なにもできない人

勝手気ままです。 頑張って生きたいです。

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最近の記事

日記 3/2~4

──────────── 3.2  批判すること、中立を忘れずに意見すること。これは自他共の意見を揺るがないもの、信念(空隙持つ人という個別であり且つ、綜合として普遍的な威力を持つもの)を明らかにするための手段であり、それ以上の目的も力も認められない。その批判を(ドグマ・独断ではなく)乗り越え反駁され続けることを喜びとし、道徳的な──その個人としてあるべきとしてある──人間への止揚を快ぶべきであるだろう。  自由意志:必然性こそにある?……「身体の反応の仕方がつまびら

    • 日記 2.11

      1、我々全員に課せられた思慮せざるを得ない問題……①食料問題、②環境・エネルギー問題、③人口問題⇒これら各々が異なった問題ではなく、無関係でもない人の認識、欲求、過去の内省と未来への考慮、全体と個人の両契機など、あらゆる現象と行為を含む綜合としての(一としての)人が抱えている性質(或いは本質)に依るものだから。 ・分かりやすい問題原因……人間本性、その内省不足、享楽主義(未来の生の価値不在などによる?)など生の価値消失、目前から目を逸らすことへの恐怖、資本主義の台頭、神(超

      • 日記 2.12~20

        ───────────── 2/12  なぜ、人はあるものを自らの下において(思想や真理、名誉や立場など)優越や安心を得ようとするのか?それが、生を、現在を肯定するのに有効であるがゆえに欲するというものでしかないのなら、他のもので代用可能だろう。例えば、自己というものが否定しきれない存在であり、共通性(相対性)を持っていてもそれが及ばない空隙(存在)を持つものだ、と確信できることなど。でないと、独善による無駄な差別、苦しめの竹箆返しを受けるだろうから。  差別や偏見:①

        • 2/8

           「なにを泣いているんです。そんな陽の当たらないところで。」  穴ぐらの中で丸まっている人がいた。それはとても暗くて影に隠されていたため、誰にも気づかれないだろうものだった。啜り泣く音が、小さな穴に反響して幾重にも増幅されなかったのなら。  その人は、段々と声を小さくしながら、しばらく経つとこちらを振り返った。その目は陽光に耐えきれず、さっと目を伏せた。その背中は歩くことを忘れた団子虫のようだった。  「ときどきの欲求に流されて生きてきたから。遅すぎたのです、人は綜合に

          優れたものの中を進む、求める

          すべてが開かれてあれば良かったのに、と思う。 そうすれば、道徳や非在のパラドクスが無かったろう。諍いや、決めつけや、他物への支配や、誤りだって無かっただろう。悪はなく、善という快に包まれていただろう。 しかし、それは、そうでなくあるものの空想という希望でしかない。それがあることの発展過程を考慮せず、数多くの問題も同時に含んでいることを無視している。 少なくとも、我々という存在はそれを求めなかったし、そうあるべきではなかったから、この万物の関係のなかにいる。変化と、様相と

          優れたものの中を進む、求める

          独善

           その夜は星が雲で覆われており、空と海の境もなかった。  はぁ、はぁ、と激しい息遣いと波をかき分ける音のみがその静寂で孤立している。  漠然とした意識の中で、ふと目を手元から離す。薄青色が行く先を包んでいた。その時になって、私は目的地が目前であることに気がついた。  〈やっと、やっとだ……これで報われる!〉疲れもふっ飛び、櫂を持つ手も力強く、早くなる。もはや、思考する余地もなく、ただ、喜びの中で必死に体を動かしていた。  黒い帷から瞼を開けると、白天井と白い服に包まれ

          誹謗中傷で考えたこと

          なんか数ヵ月前に書いてたやつ思い出したから、こんなんかいてたなぁと覚え書きとして置いておく。 ─────── コロナで感染者に対する誹謗中傷や、差別が問題となっているらしい。 それは、ペストの時のユダヤ人迫害とほぼ同じだ。なのに、新しい問題であるかのように扱ってるように思える。全く理解できない。 基本的に、差別や中傷(道徳の権威を借りること)は、社会によって発生する。社会が存在しなければ、道徳や他者への権利の優越欲だって起こり得ない。全くもって錯覚だ……とは言わないけ

          誹謗中傷で考えたこと

          しぬまでひと

           人間は知識を得ることにより……素朴な感覚や直観を無視できるし、進んでそうしようとする。無知を嘲り、優越を誇ろうとする。  それは、努力は報われて力となるはずだとか、力は他物を支配することを可能にするはずだとか、そういった感覚に基づくように思える。それこそが素朴で自覚されていない感覚だというのに……。  存在という檻の中で人は全てを知れず、常に蓋然的な憶測の域を出ない。それらはそれらのみで測られ、それぞれ統一として比べられるなら、同値なものに過ぎない。外的な経験を経れば経

          おどれる散歩

          1  社会は大体、役割への適合が求められるが(それに妥協すること、つまり自己を部分的に捨てること)、それが自己矛盾・分裂を生むのは当然だ。 2  自殺する諸契機……①自己は自己の意志のみで世界を象ることは不可能であり、他者規定が必然とされる。しかし、他者による規定だけでは自己を捨て去ることになる。自己の絶対性への感覚と他者による不安定な承認の力の大きさ(慰め)の衝突・優勢に自己が無意味化する。②様相の自由さと現実のギャップに絶望する(4)。他には何があるだろうか……

          10から1へ

          コールタールの海の上 行為は彼らを苦しめるか? 空は深海から浅瀬へ、暖められた砂へ身を休ませ、また海へと還る 神は無関心に帳尻をあわせる、意志なき必然として 君は気付く、アスファルトの固さを、発する口々の喧しさを おぉ、仏陀よ、キリストよ、ムハンマドよ、ツァラトゥストラよ、数々の言葉たちよ、イェイイェイェ 堕落させる肉として人を生かせ、死を忘れないように

          そこではないここ、かきなぐり

           対立が存在することの本性である。それは万物であり、人を絶望させ、懐疑に走らせ、神を生み出し、一となる。  ──自己保存の根元的欲求……なるたけ合理的に生きること、生存へ(それが不安の根源であると理解しつつ)不安を感じないような静謐を求めること。死を捉えつつ、その虚無と向き合うことから目を逸らすための死後や子ども、ミームの永遠性という外在的価値を求めること。  ──普遍的自己価値の外在……社会への帰属、原理の定礎、信仰、またその独断を普遍にするために多くの意志により承認さ

          そこではないここ、かきなぐり

          深遠って真円

          不思議だよね。 何処からみても一様であり、変化しても影響されない、始まりも終わりも不定なのに、確実に存在せねばならないなんて。まるで宇宙だ。あるいは(似た意味だが)神か。 いかなる不和もなく、ハルモニエのみが支配する。あることは(理想としては)認められるし、表象もできるけど、実際現すのは不可能かもしれない(無限に微少な狂いも許されないから)。 幾何学は、数学と同じように人間の認識に沿った現れ方の基本型ベースであり、対応されたものとして記されたもののように思える。そのびっ

          鰯に現われを見た

          8/12 ──────  苦しみの大半は私が与える。  世界でもなく、他人でもなく。  世界の在り方など、無視できる。他者の相対など幻想にすぎない。  しかし、私は違う。私の在り方はそう簡単には変わらない!それがわかってしまっているから。  何ものにも勝る苦しみを、この私がもたらす。  たとえ、他者との比較を無に帰し、世界の在り方を恣意的で根本的に異なるものと斥けても、「なら、なぜ行為しない?どう為すべきか知っているはずのお前が、なぜそれをしない?結局、苦痛から

          鰯に現われを見た

          なんもしたくないこと

           過去あった自分を反省し、今ある自分を批判し、未来あるべき自分を創る。  自分とひたすら向き合い、「自分はどういう存在で、どう生きるのがよいのか?」と問いつつ、様々なものを見て、経験し、思考を、自己を拡げていく。そんな生が送れたらなぁ……と思う。  しかし、そんなこと言ってみろ、「何言ってるんだ、お前は?そんな現実逃避なんかしてないで、ちゃっちゃと社会の中で他者に尽くして死んでいけ。それが、お前にとって最大最上級の幸福と知れ。」と袋叩きにされるのがオチだ。ごもっとも。

          なんもしたくないこと

          掛け値なしに信じられるか?

          「何で、宗教なんてやるんだろう?」 という素朴な疑問は、決して宗教批判ではなく、むしろ宗教に近い場にいたから出てきた疑問だ。 私は、親が信じる宗教を「信じなさい」と言われてやってきた。まあ、家計とか不登校とか、色々大変だったし、実際それで(私も家族も)かなり救われてきた。 しかし、箱の中で生きてきた私も、大学とか活動とかを通してやっと世界に顔を覗かせた。 「あれ、なんでこんな根拠も無いようなこと、信じてるんだ?私の意志は?」 と当然の疑問にぶつかった。 説得力を持

          掛け値なしに信じられるか?

          「わかるけど、わからん」

          このようなテキトーに発信したり、受け取ったりする場があるのはいいよね。 本当は、公園でベンチに座ってる人に「あなたは誰ですか?」と訊ねたり、美術館のロビーで「自己ですか?普遍ですか?」と話し込んだりできればいいけども。 しかし、そんな勇気も社交性もない……!本を書くほどの知識も教養も、社会の空気を読む力もない……! ということで、このnoteをその捌け口にできたらな、と。 私が、主に興味があるのは、哲学と美術・芸術及び美学です。しかし、あまりにも浅学非才、思ったことを

          「わかるけど、わからん」