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鰯に現われを見た

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 苦しみの大半は私が与える。

 世界でもなく、他人でもなく。

 世界の在り方など、無視できる。他者の相対など幻想にすぎない。

 しかし、私は違う。私の在り方はそう簡単には変わらない!それがわかってしまっているから。

 何ものにも勝る苦しみを、この私がもたらす。

 たとえ、他者との比較を無に帰し、世界の在り方を恣意的で根本的に異なるものと斥けても、「なら、なぜ行為しない?どう為すべきか知っているはずのお前が、なぜそれをしない?結局、苦痛から逃げ、思惟という道に逃げているだけではないか。」と責め立てる。

 自己矛盾だ。たとえ、人が矛盾を孕むものだとしても、それが許される範囲と、破滅してしまう範囲はあるはずだ。階層さえ違うと言えば、それは認められるはずだ。

 矛盾しすぎないようにいきるのか。それとも、統一という、異端を悉く排除する原理に安らぎを求めるか。
その二者すら斥け、新たなる知を上昇するか?

 アイロニカル、それはあまりに孤独で、強さが求められる、無限の破壊である。


8/13

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 私の求めるところは、「何が正しい・妥当であると考えられるか」をではなく、「数多ある思想を同時に持ち合わせ、それらを混沌でありながら、斉一性をもって形──絵画であったり、散文であったり──にしたい」。そのための学びであり、経験である。正しさなんて、端的に与えられたものしか持てないのだから。

 純粋な美は、カオスでありながら、一筋の揺るがないコスモスを持つのではないか。

 残酷でありながら、暖かみをもちながら、苛烈でありながら、静謐でありながら、暗く沈みながら、明るく輝きながら。互いに関係し、補い合い、集合と空が、デュオニュソスがアポロンと一体化する。


8/19

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 人間という存在そのものの意義とは何なのか?

 生まれて、他人に迷惑をかけ、排除しあい、苦しみあい、憎みあい、互いの不幸を願う。それは人間の一側面であり、道徳は誰かの不幸を誰かの幸福で──それが美しいものであるかのように──正当化もする。

 生きる理由なんて個々にある。その価値を基礎づけているのは、社会や他人の評価だ。他者に悪と見なされれば、それは罪となる。

 しかし、基体である私は?その意志すら汲まれず、「不幸だ、背徳だ」とされる私の価値は?個人の思想なぞ、独断論だと切り捨てられる。他者に伝わらない表象なぞ、なんの意味も持たない。

 他者にのみ理由を求めるのは、売られている切り身からその魚の生態を想像するようなものだ。

 幸福なんてたった一時の麻薬だ。すぐに尽き、次の慰めを乞う。酒も、人からの認められることも、苦しみを緩和するためのものであり、決して治療薬ではない。それを得るために蹴落としあい、上がれなかった者はルサンチマンとなる。

 なのになぜ、私の根拠を誰かに預けなければならないのか?それこそ、その個人の自立を、理性能力を、人間の価値を軽んじた──尊厳の欠如ではないのか?

 孤独死の何が悪さを持つというのか?人は世界と隔絶して成っているというのに。

 死の何が悪いというのか?誰にでも訪れるものであるというのに。

 適合できないことはどれ程の罪なのか?その価値への、自由意志など介在する余地もないのに。

 しかし、こんなこと……他者に寄りかかり、充足しているような人間にとっては、世迷い言に過ぎない。ならば、語る言葉は一つしかない。

 「あなたはそれに満足できたかもしれないが、私はできない。この自己の苦しみは、自己の根本をねじ曲げ適合させることに比べれば、まだ一層、心地よいのだから。」と。

 ただひたすら苦悩し、闘うしかないのだ。自分以外のすべてと。そうでなければ、甘えずに社会に対して頭を下げるべきだ。でなければ、価値定立の婢にもならない、粗大ごみでしかないのだから。

 結局、人間はなぜ、存在するのか。刹那の生は苦しみにせよ幸福にせよ、それらの意味を測るには短すぎる。だから、同じ過ちと誤謬を繰り返す。

 苦しみという機能は、他者を生存の利点より大きな痛みと絶望をもたらす。そこでは死が救いとなる。
幸福という薬も、発作を止める位にしか役立たない。病を治してはくれない。

 なぜ、人間はそのように存在するしかなかったのか?創造主はそのように創ったのか?自然はそう仕向けたのか?人はどこを目指しているのか?どこへ目指すことを決定されているのか?超-人間なるものが存在するとして、その足掛かりでしかないのか?

 「答えなんてない」というのは返答にはならない。そうして無批判に、無気力に生きることこそが一つの答えに他ならないのだから。

 ネーゲルは……こうした二分方への、体系理論への反駁を捨てないように促す。常に答えを求め続け、長い間答えのでないことに耐え、説明できない直感を無視せず、明晰な表現と説得力のある議論という正当な規範に従うようにすること──それが、根本的な懐疑を経た、自然的な態度にアイロニカルな風味を加える。それは無価値では決してない。

 人はその存在そのものの意義にかかずらうことから逃げてはいけない。過去・現在・未来の人間の価値が、存在意義が死ぬかもしれないから。強く生かすのはあなた(私)たちしかいない。

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