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《長編小説》全身女優モエコ 高校生編 十四話:全国高等学校演劇大会演目『カルメン』 モエコ死す!

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 開演を知らせるブザーが鳴るとゆっくりとステージの幕が上がり、そしてスポットライトがステージを照らし出した。とうとうモエコたちの舞台が始まったのだ。観客の大多数はこのモエコたちの古典を題材とした舞台に何も期待せずなんとなく眺めていただけだったが、しかし冒頭でモエコが台詞を喋った途端一瞬にして芝居に釘付けとなった。今演じられているのはモエコ扮するカルメンが兵士として見張りに立っているホセに道を通せと頼み込んでいる場面だが、モエコ扮するカルメンはホセよりも先に観客の心を虜にしてしまった。

 顧問は観客の反応を見て舞台の成功を確信した。実際にモエコをはじめとした演者たちは地区大会に比べて驚くほど成長していた。特にモエコの成長は著しく、地区大会の時でさえ完璧だと思えたいたのに、その演技さえ今の彼女の演技に比べれば児戯に等しいものに思えてきた。今ここで彼女が演じているカルメンはもう演技どころではなく、まるでカルメンなる人物が実際にそこに居て喋っているかのようだった。そしてそのモエコの演技に触発されたのか、ホセ役をはじめとした演者たちも、持てる力以上のものを出して舞台を盛り上げていた。

 観客はモエコ扮するカルメンが犯罪行為のために道を開けてとホセに向かってお願いする場面で、モエコがその豊かな肢体をくねらせながら低い声で官能的に囁くのを観て思わず唾を飲み込んだ。それは彼女のお友達の教頭や御曹司も例外ではなかった。むしろ彼らが一番今のモエコに夢中になっていたのだ。

 教頭は初めてまともに見たモエコの演技にあっというまに魅入られてしまった。そこには普段のあの我儘で子供っぽい少女の姿はなく、会場全体に官能の匂いを撒き散らす一人の悪女がいたのである。だが彼はそのモエコをずっと見ていることに耐えられなくなり思わず目を背けてしまった。彼は心の中で必死で目の前のモエコを否定した。モエコよ、そんな娼婦みたいな真似はやめておくれ。そんなのは君じゃない本当の君は……。しかしいくらカルメン役のモエコを否定しても彼は舞台を観続けなければならなかった。モエコとの未来のためには彼女の全てを受け入れるしかないと思ったからである。

 御曹司もまたこのカルメンのモエコに魅入られてしまった。もともと都会育ちで恵まれた文化環境に囲まれて育った彼にとってモエコたちの舞台など観るに値しないものだと思っていた。この舞台だって自分がデザインした背景の出来栄えを見るためだけに来ていたようなものだった。だが実際に目の前でカルメンを演じるモエコを観て全身が熱くなるほど感動してしまった。御曹司はこのあまりにも官能的なカルメンを観て笑みを浮かべながら我知らず昔モエコに言ったこんな言葉を呟いた。「モエちゃん、君はロリータで僕はハンバード・ハンバードなんだよ」

 その時観客席のどこからか、唸り声をあげないでください、と誰かが文句を言っているのが聞こえたが、観客は皆劇に夢中になっていたので誰も気にすらとめなかった。


 そして舞台は進み、今は昨夜のカルメンの誘惑をどうにかはねつけたホセがカルメンの居所を尋ねる場面であった。ああ!実はあの夜すでにホセはもうカルメンの虜になってしまっていたのだった。それはホセ役の頬が削げ落ち目の窪んだ顔があからさまに示していた。モエコはこのホセ役の顔を見てやはり台本を丸呑みさせた甲斐があった。やはり一週間ホセ役のセリフしか喋るなと命令した甲斐があったと一瞬感慨に耽った。だが今は芝居中、感慨などに耽っている暇などない。モエコは再びカルメンとなり、昨日人の頼みを断ったくせにそんな事を忘れたかのように自分の元にノコノコ現れたホセに向かって銀貨あげるからさっさと帰れと罵った。しかしホセはそのカルメンに対して跪き必死で自分を許してほしいと懇願しはじめた。

 その場面を観ていた教頭は舞台のカルメンとホセに自分とモエコを重ねた。ああ!元々は貴族であったらしいホセ。しかしそのホセはカルメンと関わったばかりに今地獄へと落ちようとしていた。自分とモエコも彼らと同じような運命を辿るのだろうか。聖職者である自分もまたホセと同じように地獄へと落ちてしまうのか。いやそんなことはありえない。きっと自分とモエコは清く結ばれて、あしながおじさんのように世間の祝福を受けるはずなのだ!

 だがその観客席の教頭の心の叫びは舞台のモエコには届かず、彼女は無情にもホセをあしらい、そして大声を上げて自分の部屋の中にいる男を呼びだした。ホセは中から出てきた男を見て呆然とした。なんとその男は自分の上官である中尉だったのだ。中尉はホセに向かってこんなところで何やってるんだ早く帰れと怒鳴りつけた。それを聞くなりホセは嫉妬のあまりカッとして中尉を刺し殺してしまった。そのホセ役の嫉妬の演技はあまりにも鬼気迫っていた。しかしそのホセと倒れた中尉を冷酷な眼差しで見つめるモエコのカルメンの無言の演技はそれ以上に凄まじく、その恐ろしさで場内を凍りつかせてしまった。

 教頭はその場面を観るに絶えず再び舞台から目を背けてしまった。彼にはこの舞台が自分とモエコの関係をそっくりそのままなぞっているように思えてきたのだ。彼は自分も結局ホセのようにするしかないのかと、さっきのあの悍ましい考えを思い出して絶望に打ちのめされた。教頭は舞台のモエコに向かってもうやめておくれと叫びたかった。しかし彼の願いは聞き届けられるはずもなく無情にも舞台は続いた。


 舞台の異様なまでの緊張感に観客はもう喋ることすら出来ず、ひたすら息を呑んで眺めることしか出来なかった。それほど舞台は真に迫っており、モエコを始めとした役者たちの演技は、もはや演劇であることを超えて、まるで現実そのだった。舞台で敢行される血まみれの惨劇。それはモエコ達によって作り出された新たなる現実であった。モエコとホセ役を始めとした役者たち、そして彼女たちをステージの袖で見守る顧問と部長。皆が一つになってこの舞台の登場人物を演じながら、そして演じる彼らを見守りながら登場人物たちの行く末を案じていた。

 彼ら演劇部員はこの舞台が間違いなく自分たちの最高傑作になることを確信した。後はモエコたちを始めとした役者陣に全てを任せるだけだった。モエコもカルメンを演じながら間違いなくこれが自分の十七歳の人生で最高の演技だと思った。彼女はこのまま突き進んでやれと思った。この仲間たちだったら私はどこまでも飛べる。彼女はまるで短距離ランナーのように全力で舞台の中を全力で踊り笑い叫んでいた。


 舞台はいよいよ佳境へと入っていった。カルメンに誘惑されるがままに悪への道に入ってしまったホセは次々と悪事を犯した。しかしカルメンはそんなホセのことなど無視して相変わらず他の男たちと戯れていた。ああ!モエコ演じるこのカルメンはまるで自分の悪事に気づかない無邪気な天使であった。彼女はただ子供がおもちゃで遊ぶように犯罪を犯していたのだ。この無邪気なカルメンの設定だけは部長の書いた凡庸な脚本の中で唯一の褒めどころであった。といっても実のところこのカルメンのモデルはモエコその人であったのだが。

 さて舞台ではモエコ扮するカルメンがホセにガルシアなる片方にアイパッチをした男を紹介していた。今度の仕事はこの男と一緒にしてほしいと彼女はホセに話した。ホセはガルシアを見て再び嫉妬に悶え狂った。この男も明らかにカルメンの愛人だったからだ。カルメンはそんな二人に向かって今度の仕事は手が込んでいるからアンタ達ちゃんと協力してやるのよと釘を差した。

 この舞台の展開に教頭は御曹司と初めてあったあの校長室の時のことを思い出して頭を抱え、御曹司もまたその時のことを思い出してニヤリと笑った。彼はこうひとりごちた。「ホセとガルシアってまるで俺達みたいじゃないか」

 ホセがガルシアを殺した場面は中尉の殺人の場面よりも遥かに凄まじかった。ホセはカルメンを独占するためにガルシアを殺害したのだが、そのホセ役の切羽詰まった表情、そしてガルシアの役の惨めな断末魔、しかし何よりも凄まじかったのはその二人をけたたましく笑うモエコ扮するカルメンであった。観客はこの場面にまるで直に殺人現場を見たような感覚を覚え息が止まりそうになった。そしてけたたましく笑うモエコのカルメンには背筋が凍りついた。ああ!殺人現場は血に染まり、その血でモエコのカルメンのドレスはますます赤く輝き始めた。

  教頭はこの悍ましい場面を見て思わず御曹司の座っている席を見た。すると偶然にも御曹司も教頭の方を見ていたので、互いの目が合ってしまった。二人共それに気づくとゾッとして目を背けた。彼らはあの校長室のときのように互いの心の奥底を読み取ったのだ。ああ!彼らのモエコへの愛と欲望は最初から常道を逸していた。それがこのカルメンの舞台であからさまに曝け出されてしまったのである。しかし舞台はあくまでも舞台に過ぎぬ。一時の夢に過ぎぬ。このまま舞台は終われば自分たちは再び現実へと引き戻されるだろう。何も起こりようがないのだ、何も。二人はそう自らを納得させどうにか平静さを取り戻そうとした。

 そこに再び会場のどこからか静かにしてくださいと誰かが大声で叫んでいるのが聞こえた。今度はもう誰の耳にも聞こえた。男がずっとうなり声を上げていて、その男に向かって隣か近辺にいるらしき女性が注意していた。観客たちは彼らに向かってあえて声を上げずに一斉にシーッと言って黙らせた。それはこんな馬鹿げたことで貴重な舞台を壊されたくないという観客一同の精一杯の配慮だった。

 しかしステージでカルメンを演じているモエコたちにはそんな観客の雑音など全く耳に入らなかった。彼女たちは今完全に舞台の世界に入り込み登場人物を演じながら彼らと果てしない会話をしていた。モエコはいつまでもカルメンを演じ続けたいと思った。彼女と別れたくなかった。それはきっと他の部員も同じであったろう。いつまでもこの世界に留まっていたい。いつまでも登場人物たちと一緒にいたい。だが運命はそれを許さなかった。悲劇が大口を開けて待っていたからである。


 そして劇はとうとうクライマックスを迎える。度重なるカルメンの裏切りに耐えかねたホセは彼女に向かってこんな所から逃げ出して二人でアメリカへ行こうと懇願した。そのホセ役の演技を見ていた観客は身につまされるような気分になった。

 教頭にとっては身につまされるどころではなかった。彼はホセを完全に自分だと思っていた。ああ!この劇が終わったらモエコをアメリカにつれて行こう。御曹司たちの手の届かないところで私達二人は幸せに暮らすのだ。モエコよ!と彼はステージのカルメンに視線を注ぎ、そして心の中で叫んだ。「モエコよ!ステージから降りておいで!一緒にここから逃げ出すんだ!」

 御曹司もまたホセと同じようにモエコを独り占めしたいと思った。彼はモエコのカルメンを観て突き上がる欲望に激しく身悶えた。ああ!モエコよ!君を抱くのは僕だけだ!その白く熱い体を今すぐ僕の前にさらけ出しておくれ!

 そしてもうひとりの男も……。

「ちょっと何度も言ってるけどあなたさっきからなにブツブツ言ってるのよ!」

 席に座っていた女性が隣の太った男に何度目かの注意をした。しかし男は注意を全く聞かず、ノートを開いてブツブツと独り言を言っている。どうやら彼はノートの内容を読み上げているようだった。

「地主の息子さんはいい人で沢山お金をくれるけど、趣味が全く合わないの。私アニメなんか観ないし、手塚治虫なんか鉄腕アトムしか知らないもの」

「ああ、会いたくないなあ。正直言って地主さんといるの辛いわ。だって話す事何もないんだもの。だけどこれもお金のためにしょうがないわ」

「今日先生さんがお勉強を教えてくれた時、君は頭がいいね、これだったら東大だって合格できるよとか言ってくれたの。クソ真面目なくせして下手なお世辞言ってホント可愛い!」

「御曹司さんはホントに凄い人で何でもよく知ってる。寺山修司さんとか唐十郎さんとか東京に行くときがあったら君に観せてあげたいとか言ってくれた」

「ああ!また地主のバカ息子がウチに来た。来ちゃダメだってずっと言ってるじゃない!なんで来るわけ?いいあなたなんかお金がなきゃ会ってさえあげないのよ!」

「お友達はみんないい人だけどあえて順位をつけるなら御曹司さんが一番、先生さんは二番、地主さんは最下位ね。だって話が合わないんだもん」

 ああ!地主の息子は読んではならないものを読んでしまったのだ。彼はモエコの部屋に泊まった際にアルミの大きな箱の中の札束の隣にこのノートを見つけた。そして喜んだ。これは女の子の大事な日記。きっと自分へのピュアな恋心が書かれているに違いないと思いすぐさま中を開けた。しかしいきなり彼の目に飛び込んできたのはお友達から貰った金額とその貰った日付まで細かに記されたリストと、そして今彼が読み上げたお友達に対するモエコのお友達への正直すぎる感想が書かれた日記だったのである。

 しかしモエコは決して地主のバカ息子を嫌っていたわけではなかった。むしろ彼に好意を抱いていた。それゆえに書かれた感想なのである。でなければあの正直すぎるモエコがいくら金のためとはいえ嫌っている人間と長年付き合えるわけがないではないか。しかし言葉往々にして誤解を招いてしまう。それが当人に向けて書かれたものでない場合はなおさらだ。

 地主のバカ息子は突然ノートを読み上げるのをやめると、思いっきり音を立ててノートを閉じた。そしてうめき声を上げてブルブル体を震わせた。彼はそのまましばらく呻いて体を震わせていたが、やがて手に持ったバッグを開けて中を探りはじめた。


 舞台ではホセ役がカルメンの前に跪き、その手を取って何度もアメリカに行こうと懇願していた。「俺だけのロミになっておくれ!もうほかの男とは付き合わないでおくれ!」と絶叫していた。その追い詰められた表情は演技とはとても思えない。完全に役に取り憑かれていた。教頭と御曹司と、そして地主のバカ息子はホセのようにステージのモエコを崇め、その返答を待った。

 しかしカルメンの答えはあまりにも残酷であった。彼女はホセに対して詰めてくこう言い放った。

「アンタを愛し続けるなんて、とてもできない事だわ!アンタと一緒に暮らすなんてもう耐えられないんだもの!」

 このあまりに残酷な言葉にホセと観客席の男たち三人は崩れ落ちた。モエコは膝に這いつくばるホセと、そして観客席で彼女を見つめる男たちに向かって大口を開けて哄笑した。ホセは怒りに身を震わせ懐からナイフを出した。そしてナイフをかざして最後にカルメンに尋ねた。

「最後の願いだ。俺と一緒にアメリカに行ってくれないか?」

 モエコはナイフを出したホセに真から怯えた。今、彼女は完全にカルメンと一体化していた。死への恐れ、生への執着、生まれてからの今までの惨めなごろつき人生が走馬灯となって彼女の前に現れた。こんな男のために死にたくない!私はもっと自由に生きたいんだもの!モエコは思いっきり声を張り上げて叫んだ。

「イヤよ!絶対にイヤよ!」

 一瞬の出来事だった。会場からブヒヒー!と絶叫が聞こえた途端ステージに黒い影が現れた。カルメンの周りにいた、ホセ役を始めとして演劇部員はあまりの異常な出来事に瞬きすることすら出来なかった。一瞬でカルメンは、いやモエコはいきなりステージに上がって来た地主のバカ息子に刃物で刺されたのだ。観客の大半は一瞬何が起こっているのかわからなかった。やがて観客は事態に気づき場内は大混乱になった。教頭と御曹司は刺されたモエコを見て自らの危険を顧みずモエコを助けようとステージへと駆けた。

 すでに刃物は地主のバカ息子の手から離れていた。モエコは刺された刃物を抜こうともせずただ立ち尽くしている。彼女は恐る恐る刺さっている刃物を見て驚きのあまり声を上げた。なんとそれは自分の家の古びた包丁だったのだ。彼女は包丁の竿を柄を持つと包丁を思いっきり引き抜いて叫んだ。

「なんで……なんで、こんなものがここにあるのよ!」

 モエコはそう絶叫すると包丁を持ったまま仰向けに倒れてしまった。


 地主のバカ息子は蹲って泣いていたが、ステージに上ってきた教頭と御曹司を見ると顔を上げて二人を指差しながらこう言い放った。

「モエコちゃんはボクチンのものだブヒ!お前らなんかには渡さないブヒよ!これでモエコちゃんはずっとボクチンのものだブヒ!永遠にボクチンのものだブヒー!」

 会場は今は静まり返っていた。もう少しで救急車と警察がやって来る。地主のバカ息子は警備員に捕らえられすっかりおとなしくなっていた。そして観客席にいるものも、ステージに上がっているものも一心にモエコを見つめていた。モエコは会場の医療関係者に囲まれて応急処置を受けていた。ステージには彼女の血しぶきが至るところに飛び散っていた。教頭と御曹司はモエコに向かって必死に呼びかけていた。彼らにはもう世間体などどうでもよかった。愛するモエコがただ生きてさえくれたらそれでよかった。


 モエコは徐々に視界が暗くなっていくのを感じた。彼女はこれが死なのかと薄れゆく意識の中でおぼろげに感じた。ああ!まだ舞台は終わってないのよ!いつまで死んだふりをしているの?まだカーテンコールが終わっていないじゃない?イヤよ、私は死にたくないわ!お願い神様!このモエコの目を開かせて!このモエコにみんなの歓声を聞かせて!モエコはスポットライトに向かって手を伸ばした。しかし暗闇は無情にもモエコを覆い尽くし彼女を果てしなき闇へと連れ去っていった。





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