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海外文学おススメの十冊 一冊目:トーマス・ベルンハルト『ヴィトゲンシュタインの甥』

 絶望の語り部トーマス・ベルンハルトの小説の中で個人的に一番好きな作品。この友人であった音楽評論家パウル・ヴィトゲンシュタインとの交流を描いた小説とも回想録とも読める作品は他のひたすら暗く厳しいベルンハルトの作品と違い妙に甘く切ない。それはパウルという実在の友人への想いからなのか。みすず書房版で同じく収録されているグレン・グールドをモデルにした小説『破滅者』にはこの甘さはない。それはベルンハルトとグールドに恐らく交流がなく、この小説のグレン・グールドがベルンハルトの創造した小説の主人公だからだろうと思う。しかしそれはあくまでもベルンハルトの作品では甘いと感じれられるのであって、他の小説に比べたらやはり異様に厳しい作品である。

 この作品の主人公パウル・ヴィトゲンシュタインはその名の通り十九世紀のウィーンの世紀末を芸術家たちのパトロンで有名なヴィトゲンシュタイン家の出身であり、そして二十世紀を代表する哲学ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの甥である。ちなみに同姓同名の有名な片腕のピアニストパウル・ヴィトゲンシュタインもまた彼の叔父である。巻末の解説によるとこのパウル・ヴィトゲンシュタインは音楽通としてウィーンでは有名であったらしい。だがルートヴィヒやヴィトゲンシュタイン家に関する本の中で彼に語られることは殆どなく、日本ではほとんど知られていない人物だと思う。

 ベルンハルトはヴィトゲンシュタイン家を唾棄すべきブルジョアだと憎み、ヴィトゲンシュタイン家の芸術に対する貢献を全く認めていなかった。一族がかかわったウィーン世紀末の芸術をキッチュそのものと罵った程である。ベルンハルトは哲学者のルートヴィヒはその天才性によってウィトゲンシュタイン家から追い出されたのだと書いている。そして彼は本作品の主人公パウル・ヴィトゲンシュタインもまた同様にヴィトゲンシュタイン家から追放されたと断じている。ちなみにベルンハルトによるとオーストリアに残った方のヴィトゲンシュタイン家はナチスに協力的だったらしく、パウルにとって叔母にあたるイルミーナという人は全国農民指導者という役職に任命されていたらしい。

 ベルンハルトは友人であったこのパウル・ヴィトゲンシュタインとの交流と彼の生涯について深い愛しみを込めて、彼の偉大さも、傲慢さも、滑稽さも、そしてその惨めな破滅に至るまでの過程をも余すところなく書いている。ベルンハルトの書くこのパウル・ヴィトゲンシュタインという男の話を読んで私はふと太宰治の『人間失格』を思い浮かべることがある。パウルも太宰の主人公も家と世間に追放されてついに破滅する。私はベルンハルトの書くパウル・ヴィトゲンシュタインに『人間失格』の主人公が第三者によって冷徹に書かれたらこうなったのかもしれないと想像する。そこには人間失格の自己憐憫はなく、ただそこにあふれるばかりの天才性を持ちながらついに叔父のように何も成し遂げられなかった一人の人間の姿が余すところなく記録されているだけだ。



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