日記 2.11

1、我々全員に課せられた思慮せざるを得ない問題……①食料問題、②環境・エネルギー問題、③人口問題⇒これら各々が異なった問題ではなく、無関係でもない人の認識、欲求、過去の内省と未来への考慮、全体と個人の両契機など、あらゆる現象と行為を含む綜合としての(一としての)人が抱えている性質(或いは本質)に依るものだから。

・分かりやすい問題原因……人間本性、その内省不足、享楽主義(未来の生の価値不在などによる?)など生の価値消失、目前から目を逸らすことへの恐怖、資本主義の台頭、神(超越存在、倫理への考慮、慎みなど)の殺害、諸法則の支配優越、あまりにも大きい力(現象の精緻な理解による)の獲得、技術のみの哲学の無い個別的なもののみの考慮、庶民に学問(≠知恵)が降ろされたこと(言葉としての内容無き知識へのすり替え、技術的に有効なもの、欲望を満たすのに役立つものとしてのみ強い発展の方向を持ったこと)など……どれによって、とはいいきれない?遠大で複合的な、また同じ原因根本を持つ、同値な原因(たち)による?

①食料問題:増えすぎた人口(場所、数の問題)、手頃で多くの資本を得ることへの欲求など。②環境・エネルギー問題:人間がすべてを支配できる(与えられている、自然に対し超越的である)とし、犠牲や調和などの先のことを考えずに有効性や利便性を重んじ、ときどきで恣にしたこと、③人口問題:定言的に生命があることは善であるとしたこと(死というものが持つ救いや生そのものの苦しみを考慮せず、生きている人間の側からしか捉えずに)、またそれが一面的に過ぎないにも関わらずあらやる状況に対し規定性を持つものとしたこと、或いは単純な労働力や自己保存(現在の肯定からくる未来志向性)が、状況が変わっても有効な信念としたこと(実際には、社会相対的な、文脈依存の付帯的なものに過ぎないだろう)⇒これらから考えられるのは、(一)欲望の統制不足、その可能への無思慮:人がその場その場の欲望に従い、個人や人間本位の、体系的で全体的なものの見方を考慮しなかったこと(また、それを欲望で押し潰したこと)、また、その欲望を満たしあうことを発展や自身の力であるとしたこと、唯物論による理性主義やそれに従うものとしての有効性の重視、資本主義、民主主義などによる助長(権力はどんな形であれ、民衆の承認によって成り立ち、その根本・綜合における普遍的な正しさを考えさせずに、且つ、未来への意志ではなく場当たりの形式・欲求を満たすことで己が力を示し、また保持させようとするだろうから)、その流動的原因、また大きなものとして、(二)人間の本性への無思慮、体系(全体)的発想の不足:有効性や効率という個人・人間主観のみから考えたこと、その外(相対主観や人の及ばないものとしての神など)を考慮しなかったこと、それを知りつつも身近な事ではないため、更なる追求や実践行為を伴わず、欲望の為すがままにしていること、また、歴史・経験における様々な事物の因果関係、人間と自然の関係について内省すること、つまり「我々はどういう存在で、またどのように生きるべきあるか」をそれぞれが考えること、相対と絶対、自己と他者、実践と理性、知識と思惟など綜合として考えることに真摯ではなかったこと……などが言えるかもしれない。

2、諸手段:(1)ある一定の社会的弱者(その図式は、今とは異なるかもしれない。食糧を多く抱える者やエネルギー、労働力を持つ者たちが支配的になる可能性も十分にあるから)を切り捨て解決を図る。しかし、その放縦の欲望を抑えない限り、同じ問題が引き起こされるだけだろう。また、切り捨てられる者たちはそれに黙って従うとは考えにくい。その方向へ人を教化する以外は(例えば教育。「我々の未来には苦しみや問題しかない」という事実を提示し、自殺や子孫を残すことへの欲の減少を促すなど。未来と過去は不可分だろうから)。(2)他者も自らも犠牲にすることから逃げる。その先伸ばしは、問題のげんいんをかかえたままなので、より大きな苦しみと破滅(自然災害、殺し合い、疫病など、ある種の地球というある全体の自己保存といえるか?)を味わうかもしれない。より高く振り上げられた刃が、より深く肉を抉るように。しかし、生への無気力や絶望(現在の否定、自死や子供を残さないなど)により、自ら(自然的な原理に則り)その数を減らし一時的な解決を得るかもしれない。結局、その原因や諸問題の関係を見ないでいることは単なる集団自殺だが、人はそこまで完全でもなければ、理性だけでもない。(3)全員で痛みを共有する。全員といっても、欲望を恣にする(力を持つと自称する)我々だけであろう。それは、過食や虚飾を捨て、利便性を捨て、無駄な仕事を減らし、自ら自足できるように農工牧畜を行い、人を増やしすぎないように調節し、延命や医療に頼りすぎない(それらは理不尽に人を殺しきるものではないから。はたまた、救える命以上の死と生の苦しみ生み出そうことを強要しえようか?)人間の持つ本来的な抵抗力を引き出しそれに任せる……というような生を行うことだ。最も道徳的良心の痛まない手段ではあるが(全員が同じだけの権利を捨てるという形で平等を実現しようというのだから)、犠牲は尽きず、その当事者たちにとっては承服できるものではない。たとえ、それが正しいことであるにせよ、個々の人の判断である以上、絶対性を持つことは極めて難しい。人の判断には個人・自己・特異性と全体・外在・同等性という対立が生じてしまうだろうから。

・これらから、或いは他の方途を探すにせよ、まずすべきはその原因を追求し、試行錯誤していくことであろう。それには、ある特定の一つ二つの何かが──例えば、医療や科学が──原因であると甘んじるべきではない。たしかに、それが眼に見えるかたちとして現われた直接の原因ではあるかもしれないが、それを生み出し求めた傾向、表出されたそれを自らに適うものとして欲した我々という基体の承認、個人々々の意志や信念、譲れない生と全体・社会としての意志や存続の欲求、構成員への規定などの相互関係性、諸々の原因の原因の想定や人の不完全性の考慮、或いは本来の動機やそれらを歪めたもの(宗教における社会権力による利用、その関係など)も合わせて考えなければならないだろう。

・引きこもりやニートを無理矢理に連れ出したり、働かせるための制度を整えたりするのは必要だが、それだけでは問題は解決しない。燃料を食み燃え盛っていく火に数敵の水を掛けるのではなく、火の元を解体しないことには。

・例えば、ニートが仕事を紹介され、それを行うとする。それは、誰にでもできる取るに足らないものであっても、充足感と他者による自己承認を得られたと感じるだろう。しかし、誰かに或いは自己自身で、「このような仕事は自分でなくともできるだろう?また、こんな生死がかかるようなものではない仕事に意味はあるのか?かといって、親や社会によって扶助されうる生に、いかなる意志と自己価値があるというのか?そうでなくても、価値なんてないのに?」と懐疑し、虚無にはしるかもしれない。そこには、脆い自己規定の足場しかないから。そしてそれが引き籠りになる原因であったとすれば、画一化された制度を表面的に弄るだけでは解決するものでない。もっと根本的な、その社会そのものが備え、それを成り立たせる性質に問題があるだろう。つまり、それは社会と自己(人)の内在する問題であり、個人性と人間の本性、そこから離れた社会のあり方から思慮される。それは何が表層的なもので、何がその存在のあり方が抱える問題かを常に疑い、揺るがない真を示せるか、という態度も求めるのではないか。

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