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おどれる散歩

 社会は大体、役割への適合が求められるが(それに妥協すること、つまり自己を部分的に捨てること)、それが自己矛盾・分裂を生むのは当然だ。

 自殺する諸契機……①自己は自己の意志のみで世界を象ることは不可能であり、他者規定が必然とされる。しかし、他者による規定だけでは自己を捨て去ることになる。自己の絶対性への感覚と他者による不安定な承認の力の大きさ(慰め)の衝突・優勢に自己が無意味化する。②様相の自由さと現実のギャップに絶望する(4)。他には何があるだろうか……

 目指される人間の歴史の否定は、即ち人間の歴史全てと真摯に向き合い、精査する絶対的肯定を必要とする。一番の罪は"それは当たり前であったり、精査された必然的な批判を抱くことへの(自己矛盾を生む)不安と向き合うことから逃げること"であり、それは対象に対する否定(批判に非ず)である。肯定は否定性をすべて乗り越えた先に為される。

 動物は滅多に病まない。知覚だけではその現実は必然的な繋がりでしかないし、様相など無意味だから。絶望はここではないことからくる(現実との比較、想定の相対、だから人はその能力が発達しているがため苦しみを創造する?)。例えば、病気で苦しむ人は、医療従事者や退院した人たちの生きる苦しみを想定せずに楽に生きていることだけを想定したり、病気ではない自分を想定し(それも苦しみを大幅に除去された)それとの相対による自己分裂(想定的矛盾)で絶望する。

 なるべく多くのもの(思想、個人)が記憶や記録として残るべきであろう。それとの寄り添いが、人類史、すべての存在への懐疑を経た肯定が個人レベルで行われること、全体との関わりがつまびらかにすることがより良い(絶対な完全でなく)生や社会を形作れる(失敗しても、各々が意志したことが残ることが重要)。

 どんな認識・思惟にも否定性が伴う。それは、存在すること=分断されることからしてそうである(綜合として、類似かつ空隙)。どんなに社会へ適応することに(外在的な価値を想定し)自己を置いたとしても、厭世的なインモラリズム(個人主義)がそれと対立して現われる。そしてやがて生と死という根源的な対立に巻き込まれ、死後に意味を見出だしたり、生の享楽を謳ったり、虚無や思考の放棄を生み出したりする。こうして考えることも、単なる存在の慰めでしかなくなる。それは、あらゆる認識・表象の結び付きと分離の統一としてある。

  宇宙は静止した安逸も、絶えざる変化も求めていない。どちらかであれば人は──必然の中での緩やかな死か、思考を奪われ偶然に振り回されるだけの消滅か──悩みや苦しみなどなく生きていけただろう。生きるゆえの懐疑もなく、死という楽園に逃げることも無かっただろう。いや、そもそも生まれることすら無かっただろう。神はなんと無慈悲で無関心なんだろう!

 神は決められた形のサイコロを、何千何万と振る。それゆえ、存在は隔たれた個別であり、本質を持つ全体として統一されている。

 人は──陳腐な作品や単なる与えられた言葉で──人との繋がりが最も美しいもので、幸福の絶対必要条件であると語る。また、こうも語る……「本当に孤独で生きることを望むような人間はいない。そういった人間は、人との繋がりの心地好さに触れたことがないか、悪い面のみを知っているのだ」と。

 だが訊きたい、あなた方は孤独の何を知っているのか、強制的に人と共生させられるよう矯正される生において?環境において、前提において、確かにそれは普遍化による肯定と安心を与えるだろう。しかしそれは、そうあることしか知らないし、またそうあって欲しいという願いによる安逸だ。

 そうした普遍化への努力(押し付け)こそ、支配と闘いの契機である。そうした契機を経て孤独な人間は、人との間で生きることが苦痛でしかない、孤独で生きるべき人間となる。そしてそれはどちらかが──暴力という名の──力によって支配されるものではない。空を飛べる鳥が地上に這いつくばる人間の生き方なんて考慮も規定もできないのと同様に。その傲慢さとドグマを知り、乗り越えて自己へと帰ることで閉じた瞼は光を得る。

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