカテゴリや「自己犠牲について」等でも執筆予定です)

なぜ、こうなっているのか?について考えてみると、やはり環境的な要因が大きいように感じます。「強くたくましくあらねば生きづらいから」という理由が、あるような気がします。
ここでの「たくましさ」とは、根っこがパワフルというよりも、「強く振舞わねばならない」という意味合いで解釈してください。

ではなぜ、わざわざ強く振舞わねばならないのでしょう。
想像に過ぎませんが、おそらく、人の気持ちを一生懸命に考え、自分に出来ることを一生懸命に行ったとしても、その善意が都合の良いように扱われてしまう現実があるからではないでしょうか。
そのため、イヤなことを押し込まれる前に押し込んでしまえばいいと思ってしまう人が現れたり、人のことなんて放っておけばいいという悲しい考えが生まれてしまったような気がします。

実際に私自身の経験でも、あえて強く振舞っていないことで理不尽な要求をされたり、無理を押し込まれることも多々ありました。もちろん、すすんで「聴く耳」を持ってくれるかたや寄り添ってくれるかたもいますが、オフィシャルなシーンでは特に、独特の緊張感を感じながら過ごすことも少なくありませんでした。そのため、なんとなくですが、わかる気がするのです。
強く振舞うことは、自分を守るためのひとつの手段なのかもしれません。

しかし、ここで踏みとどまる必要性を感じます。
なぜわざわざ、しんどいものを基準にせねばならないのでしょうか。

大きなものに合わせて自分の形を変えた方が、ある意味、楽なことがあるのかもしれません。そういった生き方を選ぶのも、ひとつです。でも、「しんどい状況をつくらざるを得ないもの」に合わせている人が多いうちは、「本当は望ましくないしんどい環境」をつくり出してしまうことになりかねません。

これでは心から笑って、安心して暮らせません。
だから、心がポカポカするようなやさしさを育みたいのです。

「『人にやさしく』したいだけ、『人にやさしく』されたいだけ」

他者とやさしい関係性を築くために「ふつうに」行動に移していることが、結果的に、自己犠牲と呼ばれる状態になっているような気がしてなりません。つまり、「身を守るためには強気に振舞わねばならない」という価値観が存在していることで、おのずと自己犠牲が生まれやすくなっているのではないか?と感じているのです。「過剰な」自己犠牲は、一部に負担が集中した結果起こるものではないでしょうか。

ところで、今回のお話で登場する「自己犠牲」の意味は、時に自分よりも他者を優先する「思いやり」とも表現できるかと思います。言葉が極端に感じられるようでしたら、このようにお受け取りください。
(「建設的で意図的な」という部分に思いやりのポイントがあり、まだまだ言葉足らずなことがあるように思いますが、ここで「自己犠牲」についての考えを説明すると話の大枠から逸れてしまいますので、詳細は後日執筆する予定です)

こういった経緯で、自然な自己犠牲という名の「やさしい思いやり」を、自然なかたちで贈り合える環境をつくりたいと思うようになりました。

そのためにはまず、やさしさの存在に気づくことが必要ですし、ゆっくりでも確実に育んでいくことが大切です。加えて、「本当はやさしくありたいのに、様々な事情から辛く当たってしまう人」を理解するための、建設的で意図的な自己犠牲が求められているように感じます。

では、何があれば、何をすれば、やさしさの種を見つけ、見守り育てることができるのでしょうか。「建設的で意図的な自己犠牲」の正体について、考えていきたいと思います。

やさしさを育てるために必要な4ステップ

具体的なお話に移りたいと思います。

タイトルの「4つのちから」とは、やさしさを育むために必要な「忍耐力・想像力・洞察力・包容力」を表しており、これらを身に着けるためには、コツコツと段階を踏むことが必要であると考えています。
詳細はホームページにも記載がありますので、興味のあるかたはこちらをご覧ください。

忍耐力は「ぐっとこらえて想像するための空間を作り出す」ために。
想像力は「あらゆる可能性を探索して出来事や感情を立体的に捉える」ために。
洞察力は「たくさんの仮説を検証して客観性のある真実を見つける」ために。
包容力は「磨かれた経験を自他とものためにやさしく使う」ために。

このように、やさしさを育むためには段階を踏むことが必要で、まずは「ぐっとこらえること」からスタートします。

ここで、少し前にお話した一例を振り返ります。

・人の気持ちなんて考えてもわからないのだから、自分がどうしたいかだけでいい
・面倒な人や困った人のことなんて放っておけばいいし、離れるべき
・思ったことを言えないのは良くない、自己主張できるほうが素晴らしい

これらは大まかにですが、次のような解釈ができるように思います。

「わからないからわからないでいい」
「面倒くさいから放っておく」
「正直な気持ちを正直に表現したい」

つまり、自分から湧いてきた気持ちをそのまま採用しているように見えます。初めの感情から終わりの言動までの流れが、スムーズな状態とも言えそうです。

確かに、自分の気持ちを大切にすることは心の健康を保つことに必要です。なぜなら、ここで無理をして「いい人でいなければならない」と、湧いてきた自然な感情に蓋をするのはしんどいことだからです。

・わからないものをわかろうとするのは大変だと感じても大丈夫
・面倒くさいものを面倒だと感じても大丈夫
・正直な気持ちを表現したくなっても大丈夫

このように、ひとまず「気持ち」の面では、これでいいのではないでしょうか。
仮に「こんなことを思っちゃダメだ」と、どこかから声が聞こえてきたとしても、勝手に湧いてくるものを源泉から止めることはできません。

イヤだな…と思っているのに、大変だな…と思っているのに、そんなことを思っちゃいけなくて、むしろ「ありがとう!」と感謝しながら、他者とわかり合うために尽力することを求められるのだとしたら…私なら、すなおに聞く耳を持てません。

「そうできたら、そうしてるよ!」と、苦しまぎれに言いたくなってしまいます。私たちは時に理不尽な感情を抱える人間だから、神聖なアドバイスを「いきなり」実行に移すのは難しいのではないでしょうか。
(繰り返しになりますが、これはあくまでも個人的な感覚に過ぎず、人様の信じているものを否定する意図はありません)

それなのに私は「他者とわかり合うこと」を、こんなにも勧めています。矛盾だらけだと感じられるかもしれませんが、いいのです。なぜならこれが、人間がありのままの状態で抱えている「複雑さ」ではないでしょうか。葛藤を感じるのは自然なことなのです。

まさに、「ここ」の部分を扱わずして、忍耐力は語れません。

つまり、忍耐力とは「モヤモヤしたものをすぐに排除せず、どうにか抱えるちから」と言えそうです。これは「複雑さをあるがまま受け容れるちから」とも表現できます。

「こうすべきなのにこう思えない」とか、「やさしくなりたいのにイライラする」とか、「わかっちゃいるけどやめられない」とか…様々な複雑さがあるのではないでしょうか。

「抱えたいのに抱えられない」という、もどかしさを感じることも当然ありますし、たとえ抱える準備ができたとしても、複雑なものを複雑なままにしていると混乱してしまいそうです。

だから、なるべく抱えやすくするために、複雑なものをスッキリ整理整頓するといいのではないでしょうか。ぜひ、あちこちに散らばっているものを指定場所に収納するイメージで、この先をお読みください。

話を主題に戻すと、まず、やさしさを育てるためには「ぐっとこらえること」からスタートしますが、これは「自然に湧き出る感情そのもの」をぐっとこらえるのではないということでした。では一体、何をぐっとこらえるのでしょうか。

端的に言うと、感情の先にある「言動をぐっとこらえることが必要」ということなのです。今さら、改まってお話しすることではないのかもしれませんが、とても大切なことです。
(自己否定などの「考え」にも該当するお話ですが、話題が散らばってしまうため後日改めて執筆予定です)

つまり、「自分の気持ちにすなおになっても大丈夫」ということと、「すなおな気持ちのまま現実にアウトプットしても大丈夫」とは、似て非なるものということを知っておかねばなりません。

揉めごとを含むあらゆる問題は、思ったことをそのまま、状況や相手、タイミングなどを考えずに行動に移すところから始まるのではないでしょうか。気に入らないからといって無視したり放置したり、感じの悪い言い方をするなどして不快な感情が増幅した結果、トラブルに発展するように思います。

モヤモヤをそのまま表に出すことで悲しい想いをする人が現れてしまうし、喧嘩ばかりしていなければなりません。これでは、「ホッとする安心感」から遠ざかってしまいます。
(「良かれと思って」言ったりやったりすることも、場合によっては他者にモヤモヤさせることはあるのですが、今回の話から逸れてしまうため別の機会に詳細を執筆予定です)

もちろん、結果的にわからないまま面倒で放ってしまうことはあるし、言いたいことを率直に伝えるシーンもあると思います。どんな時でも、意地でも「忍耐しよう!」と言うつもりはありません。これは、まったく現実的ではないからです。

どんなものでも、使いどころが大切ではないでしょうか。だから、すべてをここで語るのは難しいのです。あくまでも「やさしさを育むために必要なこと」という視点でお受け取りください。

話を戻すと、つまり、あらゆる結果に至るまでの過程で「なにをして、なにをしなかったか?」のほうが、重要だと考えています。

結果的にやさしくなれなかったとしても、「自分や他者にやさしくなれた瞬間」という大切な過程を、できるだけたくさんつくることのほうが価値があるように感じます。そのためにも、ひとまずは「ぐっとこらえること」が欠かせないと思うのです。

忍耐のちからを身に着けることで、いったんは「感情」と「言動」を分けることが叶います。この営みによって「モヤモヤを抱えるための空間」を生み出すことができ、その機会が多ければ多いほど、空間の面積が広ければ広いほど、あらゆる可能性を探索する余裕が生まれるのではないでしょうか。こういった理由で、忍耐力が必要なのです。

「なるほど…忍耐力、必要かもしれない」

お腹から得られた納得感が行動への動機につながるため、頭ごなしに綺麗ごとを並べたり、説得することは本意ではありません。また、「やさしさ」についても様々な見解があると思っていますので、無理に納得させようとも思いません。

しかし、他者の考えにふれることで新たな視点が加わったり、混ぜ合わせることでクリエイティブになれると考えています。そのためには、いったん腑に落ちる感覚を得ることが大切ではないでしょうか。

現時点でしっくりこないと感じるかたも、もしかしたら次のお話に「納得感につながる発見」が含まれているかもしれません。ここでは、先に忍耐力を身に着けることを勧めましたが、実際のところ、先に想像力を広げて必要な空間を後から備えることも可能だと思っています。

そのため、納得できそうなかたも納得できる気がしないかたも、執筆の意図である「やさしさが人を助ける」ことの意味を理解いただけるのならば、続きを読んでくださると嬉しいです。

「無理やりガマン」と「理解からくる譲歩」のちがい

さて、ここからは4つのちからをベースに、さらに「やさしさ」について深掘りしていきたいと思います。

結論からお話しすると、先ほどから話題にあがっている「納得できるかどうか」が、ここでの大きなテーマとなります。つまり、これが「無理やりガマン」と「理解からくる譲歩」の違いについてのアンサーにあたります。

答えとなるものを提示された時、頭では理解できても心が追いつかないことがあるというお話がありましたね。このように、頭ごなしにあれこれ言われても納得がいかないことは当然ありますし、あれこれ思考を巡らせたとしても結局、納得いかないことはあるように思います。

だから、ひとまずは今回の内容に関わらず、「結果的に腑に落ちた」という感覚を得るまでの過程を見ていこうと思います。

誰しも、親しみのないものと出くわした時に「納得できない!」といった違和感を感じたり、拒否反応を示すことはあります。自分の世界に存在していないものが現れると、驚くのも無理はありません。それを「ぐっとこらえること」で、ひとまずはトラブルの火種をまかないように配慮しようということでしたね。

「では、こらえたあと、どうするか?」が、ここでのお話のポイントになります。

たとえぐっとこらえることができたとしても、当然、ガマンして自然な感覚に逆らい続けるのはしんどい努力になってしまいますよね。できればしんどい想いをしたくないというのも、おそらく、多くの人が感じる正直な気持ちではないでしょうか。

しかし現実を見ると、あらゆる性質や思想、考えをもった多くの人が同じ地球上で生活しているため、他者に違和感を感じない人のほうが稀なはずです。イヤな人や合わない人と無縁の生活を送るのは至難の業ですから、しんどい努力をせねばならないことは綺麗ごと抜きにしてあると思います。

だから、前提を「ガマンは時に必要なものである」としておきます。この状態が「無理やりガマン」ということで、この先の内容をご理解ください。

では、もうひとつの「理解からくる譲歩」とは、一体何なのでしょうか?
まさにこれが、二つ目のステップである「想像力」に絡んでくるのです。

詳細をお話しする前に、理解とは「なるほど…と思える納得感につながるもの」という解釈をしておきます。また、「理解」と「納得」のちがいについては、次のように捉えています。

「納得したい」という結果を目指してがんばっても心が追いつかないことはありますが、理解については「理解しよう」と思う気持ちがあれば取り組める、いわば「現実的な成果が得られやすい感情論」だと思っています。

だから、この効果的な感情論を実践に移すことで、たくさん想像することができるようになります。すると「理解できる気がする」感覚を味わう機会が増えるため、すべてではないにしても「納得できた気がする」という望ましい結果を得やすくなるのではないでしょうか。まさにこれが、腑に落ちる感覚に近づくための現実的な方法と言えるでしょう。

また、納得感を得るための「想像するちから」を身に着けると、他者にやさしくなれるだけではなく自分自身の気持ちも楽になるという特典が付きます。むしろ、「自分が楽になりたいから、やさしさを身に着ける」という、特典目当てで実践するのも個人的にはアリだと思います。

自然に湧いてくるものを無理やりに抑え込むのは自然に逆らうかたちになり、たくさんの体力を使うことになります。歯を食いしばり、ぐっと手を握り締めて、ちからを込めて耐えねばならないのは疲れてしまいますよね。だから、自然なかたちで「なるほどね」と思えると、ふっとちからが抜けて楽になるのです。

綺麗ごとを言うと、本当は「心を込めて」とか「他者を想って」などと付け加える方が素敵な印象を残せるのですが、格好つけたばかりに取り組むためのハードルが高くなってしまっては本末転倒です。繰り返しになりますが、イヤイヤ行動するのはあまり建設的ではありません。

また、結局のところ「想像する」という作業を入れることで、おのずと物の見方が増えるため、無理やりやさしくなろうとしなくても勝手にやさしい物の見方ができるようになると考えています。そのため、特典目当てでもいいと思っているのです。
(やさしいものの見方をするには「想像する方向性が大切」という重要な部分を含むため、後日改めて執筆します)

要点を整理すると、つまり、ある程度は「無理やりガマン」をすることは避けられません。しかし、想像力を働かせることによってその割合を減らすことが可能になるということなのです。

100%の納得感が得られることは難しいかもしれませんが、それでも「なるほどね」が多ければ多いほど、スッと詰まりが流れていく感覚を味わえるはずです。そのため、たくさん想像すればするほど、楽になっていくと考えています。(がんばって取り組んでいることだから、きっと、そうなると思いたいですね)

このように、わからないものをわかろうとする過程を地道に踏んでいくことで、「腑に落ちる納得感」が自然体で得られやすくなるのではないでしょうか。繰り返し繰り返し、染みつくほどに取り組むから、それが「クセ」になり、気づけば定着しているものです。

「想像力」という、あらゆる可能性を探索するちから。これは、忍耐の先で取り入れられるものでもあるし、想像することで忍耐できるベースができるとも言えそうです。そのため、同時進行で育むほうが効果を感じやすいかもしれません。

なんでも、無理は長く続かないものです。いくら、やさしい気持ちが根底にあったとしても、他者のためにぐっとこらえ続けるのは苦しいです。このような苦しみを抱えているかたを慮った結果、自己犠牲を良しとしない考えが生まれたような気がします。感覚的に感じることなので、本当のところはわかりませんが。

持続的にやさしさを贈り合うためには、なるべく自分にとって無理のないものを選ぶことが大切です。あらゆる可能性を探索して、「わからないものをわかろうとすること」を当たり前にすることによって、おのずとやさしくなれるし、楽に続けやすいのではないでしょうか。。

「不快感をぐっとこらえて、他者のためにガマンすること」もやさしさだし、「他者の気持ちや状況を想像して納得し、合わせることができる」のもやさしさです。しかし、両者は性質が違います。

後者を選択する方がお互いにとって、つまり、「自分にとっても」やさしいと思いませんか?だから、「理解からくる譲歩」を選択して実践するほうが、やさしさの質が高いように思います。

ここでのポイントは、「どこで、しんどい想いをするか?」ではないでしょうか。できればしんどいことなんて考えたくないと思いますが、これが「綺麗ごとを本物にする」ために必要なことであると考えています。お部屋を掃除するという手間をかけるから、綺麗になって住みやすくなるのと同じです。(忙しいとなかなか隅々まで磨けない…という事情や、正直、面倒だな…という気持ちも考慮のうえです)

面倒を引きうけてコツコツ取り組むしんどさ、面倒を回避したことで衝突したりイライラするしんどさ。いろいろあると思いますが、同じしんどさを味わうのなら、手間や労力がかかったとしても「建設的な方向性で、意図的に」自らしんどいことに着手する方が実りが多いように思います。

このような視点で、ぜひこの先をお読みください。

「自分のメガネを外す勇気をもつこと」で、真実に一歩近づける

「忍耐力」や「想像力」を発揮することで、自他ともにやさしくなれる過程を歩むことができるというお話をしました。

コツコツとやさしさを育むことは、面倒や手間がかかるけれど長期的には実りが多く、嬉しい収穫が得られやすい建設的な営みであるということでしたね。

嬉しい収穫のひとつとして、ある程度は「理不尽なしんどさ」から遠ざかることも叶うように思います。「意味のあるしんどさに変わる」とも表現できそうです。

ところが、これはあくまでも「ある程度」ということであって、実際は残念ながら相変わらず理不尽な状況に晒されることがあります。様々な状況が考えられますが、ひとつの例として次のようなことがあるのではないでしょうか。

・他者のことをたくさん気にかけているのに、なかなか伝わらない
・やさしさを表現したばかりに、無理を押し付けられてしまった
・どうにか踏みとどまっていたのに、勢いに呑まれて自らも理不尽に戦わざるを得ない状況になった

もしこんな状況に晒されてしまったら、「一生懸命努力しているのに、どうして!」と、天を仰いで文句を言いたくなっても無理はありません。やさしくあろうとして傷ついてしまうのは、あまりにも理不尽で、悔しく、悲しいことだと思います。

しかし、どうか、ここで「ぐっとこらえて」ほしいのです。
そして、ここまでがんばってきたものや得てきたものを、自分でしっかりと守ってあげてください。ひとりで抱え込まずに、身近な協力者や、しんどい気持ちを吐き出せるサービスを頼って、やりきれない気持ちを受けとめ、ケアしてあげてください。

なぜなら、その苦しみを感じるのは「やさしさの種が、しっかりと根付いている証拠」なのですから。だから、自らの手で引っこ抜いたりしないでほしいのです。表面的にはなにも良いことがないように感じてしまっても、見えづらいところでは、確実に、とても尊いものが育っているのです。

そうは言っても、このどうしようもないやりきれなさを一体どこへぶつけたらいいのでしょう。この時、三つ目のステップである「洞察力」が、苦しみを分解するためのちからを発揮してくれるのです。

辛い状況を深く理解し、「苦しいのはやさしさが育っているから」という意味を見出すことも「洞察力」のなせる業と言えます。一見するとわかりづらいことも、目を凝らして見ようとするからこそ真実を知ることにつながるのです。

まさに、この「真実を視るちから」について理解を深めていくことが、今感じているやりきれなさを昇華させるためのヒントになるはずです。

「洞察力」という、真実を視るちから。これは、たくさんたくさん想像し続けてきた結果得られる、まさに「血のにじむような努力の結晶」のようなものです。

なぜ、血のにじむような…と表現したかというと、自分の考えや感情を抱えながらも、他者の考えや感情を立体的に捉える努力をし続けるのは大変なことだからです。当然、その過程ではイヤな想いをしたりガマンすることもあるはずです。そのしんどさを超えて、あらゆる可能性を探ることを諦めなかったからこそ、起こっていることの「背景」や「傾向」をつかむことができ、表面的な事実のみに囚われることが減ってくるのです。

簡単に言ってしまいましたが、これは相当に、価値のあるものなのです。
具体的にどういうことなのかをお話したいと思います。

例えば、目の前に「怒っている人」がいたとします。

表面的な事実だけを見ると「怒っている人だ…」と認識できますが、この人に対して「怒っているのは○○かもしれない」という想像をたくさん働かせたとします。

このように、理解しようとする営みによって「お腹がすいているのかな」とか「ホルモンバランスが乱れているのかな」とか、「なにか嫌なことがあったのかもしれない」などという可能性が浮上してきます。

一見すると近寄りがたい「怒っている人」に対して、たくさんの想像を働かせながら見守ることによって、ある時、こんなことに気づきます。

「この人が怒るタイミングでは、多くの場合で○○が起こっている」
「こういったことで怒る人の共通点は、○○ではないだろうか」

これが、目の前の人を深く理解するための「洞察」にあたる部分です。つまり、「なぜ、この人は怒っているのだろう」という意味付けを行うことができることを指します。この意味付けは、時間をかけて何通りもの可能性を探索した結果たどり着いたひとつの「仮説」であり、信ぴょう性が増しているなかで行われているものと仮定します。

つまり、想像力が主観的なものであるとしたら、洞察力は、主観を含みながらも客観的な事実に近いものと言えるでしょう。

ここで、話をわかりやすくするために、各々が自分の世界で物事を捉えることを「メガネをかけている状態」に例えます。
心理学では「認知」と呼ばれるものですが、つまり、とある事実や物事を捉えた結果湧いてくる感情は、「自分がかけているメガネ」に大きく影響されるということなのです。

「怒っている」という事実の裏側には、その人なりの理由があります。この「理由」の部分に、メガネの特徴が表れてくるということです。
そのため、「私ならこれで怒るだろう」と想像したことでも、それは他者の理由と一致するとは限りません。見ている世界が違うのですから、当然です。想像を超えた現実的な理解を示すためには、これを知っておくことが大切です。

洞察力によって自分の世界以外のものを見ようとするとき、「限りなく透明度の高いメガネ」をかけている状態と言えるだろうし、もしくは、「自分のメガネをすすんで外せる聡明さ」とも表現できると思います。

また、たとえ透明度の高いメガネを所持していても、それはあくまでも自分の見ている世界に過ぎないと自覚することを忘れてはなりません。仮説はあくまでも仮説にすぎず、真実とは限らないと理解することが「本当に必要な答え」に近づき、質の高いやさしさを贈り合うことにつながります。

だから仮に、カラフルに彩られたメガネをかけていたとしても、必要に応じていったん外すことができたらなにも問題はありません。メガネはメガネに過ぎないのだから、「意地でも外さない!」とこだわる必要がないと理解するだけで、わかりあうためのとっかかりが増えていくのです。
(「意地でも外さない!」とこだわってしまうのにも様々な理由が考えられますし、まさにこれを深く理解しようとする試みが「洞察」です)

先ほどの「怒っている人」のお話に置き換えると、怒っている理由を想像し、その理由を深く知ろうとすることで、ポイントをおさえた必要な関わりができるようになるのです。

この視点がないと「なんで怒っているんだよ!」とイライラし続けたり、怒っている理由を自分なりに決めつけて、なかなか「本当の理由」に焦点が当たらないままアプローチをすることになり、不毛なやりとりにつながりやすいです。

自分が一体、どんなメガネをかけて世界を見ているのか。あの人は、この人は、一体どんなメガネで物事を捉えているのか。それらが交錯した時、一体、どのようなことが起こり得るのか。一体、私たちの間で、なにが起こっているのだろうか。

こういったものの見方をして現実に生かすことは、言うまでもなく、想像力を超えた「やさしさ」を発揮することにもつながります。なぜなら、主観的なやさしさよりも、客観的な事実を含むやさしさは「本当に必要なもの」である可能性が高いからです。

「私はこう思ったから、こうしてあげたい」というのは、紛れもないやさしさです。
「私はこう思うけど、あなたが欲しいのはこっちだと思うから、こうするね」というのも、やさしさです。

さらに、「私はこう思うけど、本当のところはどうかな?」と確認する過程を飛ばさないのは、もっともっとやさしいです。

これが、「やさしさ」という軸で考えた時の、想像力と洞察力のちがいです。

できることなら本当にほしいものを受け取りたいと思うのが、正直な気持ちではないでしょうか。それを他者に与えられるというのは、やはり、やさしさのレベルが高いと言えるでしょう。

また、こういう見方もできます。

「本当に欲しいものはこっちだけど、私を想って与えようとしてくれていることが理解できるから、あなたが与えたいもので大丈夫だよ」

このように、人からの想いを受け取れるのも、洞察力のなせる「やさしさ」なのです。言うまでもなく、これは自分に対しても、たくさんのやさしさを与えることになりますね。

いかがでしょう。とても「価値あるもの」のように感じませんか。
今もなお、理不尽な状況に苦しんでいる人だからこそ、この素晴らしい価値を手にする準備が整っているように思います。だから、大切に育ててきた「やさしさの根っこ」を大事に守ってほしいのです。

一見、しんどい状況に見舞われたとしても、そこには「苦しみを分解してくれる肥料」が含まれているかもしれません。これは、苦しみの原因を向けてきた他者に対して「無理やり感謝する」という、綺麗ごととは違う性質のものです。イヤなものをイヤだと思ってもいいと少し前にお伝えしたとおり、自然な感情に逆らうことはないのです。

天を仰いで文句を言いながら、しんどいものを向けてきた人に恨みつらみを感じながら、それでも、起こった出来事の背景をたくさん想像していくこと。悔し涙を流しながら、意地でも「やさしさを育むためのエッセンス」を見つけようとすること。

このように「都合よく書き換えられた綺麗ごと」と、「真実を照らし出すまばゆい兆し」を見分けるちからを育むことによって、本当に美しい花を開かせることができるのです。

まさに「意地をはる部分」は、ここであってほしいと個人的に感じます。どこでしんどい想いをするか?という話にもつながるのではないでしょうか。

実りある苦しみを昇華させることにより、誰にも汚すことができない「美しい自尊心」が、しっかりと育っていることでしょう。これが、私が考えるやさしさとして、はじめにお伝えした「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」に進化を遂げていくのです。

これらを踏まえたうえで、いよいよ「やさしさの真骨頂」について、ご一緒に考えてまいりましょう。

やさしさの真骨頂は、あらゆるものを受けとめられる「心の器」

やさしさの種に気づいて、しっかりと根付かせることで「美しい自尊心」という花が開き、この気高い心が「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」に発展するということでした。

ここでは、美しく咲かせた花を「その後、どのように活かしていくか?」というお話をしたいと思います。4つのちからの最終ステップである、「包容力」にあたる部分ですね。

真骨頂を語るとは言え、小難しい説明は必要ありません。
なぜなら、すでに質の高いやさしさが育っている段階だからです。

ここで、今回のお話の「意図」を振り返りたいと思います。そもそも、やさしさを育むことの目的とは、一体何だったのでしょうか。
ぜひ、冒頭部分を思い返してみてください。

「やさしさが人の心を助け、癒し、安心感をつくる」

多くの人が安心して生活するためには、自分のことだけではなく、他者の存在を慮ることが必要という考えをお伝えしてきました。

「思いやり」を表現し合うためには「建設的なコミュニケーション」がカギを握っていて、これはつまり、「やさしさを贈り合うこと」を意味しているということでしたね。

やさしさを贈り合うためには、時にぐっとこらえてガマンせねばならないこともあるし、たくさん想像力を働かせて面倒な想いをすることもあるけれど、それは巡りめぐって自分にもとびきりやさしくなれる「価値のあるもの」に成長するということでしたね。

つまり「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」の正体とは、がんばって咲かせた尊い花を贈り合うために、時に痛みを感じながらも「やさしくあろうとし続ける営み」そのものだと言えるでしょう。

私が思うところの「やさしさの真骨頂」とは、まさにこういったことです。やさしさとは「なろうとするもの」ではなく、少しずつでも確実に、「おのずと育っているもの」ではないでしょうか。

やさしさが大きく育まれるまでには、様々な経過が見られます。

他者にやさしくなれないほど、一生懸命にがんばっている自分に気づくこともやさしさです。自分にガマンさせてでも、他者に尽そうとがんばることもやさしさです。

やさしくなれない自分に苛立って涙するのも、やさしさです。他者からやさしくされないことが悔しくて涙するのも、やさしさです。

自分が与えたいものを与えようとすることもやさしさです。他者が本当に欲しいものを与えようとすることも、やさしさです。

そして、こういった「やさしさ」を、すべて受け容れることができるのも、やさしさです。

まさに、これが「包容力」です。
包容力とは、自分や他者をまるごとやさしく受けとめ、包み込むことができる「あたかかな心の器」と言えるでしょう。

だから、それが必要だと思うシーンでは、時に自己犠牲も厭わないのです。
というか、「おのずと自己犠牲という状態になっている」と言えるかもしれません。

他者を慮って様々なことに理解を示せるようになると、どうしてもたくさんのものを抱えることになります。わかってあげたい気持ちが強ければ強いほど、わかってあげられないもどかしさを感じることでしょう。

たくさんの容量を有する器は、たくさんのお水を受け容れることができます。ところが、たくさんのお水を抱えれば抱えるほど、なかなかすべてを受けとめてもらいづらい現実があります。

これを理不尽と言ってしまえば、そうなるのかもしれません。
こんなもの面倒なだけだと言ってしまえば、いらないものとして扱われるのも無理はありません。

何を選ぶかは自由です。だからこそ、すすんで「時に理不尽と思えるようなやさしさ」を抱えることに、価値があるのではないでしょうか。

「建設的で、意図的に」

たとえ、一時的に損な役回りになったとしても。
たとえ、たくさんのものを抱えることになったとしても。

できることを、できる範囲で。
重みに耐えるための創意工夫をして、自身のケアを行ったうえで。

自分の幸せのなかに、他者が存在しているという可能性を見出して。
いつか、わかり合える日がくると希望を持ち続けて。

「美しい自己犠牲」

大切に育んできたやさしさを、積極的に与えること。
苦しみを感じながらも、気高い心が育っていると信じること。

「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」

この価値に気づき、心を開くことは、巡りめぐって自らが住みやすい環境をつくり出すことになるでしょう。

「みんなでやれば、大丈夫」

なるべく多くのかたが、ありのまま、自然体で、やさしさという美しい花を贈り合えるように。
なるべく多くのかたが、すすんで取り組まれることを願っています。


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