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月と地球

 ニューヨークに転勤して三年経ってようやく日本に帰れる事になった。といっても日本に戻って来れるわけではない。ただの少し長めの短期出張だ。三年前ニューヨークに異動の辞令が下された時、ニューヨークは一年限定の短期だからと言われた。だがその後のコロナの流行と私がニューヨークで予想外の成果を上げたため、結局そのままニューヨークに留められる事になってしまった。

 日本に留まるはずであった妻も結局私の元に来る事になり、今は社が用意してくれたマンションで一緒に暮らしている。妻はニューヨークの冬が寒すぎると日々愚痴っているが近所に日本人は多いし、友達も沢山出来たらしいのでさほど不満ではないようだ。

 私は今回の日本への出張で一つ気がかりな事があった。それは私が羽田行きの便の機上で手にしているマフラーに深く関わる人だ。いやまどろっこしい、こんな文学的なセンスのない人間が変な仄めかしめいた事を書いても変に誤解を招くから直接言おう。まぁ、はっきり言えば私のかつての不倫相手の事だ。彼女とは三年前に別れた、それっきり彼女とは会っていないが風の噂によると彼女はその後会社を退職したらしい。私はその噂を聞いた時、まさか寿退社ではないだろうなと未練がましくも嫉妬心が湧き上がり彼女と関係のある男を全て疑ったがそうではないらしい。私はこれに一安心すると同時に彼女が心配になった。今彼女は何をしているのだろうか。

 やがて飛行機が羽田空港についた。私はタラップを降りて出口に向かう時日本の同僚たちにメールで無事に日本に着いた事を知らせた。すると真っ先に私の後任になっていた男が返事を送ってきた。この男は大学時代ラガーマンで私の不倫相手の彼女と近しい間柄だった。彼女が寿退社だと勘繰った時真っ先に相手として浮かんだのがこのラガーマンだった。『古きは去り新しきものやってくる』この言葉は私とこの男を揶揄って誰かが言い出したものだが、このラガーマンは四十を過ぎても独身で二十代のように若々しかった。このラガーマンはメールに先輩お帰りなさいと挨拶を書き、それから自分たちの現状を長々と書いていた。そして最後にあの彼女の事に触れていた。メールには彼女は二年前に退職した事と、その彼女が昨年に自分の会社を立ち上げた事が書かれていた。

『いやぁ、先輩。僕はそれ聞いてびっくりしましたよ!アイツがそんなに自立心のある奴だなんて思いませんでしたからね〜。アイツの会社web関連らしいんですけど一体そんな知識どこで手に入れたんですかねぇ〜。会社も注目されてるみたいでなんかネットでいろいろ取り上げられてますよ』

 私はこれを読んで彼女のあまりに意外な転身に驚くと同時に時の流れを感じて寂しい気持ちにもなった。

 ホテルまでのハイヤーを待つために私はタクシー乗り場へと向かった。出た瞬間空に見事に輝く満月を見た。私は輝く月を観て最近YouTubeで度々観ている宇宙関連の動画の事を思い浮かべた。


 ハイヤーは渋滞に巻き込まれたりしながらもなんとか品川にあるホテルに着いた。時計を見たら十時を過ぎていた。私はアプリを使って支払いと領収書の発行済ませるとハイヤーから降りてまっすぐホテルへと向かった。ふとホテルのロビーを見ると何故か懐かしい記憶が浮かんできた。もしかしたらここ一回来たことがあるかもしれない。

 フロントから鍵をもらい部屋に入って早速就寝の準備をし、いざベッドに横たわって寝ようとしたら何故か寝付けなかった。やっぱりロビーを見た時に浮かんだ記憶に間違いはなかった。このホテルで彼女と一晩過ごした事がある。部屋の内装も香りもあの頃のままだ。勿論あの時とは別の部屋だろう。だがそれでも何故か彼女を思い浮かべてしまう。

 私は頭を振りかぶって記憶を追い出そうとした。全くなんて事だ。今まで彼女の事を思い出してもなんて事なかったのに、一人で日本に帰ってきたらこれか。いい加減にしろ。だがそうやって自分に喝を入れても心の乱れは治らなかった。

 とうとう耐えきれずに私はベッドから飛び起きた。そして心を落ち着けるにここから出るしかないと思い、クローゼットから適当な服を引っ張り出して部屋から出た。

 確かこのホテルの地下には深夜までやっているバーがあるはずだった。こんなことまで覚えている自分が情けなくもあるが、とにかく酒の力を借りて心の乱れを鎮めようと思った。地下へと続く踊り階段を降りると真っ先にバーがあった。私はやはりそうかと思ってバーに入った。

 バーには客は一人もいなかった。このバーはカウンターと小さな丸テーブルが3台あるだけの手狭なバーだが高級ホテルらしく内装ななかなか年季の入ったものだった。私はとにかく早く酒を飲もうとカウンターに座り目の前のバーテンダーに向かってギムレットを注文した。するとバーテンダーは畏まりましたと返事をして早速カクテルを作り始めた。本来カクテルはゆっくり味わって楽しむべきなんだろうが、今の私はただ酔って寝る事が全てであった。強いやつを何杯か飲んでそれでぐっすりだ。明日の朝には嫌な記憶は綺麗さっぱり飛んでいるはずと脳天気な事さえ考えた。バーテンダーはシャカシャカ音を出してシェイクし出来たものをグラスに注いだ。

 一口飲むと頭がグラッときた。だがこれは酔いのうちに入らない。飲み始めだから脳が過剰に反応しているだけに過ぎない。こんなものすぐにおさまってしまう。私は残りを片付けて二杯目に行こうと思ってもう一度グラスを口元に持って行った。

 そうしてグラスを空にすると二杯目を飲む前に少し佇んだ。さすがにギムレットを丸ごと一杯飲みほすとけっこう酔いもきた。これだったら二杯目は軽いものでも問題なく寝れるだろう。

 私は少々ふらつき始めた頭でカウンターの左右を見渡した。どうやらいつの間にか私の他に客が来ていたらしい。カウンターの端に座っている女性はバーテンダーに注文をしているようだった。その女性の横顔は誰かに似ているように思われたが、こちらからだと影に隠れて顔が確認できない。私は女性が彼女ではないかと慌てた。もし女性がまるで他人だったらこんな慌てっぷりは酷くこっこいな事だろう。だが私は一刻も早く去らねばと思った。しかしその時女性がこちらを向いてしまった。まさしく彼女であった。彼女も私を見て驚いたらしく一瞬大きく目を見開いていた。私はすぐに目を逸らしひたすら目の前の空のグラスを凝視した。

 異様なまでの気まずさだった。まさかかつての女とかつて一緒に泊まったホテルで出くわすとは。もう酔いなど一瞬にして吹き飛んでしまった。早くバーから出たかったが、しかし今出たらあからさまに逃げるように思われるだけだし、それは明らかにまずい事だ。かといって声をかけようにも勇気がなく、このまま他人のふりをしようにもそんな事が通用するはずもなく、結局何もできずただこうしてじっとしていることしか出来なかった。彼女もどうやら私と同じような事を思っているらしくその場から動かなかった。

 しかししばらくすると彼女の方が動き出した。私はこちらに向かってくる彼女の気配を感じ思わず耳をそばだてた。

「あの、お久しぶりです。いつ日本にお帰りになったんですか?」

 振り向くとそばにグラスを持った彼女が立っていた。私は慌てて「や、やぁお久しぶり。まさか君だって気づかなかったよ」と笑って誤魔化したが、それは全く誤魔化しにはなっていなかった。彼女は三年前とほとんど変わっていなかった。あの空港で最後に見たまんまだった。私は彼女の顔を見てやはり自分から声をかけるべきだったと悔やんだ。

「今さっきだよ。でもただの出張で日本に来ただけだよ。ニューヨークは初め一年限定だって話だったんだけど、コロナのせいで帰れなくなって、おまけにプロジェクトまで持ち込まれてさ、それで結局ニューヨークに留められさせられたのさ」

「へぇ、そうなんだ、凄い!じゃあすぐにニューヨークに帰っちゃうんですね。あっ、時差ボケとか大丈夫ですか?」

「別に問題はない」

 三年ぶりの会話であった。なんだかぎこちないような気がした。思ったように言葉が出なかった。全くどうしようもない。振った人間の方が振られた人間に声をかけられて動揺するなんて。彼女が「隣に座っていいですか?」と聞いてきた。私はああと言葉を詰まらせて同意した。すると彼女は早速私の隣にグラスを置いて席に座った。こうして近くで彼女と対面するのは本当に久しぶりだった。最後に対面したのは確か私の壮行会の時だったが、私は隠せぬ動揺を懸命に隠して平静を装い、なんとか汚名挽回せねばと萎縮し切った脳から無理矢理話を搾り出した。

「あっ、君そういえば会社辞めて自分の会社立ち上げたんだってね。あのラガーマンがさっきメールでそう言っていたよ」

「ラガーマン!」と彼女は声を張り上げたが、バーテンダーの厳しい視線にすぐに口を閉じた。

「うんうん、そうですね。あの人私が退職するって伝えた時懸命に引き留めてくれたんですよ。元気かなあの人。連絡は今も取ってるけど全然会ってないな」

「それで会社はどうなの?」

 彼女は答える前に自分のグラスを持って一口飲んだ。彼女の飲んでいるカクテルはお馴染みのカシスオレンジだった。全くそういうところは昔から変わらないんだな。甘いから好きってジュースじゃあるまいし。

「うん、それがね。結構順調に業績上げててさ。だんだん受注も増えてきてるんだよね。今はまだ個人事務所みたいなものだけどそのうちに事業所構えて本格的に行けそうな気がする」

「なるほど」

 彼女は昔とあまり変わっていなかった。いくら独立して自分の会社を立ち上げても昔のひたすら真っ直ぐな彼女そのままだった。

「それで君は何故このホテルにいるの?」

 彼女はまたグラスを取った。しかし今度は一口じゃなくて全部飲み切ってしまった。そして上気した顔で言った。

「さっきまでこの上でずっと商談やってたの。私会社立ち上げてからずっと友達のコネで仕事もらってだんだけど、今回は凄い大口の注文で自分の未来はこれにかかってるってぐらいの話だったんだ。で、その商談が見事成立したからここで自分に勝利の祝杯をあげに来たの。したらあなたがいた」

「そうか」と相槌を打って私は口を閉じた。彼女の話を聞いていたらなんだか寂しくなってきた。もう彼女の中に自分の居場所などないのだと思った。自分の中には彼女のためのスペースが1LDK以上はあるのに。しかしなんてみっともない事だ。自分から振ったくせにいつまでも未練に囚われるなんて。彼女は私から持ち去ったマフラーを郵便で返してくれた時、一緒に入れてあった便箋に『次にあった時はあなたにちゃんと向き合ってみせる』と書いていた。彼女はちゃんとそれを実行しているのにお前ときたら。

 その時彼女が私に向かってもう少し付き合えるかと聞いてきた。とりあえずバーを出て外を歩かないかと言う。私は二人ともたった一杯しか飲んでいないのでバーテンダーに気兼ねしてあと一杯ぐらい飲んだ方がいいのではないかと迷ったが、彼女の妙に訴えかける表情に負けて結局同意した。


 外に出てから私たちはホテルの前の通りを歩いていたが、その間自分から何も喋らなかった。ただ自分の近況についての彼女の立て続けの質問に答えるだけだった。そこで何かしらくだらないネタなんかを仕込めば多少話が盛り上がったのかもしれないが、残念な事に何も思いつかなかった。私はやたらに質問してくる彼女に機械的に答えている最中、ずっと今話したいのはそんな事じゃないだろうと考えていた。

 だがそれは彼女もおそらくはわかっていたのだ。いや、彼女はわかっていてわざと自分にとってどうでもいいはずの私の近況を聞いてくるのだ。私から口に出させようとして。だがいざそんな事を口に出したら結局は元に戻ってしまう。あの三年間の努力を無駄にしてしまう。やっぱり戻るわけには行かないのだ。

 ふと空を見た。相変わらず満月が綺麗だった。そういえば満月なんてまともに見始めたのはここ最近だ。YouTubeかなんかで宇宙関連の番組をたまたま観ていたら脇の番組リストに地球と月の解説動画があってそれを観て急に月の存在に興味が湧いてきて……。私は橋の前を右に曲がって近くの柵の前で足を止めた。

「あ、あの俺さ。最近YouTubeで月と地球の解説動画をよく観てるんだ。日本語と英語のやついろいろ漁ってさ」

「えっ、月だって?あなたの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。人間ってやっぱり変われば変わるものね」

「まぁ、ただの暇つぶしだよ。確かに俺は昔からSFは苦手だし、宇宙工学なんてなおさら苦手なんだけどその動画で月の地球の関係性について知ってから俄然月の存在に興味を持ったんだよね。月って存在がどれほど地球にとって重要か。月の重力がなきゃ地球はクルクル超高速で回転して、軸も定まらない状態になるから、毎日暴風雨と津波だらけの地上に生命なんて存在できない惑星になっちゃうんだよ。とにかく動画観てさ、本当に感動したよね。この地球にこうして生命が存在し続けられるのは月のおかげなんだってさ」

「解説ご苦労様って感じだけど、でもそれって小中学で学ぶ事じゃない?」

「確かにそうだけどさ。映像付きで語られるとやっぱり説得力が違うよ。驚くぐらいすんなり飲み込めるからね。月ってさ、衛星のくせに水星よりも大きいんだぜ。たしかに木星や土星には月より大きい衛星はある。だけど主星との割合でいえばどれも地球と月より小さいんだ。そのおかげで地球は隕石から守られてきたんだ。月が地球の盾になってくれるからね。俺動画観てさ毎回こう考えるんだよ。地球と月って主星と衛星の関係じゃなくって共に助け合って共存している存在だってさ。月は地球がそばにあるから彷徨わなくてすむし、地球は月があるからこそ俺たちがこうやって生きていける星になっている。それに月は毎晩こうして俺たちを照らしてくれている。あのな、月のない夜なんて本当に真っ暗らしいぞ。光が全く届かないんだってな。その動画観てからさ、俺夜になるといつも空見上げんだよね。そして月見て感じるんだよ。確かに月と共存してるんだって。俺たちには月がなきゃ生きていけないんだってさ」

 彼女は私の話をずっと不思議そうな顔で聞いていた。まぁ、当たり前だろう。私のような今まで宇宙に関心もなく、文学的な素養もない人間にいきなり月の話をされても訳がわからないだろう。彼女は私の話が終わったのを見て一息ついて空を見上げた。そのまま私たちはしばらく川岸の柵の前で立っていた。しかしすぐに沈黙は破られた。

「あの、月の話興味深く聞いたけど、結局あなたそれで何が言いたかったの?私考えてみたけど全然わからない」

 私は彼女の言葉を聞いて思わず声を上げた。わからないとはなんだろうか。まさか自分には難しすぎたなんて言うんじゃあるまいなと思った。それとも私の説明が下手で内容を全く読み込めなかったとか。いや理解力のある彼女に限ってそんな事はあるまい。彼女は続けた。

「ごめん、月の話の内容はよくわかったの。私が聞きたいのはあなたがどういう意図でこの私に月と地球の関係の話なんかしたって事なの。答えて。あなたは私たちを月と地球みたいに決して離れられないもの同士だって言いたいの?それとも自分と奥さんは月と地球みたいに離れられない存在だから私に諦めろって言いたいわけ?奥さんとの平穏な生活が欲しいから私に変な重力で自分を明後日の方向に引っ張らないでくれってこと?私何言われても平気だからちゃんと答えてよ」

 私は思わぬ彼女の言葉に唖然とした。完全に明後日の方向からの打撃だった。まさか月の話からこんな深読みをされるとは思わなかった。だがいかにも彼女らしい深読みだった。昔から彼女は私が手にしたことのないような難しい本ばかり読み、どうでもいい事でも深く考え込むタイプだった。私は彼女にそれは全て誤解だと言おうとしたが、言ったらさらに拗らせかねないと思って口を閉じた。

 すると彼女が突然早足で歩き出した。私は慌てて彼女を追った。しかしすぐ後ろに追いついたはいいが彼女に声はかけられない。二人はそのまま距離で来た道を戻った。だがその時突然彼女が止まって笑い出した。

「ごめん!ごめん!揶揄ってごめん!全部冗談だから気にしないで!」

 そう言って笑う彼女を見て肩の荷が一気に降りたような気がした。だから私も同じように笑った。

 ホテルの近くまで来た時彼女がまた話しかけてきた。

「あなたの月と地球の話聞いてて私いろいろ考えたんだ。さっき言ったように昔の私とあなたの関係を地球と月に重ねたり、あなたと奥さんを同じように重ねたり、したら今の私はどうなんだろうって考えたの。今の私は月なしの地球か、地球なしの月って感じじゃない?しかもその私は多分太陽系からだって離れているのよ。今の私を、守ってくれるものなんて何もない。何から何まで自分でやらなきゃいけない。こんな私はもう宇宙空間を漂う浮遊惑星なのよ。でもそれでいいとなんか思えてくるの。結局全部自分で選んだ道だしたとえ人の住めない暴風雨だろうが、何も見えない暗闇だろうが、全てが凍るほどの寒さだろうが、そこを突き進んでいく事が生きた証になるから」

 私は彼女の言葉の強さに感動して泣きそうになった。たった三年で人がここまで成長できるのかと尊敬の念すら感じた。と、同時に自分の未練がましさが情けなくなった。

「凄いね、君は」

「別にすごくなんかないよ。私は私の生き方を実行しているだけなんだから。それに今の私を作ってくれた人たちの中にあなたもちゃんと入っているんだからね。いろんな人との出会いが私を作ってくれた。あなたとの幸福な日々も辛い別れも全部私という人間の貴重な養分よ。あのね、今言った事ってあなたと別れてから、いつかあった時にちゃんと言おうってずっと考えていたんだ。だからそのためにはあなたにちゃんと向き合えるようなそんな強い人間になろうって頑張ってさ。だからありがとう。あなたと過ごした日々は絶対に忘れないよ」

 いい年をして自分が恥ずかしげもなく声を上げて泣くなんて思わなかった。私は彼女の三年越しの別れの挨拶を聞いて、今本当に彼女を失おうとしている事を身に染みて感じた。一体どうして彼女はこんなに爽やかに人に別れを告げられるのだろう。こんな別れの挨拶をされたら誰だって見送らなくちゃいけないって思うじゃないか。もうこれで本当にお別れなんだなと思うと次から次へと涙が出て出てきた。彼女はそんな私の肩を叩いて優しく言った。

「もういい時間だからそろそろ行くね。あなたは地球なんだからしっかり奥さんを止めとかなきゃだめだよ。私みたいなのに関わって愛想尽かされないようにね。ホラ、ホテルはもうそこだよ」

 彼女はそう言い終わるとポンと私の背中を押してさよならを告げた。そして彼女は街の明かりの中に吸い込まれるように消えていった。

 彼女が消え去って私はホテルまでの道をトボトボと歩いていた。上を見上げると真上に満月があった。私は満月を見て思った。

 自分は彼女のようにきちんと自分の過去に向き合えるだろうか。自分は彼女のように強くはない人間だ。妻という存在がありながら彼女と関係を持ち、結局は彼女を傷つけてしまった。それにも関わらず何故かこうして自分が傷つけられたかの振る舞っている。全くどうしようもない人間だ。こんな自分が過去から乗り越えるにはやはり自分が変わらなくちゃいけない。彼女のように強くあらなくちゃいけない。その時初めて自分は彼女にまともに向き合えるのだ。

 私はそのまましばらく月を見てそれから再びホテルに戻った。


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