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娘が「娘をやめる」とき #1

シリーズ「#7」にわたり投稿してきた
娘は、なぜ「娘」をやめられないのか?

その続編シリーズ、【娘が「娘をやめる」とき】です。

不健全な母娘関係に終止符を打つにいたった経験エピソード、そのとき何を感じ、どう分析、行動したかつづります。

今回は、#1です。


目的のために完璧に演じられる

7年間の沈黙を破った、死期迫る父の最期…

父と会う決心をした私は、長らく音信不通だった母の暮らす実家に泊まることになります。

2泊3日…

実家は、新幹線を使っても半日以上かかる距離。
面会日の前後日に泊まる日程を組むことになったのです。

「ここには何泊できるの?」
「もっと泊まれないの?」

日程調整の段階で、母自身から私を呼び寄せるオーラは漂っていました。

本音をいうと、日帰りで全く問題はなく、泊まるとしてもホテルが気楽に決まっています。

しかしそれを強行すれば、彼女はおそらく拒絶されたと受け取けとることは容易に予想が付きました。

被害者意識が強い人間には、被害と思わせないことが鉄則ですからね…

目的はあくまで「父の最期に会うこと」。
それを達成するまでは、ある程度、母の意向に合わせ面倒は避けなければと思いました。


脳内が狂い始める

母は、久しぶりに実家にきた娘に、ケーキを用意していました。

これには驚きました…

「いっしょに食べよ!」
とニコニコしながら開いた箱には、種類の違うカットケーキが4つ。
「どれがいい?あなたの好みは、これかと思ったんだけど!」

長らく想い焦がれた娘と過ごす2泊3日…。
ホントに子供のように無邪気な母でした。

私の記憶や感覚は、一気に、子供時代に引き戻されていきます
母を支えたあの頃へと、一瞬で引き戻される感覚…
体から拒否反応を感じながら、理性が現実を見ようとしていました。

自分に、母なりに歓迎をしてくれているのだ…と言い聞かせます。

7年ぶりの電話で、母を5才児だと感じた瞬間がよぎります。
75才のアダルトチルドレン…

厳格な親に育てられ、社会に出ることなく結婚、お金に不自由はなかったものの、家庭は妻に任せきりの夫、家事と子育てだけの人生、挙句の果てには夫の介護で20年を費やした母…

私は、母とティータイムを過ごしながら…

この人は、幸せだったのだろうか?
父が逝ったら、父が全てだった母はどうなるのだろう?
この人はアダチルのまま一生を終えるのだろうか?
もし私が彼女の母親代わりをやれば、親孝行になるのか?

天使の私が、ウッスラこう考えはじめたのです(汗)

悪魔の私が、
すぐに脳内で打ち消します。

「おいおい!
今までのことを忘れたのか?
しっかりしろ!」
悪魔が、現実に引き戻します(笑)


ロックオンをかわしてきた7年

「お父さんが死んだら、娘のところに行く」

父の介護に疲れ、過去に母はこう吹聴していた時期がありました。

この話は、母自身からもちろん、兄弟を通して私の耳に入っていました。

母は、父が逝ったあとの余生を案じ、娘に確約をもらいたかったのです。
娘なら家事もできるし介護になっても安心…とでも思ったのでしょうね。

兄は独身、とどのつまり母にとっては死ぬまで家政婦状態。
弟の嫁とは折り合いがよくない。
結局、最後に頼れるのは「娘」なのだ、と。

こいつがダメなら、そいつ。
そいつもダメだから、あいつしかいない。

「消去法」?(笑)

すでに私の中で答えは出ていました。
私のことも、私の大切なもの(家族)も、自分以外を尊重できない人とは、いっしょにはいられない。
頭を下げられても、暮らせない、と。

しかしキッパリと断れば、どんな形で攻撃に出るかわからないため

「兄さんが寂しがるんじゃないの?」
「夫の家だからね…夫が何て言うか」

と、のらりくらりと明言を避けつつ、絶対に承諾はしませんでした。

彼女は勘のいい人です。
「明言を避けた裏にある真意」は理解したのだと思います。
娘に脈はないのだと、その後パタリと連絡は途絶えました


3日間の軟禁で脳内がバグった

自分の中ではとっくのとうに結論が出ていたはずなのに、私の脳内は加速度的に狂い始めます。

ケーキは導入に過ぎなかったのです。

久しぶりに娘の好きなものを作りたいと、あらかじめ買い込んでいた食材で作りはじめた料理にも気合いが入ります。

なんだか、自分と距離をとる娘に媚びているようにも感じました。

食事をともにしながら、序盤は散々グチにつき合わされます(笑)

そして会話は自然と、30年にわたる母娘の軌跡になっていきました。

最初のうち私は
「あの時は〇〇だったからね…」
「だから私は〇〇したんだよ」
と、事実を淡々と答え、そのときの感情には一切触れませんでした。

母にはすでに何も求めていなかったから、言う必要がないからです。

ところが母はしだいに、
今までしてきたことを悔いたり、過去のあやまちを認め始めます

「ごめんね…わたしはひどい母親ね」
「いったい何をしてきたのかね…」

正直、こんな母をみるのは初めてでした。

悪いとわかっていても、認めるなど一切しなかった母…
いつも怒っていて、何でも人のせいにしてきた母…

ちなみに私はこの3日、絶対に母とムダな言い争いをしない、絶対に母を責めるようなことは言わないと、心に決めていました。
それで、こんな運びになったのかもしれません。

しかし、どこか俯瞰でみている自分もいました。
何か、あるのでは?と…
母は「徳を積む」ような人間でないことは私が一番わかっていたからです。


最期の面会

父との面会では、変わり果てた姿に涙が止まりませんでした。

顔を見てもお互い何も話すことはできませんでした。

父は最後に手を差し出して握手を求めてくれました。
交わした握手は、最期とは思えないほど力強く、その感触はいまも手の中に覚えています

母によると、入院してからは、私の名前をときおり口にしていたようです。
「元気にしてるのか?こっちには来ないのか?」と。

もうそれだけで十分でした。


バグったあげく、別れ際にハグ

母と膝をつき合わせて語った3日間で、彼女は、自分の言動の半分も覚えていないことがわかりました…

バカバカしくて、笑うしかありません。
親の記憶にも残っていないことに30年も苦しんできたのかと(笑)

それでも、母からの「後悔と反省」の言葉が、私の心を大きく揺り動かしたのは事実です。

私の心からは、こびりついた憑き物がツルンとそぎ落ちていたのです。

そして、母がスッカリ入れる幅にはほど遠いけれど(笑)、
最終日に私の心の扉は、ほんの少し開いた状態になっていました。

父と会えた達成感と満足感も相まって…
最終日の別れ際、なんと私は母にハグをしていました。

「もう少しの間、しっかりね!」

父が死ぬまで、気丈にがんばれと、励ますつもりで言いました。

日帰りやホテルを画策していた者と同一人物とは思えませんね(笑)
自分でも、驚きです。


父への手紙…これが思わぬことに

色んな気持ちが混在した「ハグ」だったように思います。

父に会えたことへの達成感や満足感。
母への20年のねぎらい。
過去を精算できたことによる、未来への淡い期待。
近々訪れる父との別れに対する、母への鼓舞。

そのあと家にもどった私は、余命わずかの父に、週に1度、手紙を出すことにしました。

たとえ一方通行でも、
定期便があれば未来に希望がわきます。
それによって、少しでも命が永らえればと思いました。

それに、父が私を気遣っていたことを知り、最後くらい何か親孝行をしてあげたいと思ったのです。

母の手をわずらわせることはせず、病院に直送して看護婦さんから父の手元に渡るよう段取りもしました。

けれど母は、その行為に難色を示します…

父は母のものなので…母の気持ちを無視してまでやることではないし、また母とこじれても面倒なので、一度は諦めかけました。

しかし結局は、手紙がきっと父の喜びになるだろうという気持ちにいたり、許可が出たのです。

このときは私は、母がなぜそんなに嫌がるのかわかりませんでした。

そして、5通目の手紙を投函したころ、訃報が入ります…

父は5通目の手紙を読むことはできませんでした。

握手から1ヶ月後、父は静かに旅立ちました。


父へ宛てた5通の手紙…
この手紙が、母娘に黒い影を落とすことになるとは…
想像もしませんでした。

それから1年後、
父の1周忌を最後に、
母娘の関係にピリオドが打たれます。


#2につづく…



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